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「子供だから」と振った少年が、世界を敵に回しても私を守ると言い出した ~詩篇姫と反逆の吟遊詩人~  作者: 蒼山りと


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第2話:眠れないパン屋の主人

石畳の坂道に、朝の光が降り注ぐ。

 港町特有の潮風に混じって、どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。

 小麦が焼け、バターが溶ける、幸せの匂い。


「くんくん……あ! ココロン、この匂い!」


 私の隣を歩いていた青年――アルト師匠が、鼻をひくつかせて振り返る。

 18歳になった彼は、この数ヶ月で急に背が伸び、私と目線が近くなっていた。

 大きなベレー帽に、旅慣れたマント。その姿はもう、出会った頃の「少年」ではない。


「パンの焼ける匂いですね」

「絶対うまいよこれ! 行こう行こう!」


 アルト師匠は私の返事も待たずに駆け出した。

 その足取りは軽やかだが、私を気遣って歩幅を合わせる優しさがある。

 肩に止まっていたマロンも、「チチッ!(パン!)」と嬉しそうに鳴いて飛び立つ。


「あ、待ってください、アルト師匠!」


 私は苦笑しながら、ローブの裾を翻して彼を追った。

 あの雨の日の再会から、私たちは共に旅を続けている。

 彼は私の「師匠」として、私は彼の「弟子」として。

 ……本当は、彼が私を守ってくれているのだけれど。


 たどり着いたのは、レンガ造りの小さなパン屋だった。

 しかし、店の前まで来たアルト師匠が、急に足を止める。


「……あれ?」


 店の中は薄暗く、棚にはパンが一つも並んでいなかった。

 奥の厨房から、ガシャン、と何かが落ちる音がする。

 漂っていた香ばしい匂いは、いつの間にか焦げ臭い匂いに変わっていた。


「ごめんよ、今日は店じまいだ」


 奥から出てきたのは、白い粉にまみれたエプロン姿の老人だった。

 その顔色は小麦粉のように白く、目の下には濃い隈ができている。


「店じまいって、まだ朝だよ?」


 アルト師匠が尋ねると、老人は力なく首を振った。


「パンが……焼けないんじゃ。生地を練ろうとすると、手が震えて。釜の前に立つと、息ができなくなる」


 老人は喉元をさすった。

 その仕草に、私は目を細める。

 見える。老人の喉の奥に、黒く濁った「塊」が詰まっているのが。


「……言葉が、詰まっていますね」


 私が静かに告げると、老人は驚いて顔を上げた。


「あんた、わかるのか?」


「ええ。私は詩篇姫ココロン。行き場を失った言葉を預かる者です」


 私は一歩前に出る。

 老人の喉に詰まっているのは、おそらく「後悔」だ。

 誰かに伝えたかったけれど、伝えられなかった言葉。それがおりとなって、彼の呼吸を阻害している。


「おじいさん、その言葉、私がいただきましょうか?」


 老人は迷うように視線を彷徨わせた。そして、怯えたように呟いた。


「でも……この悲しみを忘れてしまったら、妻に申し訳が立たない。教会の神父様も言っていた。『悲しみこそが愛の証だ』と」


 私は胸が痛んだ。

 この世界の歪んだ常識。

 「悲しむこと」が美徳とされ、死者を想って嘆き続けることが「正しい愛」だと教え込まれている。

 それはまるで、誰かが人々に「不幸であれ」と強いているかのようだ。

 管理者の意図。反省文を効率よく回収するための、残酷な教義。


「そんなことないぜ」


 アルト師匠が口を挟んだ。

 彼は老人の肩に手を置き、真っ直ぐに目を見る。


「悲しみを忘れても、愛は消えないよ。むしろ、悲しみが邪魔をして、楽しい思い出まで見えなくなってるんじゃないか?」


「……楽しい、思い出……」


「そうだよ。奥さんは、じいさんが泣いてる顔と、パンを焼いて笑ってる顔、どっちが好きだった?」


 老人の瞳が揺れる。

 やがて、彼は観念したように頷いた。


「……あいつは、わしの焼くパンが好きだった。……『ありがとう』。たった一言、それだけが言いたかった」


 その感情が溢れた瞬間、私は本を開いた。

 老人の心の形を読み取り、私は静かに詠唱する。


  **言えなくて 喉につかえた ありがとう**

   **パンの焦げ目も 愛おしきかな**


 私の指先が、老人の唇に触れる。

 黒い靄のようなものが、老人の口から吐き出され、本へと吸い込まれていく。

 ページの上に、インクの文字となって刻まれる。

 『ありがとう、愛している』という、シンプルで重い言葉。


 言葉を抜かれた老人は、憑き物が落ちたように肩の力を抜いた。

 けれど、その瞳からは光が消え、虚ろになっている。

 言葉を抜くということは、感情の一部を切り取るということ。

 このままでは、彼は悲しみも忘れる代わりに、喜びも忘れてしまう。

 これが、詩篇姫の限界。私はただの回収屋に過ぎない。


 ――ここからは、アルト師匠の出番だ。


「任せてよ、ココロン」


 アルト師匠が前に出る。

 彼は大きく息を吸い込み、そして歌い出した。


 ♪――

  君の小言は 目覚まし時計よりうるさくて

  君の焼くパンは 時々炭みたいに黒かった

  でも その苦味が好きだった

  喧嘩した朝の 焦げたトーストの味

  あれが僕らの 愛の味


 マロンが「ピルルルゥ……(コゲテル!)」と合いの手を入れる。

 師匠の歌声は、あまりに赤裸々で、少し笑えて、でも泣ける。

 美化された思い出ではなく、「焦げたパン」というリアルな質感が、老人の胸を打つ。

 悲しみという重石が外れ、老人の心が軽やかに空へ舞い上がるような感覚。


 歌が終わると、老人の瞳に光が戻っていた。


「……ああ。そうか。あいつは、わしのパンが好きだったな」


 老人は涙を拭い、そしてニカッと笑った。


「待ってな。すぐに最高のを焼いてやるから!」


 老人は厨房へと駆け込んでいく。

 その背中は、もう震えていなかった。


「へへっ、うまくいったね!」


 アルト師匠が得意げに鼻をこする。

 私はその笑顔を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 教会の教えも、世界の常識も、彼の歌の前では無力だ。

 彼はただ、人が笑うことを肯定する。

 それがどれほど「反逆的」なことか、彼はまだ知らない。


「ええ、お見事でした。……さあ、焼きたてをご馳走になりましょうか」


***


 店の前のベンチで、私たちは焼きたてのクロワッサンを頬張った。

 サクサクとした食感と、バターの香りが口いっぱいに広がる。


「んー! うまい!」


 アルト師匠が満面の笑みでパンをかじる。

 その食べっぷりの良さに、私もつられて笑顔になる。


「本当に。心が温かくなる味ですね」


 私がクロワッサンを一口食べると、アルト師匠がじっと私を見つめてきた。

 琥珀色の瞳が、熱っぽく私を捉えている。


「……なんですか? 私の顔に何かついていますか?」


「うん。ついてる」


 彼は自然な動作で手を伸ばし、私の口元に触れた。

 親指の腹が、唇の端を優しく撫でる。


「パン屑。……もったいないから、もらっとく」


 彼は私の唇から取ったパン屑を、自分の口へと運んだ。

 パクッ。


「……っ!?」


 私はカッと顔が熱くなった。

 い、今、何を……?

 間接キス……ではないけれど、それに近いような……!


「あ、甘いな」


 彼は悪びれもせず、ニカッと笑った。

 その笑顔が眩しすぎて、私は直視できない。

 18歳のくせに。生意気なくせに。

 どうしてこんなに、ドキドキさせるの?


「チチッ! 『アルト、顔赤イ! 見惚レテル! スケベ!』」


 マロンが空気を読まずに叫ぶ。

 アルト師匠が慌ててマロンを捕まえようとする。


「うっさい! 違うってば! ただの親切心だ!」


「『ウソツキ! 心臓バクバク!』」


 二人の追いかけっこを見ながら、私は熱くなった頬を手で冷やした。

 この旅は、思ったよりも心臓に悪いかもしれない。

 でも、不思議と嫌な気はしなかった。

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