第30話:女神の門
ついにたどり着いた。
世界の最果て、天界へと続く巨大な門。
その前に、光り輝く女性が立っていた。
この世界の創造主であり、管理者である女神だ。
「よく来ましたね、愛しき罪人たちよ」
女神の声は慈愛に満ちていたが、その瞳は冷徹だった。
彼女の手には、黒い帳簿が握られている。
「あなたたちは、多くの『反省文』を改竄しましたね。その罪は重いのですよ」
女神は帳簿を開き、淡々と読み上げ始めた。
「時計塔の老人ガレン。彼は娘を死なせた罪を、時間を止めるほどの後悔で償うべきでした」
「歌姫セレーナ。彼女は天から与えられた才能を放棄した罪を、沈黙の苦しみで贖うべきでした」
「画家のヴィンセント。彼は自分を偽った罪を、自己否定の痛みで浄化すべきでした」
女神は私を見据える。
「痛みこそが、魂の汚れを洗い流すのです。反省文なくして、魂の救済はありません」
彼女の言葉は、論理的で、正しかった。
この世界が「牢獄」である以上、罪を償うことは義務だ。
けれど。
「違う!」
アルト師匠が叫んだ。
彼は一歩前に進み出る。
「痛みで汚れを落とすんじゃない。愛で満たすことで、汚れが入る隙間をなくすんだ!」
「愛……ですか?」
「そうだ。ガレンじいさんは、娘への愛を思い出したから、時計を動かせたんだ。セレーナさんは、自分への愛を取り戻したから、また笑えたんだ!」
アルト師匠は、腰の「空白の本」を取り出した。
かつては黒い靄で満たされていたその本は今、眩いばかりの金色の光を放っている。
「あんたの言う『反省文』は、全部俺たちが書き換えた。読んでみてくれよ。これが、人間が本当に書きたかった言葉だ!」
彼は本を女神に差し出した。
女神は躊躇いながらも、その本を受け取り、ページを開いた。
その瞬間、ふわりと風が吹いた気がした。
それは、パンの焼ける匂い、潮風、そして雨上がりの土の匂いを含んでいた。
女神の長い睫毛が、微かに震える。
彼女の手元にある黒い帳簿――罪の記録が、端から白く変色していくのが見えた。
まるで、インクが水に溶けて消えるように。
張り詰めていた彼女の肩のラインが、ふっと下がった。
完璧な彫像のようだった彼女の顔に、血の気が通い、人間のような柔らかさが戻ってくる。
彼女は深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
その吐息が、私の頬を温かく撫でた。
「……なんと」
女神の瞳が揺れた。
彼女は何万年もの間、罪人の「苦しみ」しか見てこなかった。
だから知らなかったのだ。人間がこれほどまでに温かく、柔らかな「風」を生み出せることを。
「私は……かつて、人間に自由を与えました」
女神が静かに語り始めた。
「けれど、自由を得た人間は争い、傷つけ合い、世界を壊そうとしました。私は絶望したのです。だから、感情を管理し、痛みで縛ることにしました。それが、あなたたちを守る唯一の方法だと思ったから」
彼女の声には、深い悲しみが滲んでいた。
それは、子供を信じられず、部屋に閉じ込めてしまった母親の苦悩のようだった。
「でも、それは違う」
アルト師匠が言った。
「傷つくことも、間違うことも含めて、俺たちなんだ。あんたが守ろうとしたのは『人間』じゃない。ただの『人形』だ」
「……人形」
「俺たちは転ぶ。でも、立ち上がることもできる。誰かを傷つけることもある。でも、謝って、抱きしめ合うこともできるんだ」
私も声を上げた。
「もう、許されてもいいはずです。彼らは罪を忘れたのではありません。罪を背負ったまま、それでも前を向いて歩き出したのです。その強さを、どうか信じてください」
女神は長い間、沈黙した。
やがて、彼女は本を閉じ、ふわりと微笑んだ。
「……そうですね。私は、あなたたちの強さを侮っていたようです」
彼女は手元の黒い帳簿を撫でた。
「では、私の『詩』も見ていただけますか?」
「え?」
女神が帳簿の最後のページを開く。
そこから、黒い靄ではなく、青白い光が立ち上った。
光は空中に投影され、一つの映像を結ぶ。
それは、何もない真っ白な空間で、たった一人で膝を抱える女性の姿だった。
彼女は泣いていた。
何百年も、何千年も。
誰にも届かない声で、助けを求めていた。
『誰か、私を止めて。……寂しい』
映像の中の女神の声が、私たちの心に直接響く。
これは、女神自身の反省文。
何千年も、たった一人で世界を管理し、人々に痛みを与え続けてきた彼女の、凍りついた孤独の記録。
「女神様……」
アルト師匠が、痛ましげに眉を寄せた。
彼もまた、幽霊王として孤独を知る者だ。彼女の痛みがわかるのだろう。
「あなたも、待っていたのですね。誰かがここへ来てくれるのを」
私が言うと、女神は寂しげに微笑んだ。
「ええ。でも、もう大丈夫です。あなたたちが来てくれたから」
映像が霧散し、光の粒子となって消えていく。
しんみりとした空気が流れる。
女神もまた、救われるべき存在だったのだ。
私たちは互いに理解し合えた。そう思った。
しかし。
女神はパタンと帳簿を閉じ、ニッコリと笑った。
「では、最後の確認です。こちらの記録はどうでしょう?」
彼女は別のページを抜き出した。
そこから、今度はピンク色の派手な光が立ち上り、映像を結ぶ。
「これは、ある少年の『反省文』です。8年前の記録ですね。タイトルは……『俺の初恋と、屈辱の夜』」
「タイトルやめろおおおお!」
アルト師匠が絶叫するが、女神は止まらない。
映像には、10歳のアルト師匠が映し出されていた。
彼は鏡の前で、必死にポーズの練習をしている。
『今日、孤児院に天使が来た。名前はココロン。髪が桜色で、すごくいい匂いがした。俺は決めた。この人を嫁にする。シスターには内緒だ』
「わあああ! 見せるな! ココロン、目を塞いでくれぇぇ!」
『俺は花束を渡した。プロポーズした。完璧だったはずだ。なのに、彼女は笑った。「ふふ、もう子供なんだから」って』
映像の中の少年アルトが、枕に顔を埋めて足をバタバタさせている。
『クソッ、クソッ! 子供扱いしやがって! あの笑顔、ムカつくけど可愛い! 悔しい! 枕が涙でびしょ濡れだ。でも、俺は諦めない』
『明日から牛乳を毎日1リットル飲む。嫌いなピーマンも残さず食う。そしていつか、あいつの背を追い越して、壁ドンしてやるんだ!』
少年アルトが、壁に向かって「ドン!」と手を突く練習をしている。
しかし背が低すぎて、壁のシミに届いていない。
「壁ドン……!」
私が思わず呟くと、現在のアルト師匠はその場に崩れ落ち、地面をバンバンと叩いた。
「殺せ……! いっそ俺を殺してくれ……!」
女神はさらに続ける。
『そして、耳元で囁いてやる。「子供扱いするな」って。その時、あいつがどんな顔をするか、今から楽しみだ。……大好きだ、ココロン。早く大人になりたい』
映像が消え、女神はパタンと帳簿を閉じた。
「ふふ。とても情熱的で、可愛らしい反省文ですね。この『痛み』こそが、あなたをここまで成長させ、世界を変える原動力となったのですね」
女神は慈愛に満ちた瞳で、悶絶するアルト師匠を見つめた。
「……おめでとう」
意外な言葉だった。
「え?」
「私は待っていたのです。あなたのような魂が現れるのを」
女神は微笑んだ。
「罪を償うだけの魂など、脆く弱いものです。私が求めていたのは、罪を背負い、傷つき、恥をかきながらも、それを『愛』へと昇華できる強き魂」
彼女はアルト師匠を指差した。
「私はずっと見ていましたよ。あなたが、失恋の痛みをバネにして、愛する人を守れる男になろうと足掻く姿を。……痛みは、あなたを壊さなかった。むしろ、あなたを強くした」
「……あなたたちこそが、私の真意なのです」
彼女が手を掲げると、背後の巨大な門がゆっくりと開き始めた。
そこから溢れ出す光は、もはや「処刑の光」ではなく、二人を祝福する「門出の光」だった。
「合格です。この新しい『詩篇』を、世界の新たなルールとしましょう。痛みによる贖罪ではなく、愛による再生を」
世界が書き換わっていく。
空から降る黒い雨が止み、虹がかかる。
人々を縛っていた鎖が解け、自由な風が吹き抜ける。
「うぅ……一生しません……」
アルト師匠は地面に突っ伏したまま、動かなくなってしまった。
私はしゃがみ込み、そんな彼の背中にそっと覆いかぶさるように抱きついた。
「……ココロン?」
「ありがとう、アルト師匠。10歳のあなたの悔しさが、今のあなたを作ってくれたのですね」
私は彼の耳元で囁いた。
「あなたの『反省文』は、全部私への『恋文』だったのですね」
「……からかってるだろ」
「いいえ。本気ですよ。……大好きです、私の可愛いアルルン」
私がキスを落とすと、彼はビクッと震え、それから観念したようにため息をついた。
そして、ゆっくりと体を起こし、私を抱きしめ返してくれた。
「……敵わないな、ココロンには」
二人の体温が重なり合う。
恥ずかしさも、過去の痛みも、すべてが愛おしい熱に変わっていく。
「やったな、ココロン!」
「はい、アルト師匠!」
私たちは抱き合って喜んだ。
マロンも「チチッ! 女神、イイ奴! 結婚オメデトウ!」と掌を返して喜んでいる。
「行きましょう。私たちの歌を、もっと遠くへ届けるために」
アルト師匠が私の手を取る。
私たちは女神に一礼し、光の中へと歩き出した。
その先には、まだ見ぬ世界が広がっている。
きっと、また大変で、騒がしくて、愛おしい旅が始まるに違いない。
(全30話 完)




