第11話:時計塔の守り人と、止まった時間
その街に入った瞬間、奇妙な違和感を覚えた。
街中には大小様々な時計が飾られている。教会の塔、広場のモニュメント、店の看板。
しかし、そのすべてが沈黙していた。
カチ、コチ、という音がどこからも聞こえない。
すべての時計の針が、**「4時5分」**を指したまま止まっているのだ。
「……気味が悪いな。時間が死んでるみたいだ」
アルト師匠がマントを合わせ、身震いした。
街行く人々も、どこか足早で、表情が暗い。まるで、止まった時間に閉じ込められていることを恐れているかのように。
「あの時計塔が原因でしょうね」
私は街の中央にそびえ立つ、巨大な古時計の塔を見上げた。
そこから、強烈な「拒絶」の言葉が溢れ出し、街全体を覆っている。
その時、一人の少女が私たちに駆け寄ってきた。
栗色の髪を二つに結った、14歳くらいの少女だ。その手には、油で汚れた工具箱が握られている。
「あの! 旅の吟遊詩人さんと、詩篇姫様ですよね?」
少女は必死な形相で頭を下げた。
「お願いです! おじいちゃんを……この街の時間を、動かしてください!」
***
少女の名前はエリナといった。
彼女の案内で、私たちは時計塔の最上階にある整備室を訪れた。
部屋の中は、無数の歯車とバネで埋め尽くされていたが、そのどれもが錆びつき、動いていない。
部屋の奥、巨大な文字盤の裏側に、その老人はいた。
ガレン。この時計塔の守り人であり、エリナの祖父だ。
「帰れ! わしは誰も通さんぞ!」
ガレンは私たちを見るなり、スパナを振り回して怒鳴った。
白髪はボサボサで、目は血走っている。その形相は、狂気の一歩手前に見えた。
「おじいちゃん、お願い聞いて! もう10年も時計は止まったままよ。街のみんなも困ってる。そろそろ動かさないと……」
「うるさい! 動かしてなるものか!」
ガレンは孫娘のエリナさえも睨みつけた。
「4時5分。あれは、あの子が……マリアが死んだ時間じゃ。時計を動かせば、マリアが本当にいなくなってしまう!」
マリア。それはエリナの母であり、ガレンの一人娘の名前だった。
エリナが俯き、唇を噛み締める。
「……お母さんは、事故で死んだのよ。私が小さい頃に、私を庇って……」
「そうだ! お前さえいなければ、マリアは死なずに済んだんじゃ!」
ガレンの口から、決定的な言葉が飛び出した。
部屋の空気が凍りつく。
エリナの顔から血の気が引いていく。彼女は泣きそうな顔で笑った。
「……ごめんなさい、おじいちゃん。……ごめんなさい」
彼女は逃げるように部屋を飛び出していった。
残されたのは、荒い息をつく老人と、沈黙する歯車たち。
「……ひどいな」
アルト師匠が低く呟いた。その拳は怒りで震えている。
私も同じ気持ちだった。
ガレンの喉元には、巨大な錨のような形をした黒い塊が見える。
それは「悲しみ」ではない。「執着」だ。
娘を愛するあまり、孫娘を憎み、時間を止めることで自分を守ろうとしている。
それは、この世界が強いる「正しい贖罪」の成れの果てだった。
「出て行け! 二度と来るな!」
私たちは一度、引き下がるしかなかった。
***
その夜、私たちはエリナの家――時計塔の麓にある小さな小屋に泊めてもらった。
エリナは気丈に振る舞い、スープを作ってくれたが、その背中は小さく震えていた。
「……おじいちゃんはね、本当は優しい人だったの」
エリナがポツリと語り出す。
「お母さんが死んでから、変わっちゃった。私の顔を見るたびに、お母さんを思い出すみたいで……。だから私、おじいちゃんに認めてもらいたくて、時計修理の勉強をしたの。いつかおじいちゃんの跡を継いで、この塔を守りたくて」
彼女は棚に飾られた、壊れたオルゴールを手に取った。
「これ、お母さんの形見なの。おじいちゃんが私の誕生日に直してくれるはずだったんだけど……あの日から、壊れたまま」
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私が生きているのが、いけないのかな。私が死ねば、おじいちゃんの時間は動くのかな」
「そんなことない!」
アルト師匠が叫んだ。
彼はエリナの手からオルゴールを受け取り、真剣な眼差しで彼女を見る。
「君が生きてるのは、お母さんが命がけで守ったからだろ? 君の命は、お母さんの愛そのものだ。それを否定するなんて、俺が許さない」
アルト師匠は工具箱を開いた。
「俺、機械いじりは得意じゃないけどさ。……これ、直してみせるよ。これが直ったら、おじいちゃんのところに行こう。君の想いを、叩きつけに行くんだ」
その夜、アルト師匠は一睡もせずにオルゴールと格闘した。
マロンも「ココ! ソコ! チガウ!」と細かく指示を出す(意外と機械に詳しいらしい)。
私はエリナの背中をさすりながら、彼女の心に溜まった「罪悪感」を少しずつ解きほぐしていった。
***
翌朝。
朝日が昇ると同時に、オルゴールから微かな音色が響いた。
ぎこちないけれど、温かいメロディ。
「直った……!」
エリナが顔を輝かせる。
アルト師匠は指に絆創膏だらけの手で、ニカッと笑った。
「さあ、行こう。時計を動かす時間だ」
私たちは再び、時計塔の最上階へ向かった。
ガレンは昨日と同じ場所で、動かない歯車を磨いていた。
「また来たのか。何度来ても……」
「おじいちゃん!」
エリナが一歩前に出る。彼女の手には、直ったオルゴールがあった。
彼女は震える手で、ネジを巻く。
静寂な部屋に、懐かしいメロディが響き渡る。
それは、亡きマリアがよく口ずさんでいた子守唄だった。
「な……それは……」
ガレンの目が大きく見開かれる。
「お母さんは、私を守ってくれた。私の未来を守ってくれたの! だからおじいちゃん、お願い。私の未来を……時間を止めないで!」
エリナの叫びが、ガレンの心の殻にヒビを入れる。
老人の目から涙が溢れる。
その瞬間、彼の喉元の「錨」がぐらりと揺らいだ。
「今です、ココロン!」
アルト師匠の合図で、私は本を開く。
ガレンの前に立ち、彼が10年間抱え続けてきた、重すぎる愛と後悔を見据える。
「過去に囚われることは、愛ではありません。愛とは、遺された者の未来を慈しむことです」
私は静かに、けれど厳かに詠唱する。
**あの日より 進まぬ針を 見上げても**
**帰らぬ人は 微笑みはせぬ**
ガレンが大きく口を開け、慟哭した。
口から吐き出されたのは、錆びついた鎖のような黒い塊。
それは暴れ回り、時計の歯車に絡みつこうとする。
アルト師匠が歌う。
その歌声は、カチ、コチ、と時を刻むリズムのように、正確で、力強い。
♪――
チクタク チクタク 命の音よ
寝坊した朝の 焦った心臓
固ゆで卵の 長すぎる十分
君を待つ時間は 永遠のよう
回せよ回せ 愛しい時間を
マロンが「ピルルッ! ジカンヨ、ウゴケ!」と高らかに鳴く。
「固ゆで卵」という単語に、ガレンが一瞬きょとんとしたが、すぐにそのリズムに引き込まれていく。
日常の些細な時間こそが、愛おしいのだと。
歌声の波動が、部屋中の錆を落とし、歯車に命を吹き込んでいく。
黒い鎖は粉々に砕け散り、光の粒子となって本へ吸い込まれた。
ゴ……ゴゴ……。
重い地響きと共に、巨大な歯車がゆっくりと回転を始めた。
カチ。コチ。カチ。コチ。
10年ぶりに、時が動き出す。
ガレンはその場に崩れ落ち、エリナを抱きしめた。
「……すまなかった。エリナ……マリアの分まで、生きてくれ……」
「うん……うん……!」
二人の泣き声が、時計の音に重なる。
窓の外では、街中の時計が一斉に鐘を鳴らし始めていた。
止まっていた時間が、今、奔流となって未来へ流れ出したのだ。
「……へへ。いい音だな」
アルト師匠が窓辺で呟く。
私は彼の隣に立ち、動き出した街を見下ろした。
「ええ。とても」
マロンが「チチッ(ハラヘッタ)」と空気を読まないことを言い、私たちは顔を見合わせて笑った。
この街の時間は、もう二度と止まることはないだろう。




