第19話:黒い雨の降る街
その街は、昼間だというのに夜のように暗かった。
空を覆う厚い雲から、絶え間なく黒い雨が降り注いでいる。
雨に打たれた人々は、咳き込み、やがて声を失って倒れていく。
「……ひどい。これはただの雨じゃない」
アルト師匠が傘を差しながら呟いた。
雨粒の一つ一つが、微小な「言葉の澱み」を含んでいるのだ。
街全体が、巨大な悲しみに沈もうとしている。
「この街の地下には、国中の詩篇姫が集めた『廃棄本』の処理場があります。おそらく、そこで何かが起きている」
私たちは地下施設へと向かった。
地下へ降りるにつれて、空気は重く、息苦しくなっていく。
マロンが怯えてアルト師匠の懐に潜り込む。
「なあ、ココロン。ずっと疑問だったんだけどさ」
暗い通路を歩きながら、アルト師匠が口を開いた。
「なんで女神様は、こんなシステムを作ったんだ? 人間をいじめて楽しんでるサディストなのか?」
「……いいえ。以前、ヴァイオレット様が言っていたでしょう?」
私は、第3話での彼女の言葉を思い出した。
「この世界は軽すぎる。だから『悲しみ』という重り(アンカー)で、世界を地面に繋ぎ止めているのだと」
「ああ、言ってたな。……でも、納得いかねえよ」
アルト師匠は鼻で笑った。
「くだらねえ。重りが必要なら、もっと別のモンでいいだろ。……例えば、『愛の重さ』とかな!」
「愛の、重さ?」
「ああ。誰かを愛するってのは、すげー重労働だぜ? 心配したり、嫉妬したり、守ろうとして必死になったり。……悲しみなんかより、よっぽど重くて、強くて、地面に足がつく感情だ」
彼は私の手を強く握った。
その力強さに、私はハッとした。
確かに、彼の手は温かく、重い。
この重さがあれば、私たちはどこへも飛んでいかない。
「……そうですね。いつか女神様に、その理論を叩きつけてやりましょう」
最深部の扉を開けた瞬間、私たちは絶句した。
そこは、本の墓場だった。
黒く変色した無数の本が山のように積み上げられ、そこから溢れ出した黒い液体が床を浸している。
そして、その山の頂上には、数人の詩篇姫たちが倒れていた。
彼女たちは既に息絶えているか、あるいは心を失って廃人となっていた。
「嘘だろ……」
アルト師匠が呻く。
これが、詩篇姫の末路。
人々の悲しみを吸い続け、浄化しきれずにキャパオーバーを起こし、最後は自分自身が悲しみの器となって壊れていく。
管理者は、彼女たちを使い捨てのフィルターとして扱っているのだ。
「……私も、いつかこうなるのでしょうか」
私の口から、乾いた言葉が漏れた。
私の本も、もう限界に近い。
アルト師匠の歌で浄化しているとはいえ、世界の悲しみの総量は増え続けている。
いつか、彼の歌でも支えきれなくなる日が来るかもしれない。
「させるかよ!」
アルト師匠が叫んだ。
彼は私の肩を強く掴み、私を正気に戻させる。
「ココロンは絶対にこんな目に遭わせない! 俺が守る! 世界中の悲しみが降ってきても、俺が全部歌い飛ばしてやる!」
彼はリュート(に見立てた空気)を構え、黒い山に向かって歌い出した。
♪――
雨よ止め 洗濯物が乾かない
靴下びしょ濡れ 気持ち悪い
こんな世界じゃ カビが生える
太陽出せよ 俺のシャツを乾かせ!
それは怒りの歌であり、祈りの歌だった。
「洗濯物」というあまりに日常的な怒りが、逆に「生きたい」という根源的な欲求を刺激する。
彼の喉から血が滲むほどの絶唱。
その歌声に呼応して、黒い山が震え、少しずつ光の粒子となって崩れていく。
しかし、量が多すぎる。
彼の命が削られていくのがわかる。
「やめて、アルト師匠! もう十分です!」
「まだだ! ここで引いたら、ココロンの未来が閉ざされちまう!」
彼は止まらない。
その姿に、私はかつての幽霊王を重ねた。
彼もまた、世界を、私を守るために命を燃やしたのだ。
歴史は繰り返すのか? また私は、愛する人を失うのか?
――いいえ。
私は本を開いた。
彼だけに背負わせはしない。私も戦う。
**降り止まぬ 黒き涙を 受け止めて**
**共に枯れよう 命の限り**
私の詠唱が、彼の歌と混ざり合う。
二人の魂が共鳴し、巨大な光の柱となって地下施設を貫いた。
轟音と共に、黒い山が消滅する。
地上に降り注いでいた黒い雨が止み、雲の切れ間から太陽が差し込んだ。
私たちは泥の中に倒れ込んだ。
満身創痍。けれど、生きていた。
「……へへ。やったな、ココロン」
アルト師匠が泥だらけの顔で笑う。
私も笑い返した。
「ええ。……でも、もう二度とあんな無茶はしないでください」
「お互い様だろ」
私たちは泥の中で手を繋いだ。
世界の終わりは回避された。
けれど、これは一時的な勝利に過ぎない。
詩篇姫というシステムそのものが、限界を迎えているのだ。
私たちは、もっと根本的な解決策を見つけなければならない。




