第10話:詩篇姫の涙
その日、私は空が青いことさえ疎ましく感じていた。
足が重い。視界が霞む。
腰の「空白の本」は、もう空白などどこにもないほど真っ黒に染まり、物理的な重さを増して私にのしかかっていた。
これは、世界中の人々が吐き出した「反省文」の塊だ。
ヴァイオレット様からの追加ノルマ。「今月中にあと100人分回収しなさい」。
無理だ。私の体はもう限界を超えている。
「ココロン? 休憩しようか」
先を行くアルト師匠が振り返る。
私は首を振った。
「いいえ、次の街まで急ぎましょう。あそこには大きな教会があります。そこで本の浄化を……」
言いかけた言葉は、途中で途切れた。
地面が急激に近づいてくる。
アルト師匠が「ココロン!」と叫んで駆け寄ってくるのが、スローモーションのように見えた。
目が覚めると、私は木陰に寝かされていた。
アルト師匠が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「……ごめんなさい、師匠。不覚を取りました」
起き上がろうとしたが、体に力が入らない。
本が、熱い。
本の中に溜め込んだ数多の「悲しみ」が、私の体へと逆流しようとしているのだ。
「本が限界なんだ。俺が歌って軽くする」
アルト師匠がリュートを構える真似をする。
けれど、私は彼の手を掴んで止めた。
「ダメです。今のこの量は、あなたの喉を潰してしまいます」
「そんなこと言ってる場合かよ! ココロンが死んじまう!」
「いいえ。……これは、私の『言葉』なのです」
私はうわ言のように呟いた。
本から溢れ出す黒い靄。それは、私が15年間、いや、もっと前から抱え続けてきた罪悪感そのものだった。
この本は、他人の罪だけでなく、持ち主である私の罪も自動的に記録し続けていたのだ。逃れられない呪いのように。
愛する人を殺した罪。
誰かを救うたびに思い出す、救えなかった人々の顔。
それらが今、私を飲み込もうとしている。
「これは私の罪です。誰にも渡せない。あなたに背負わせるわけには……」
「バカ野郎!」
アルト師匠が叫んだ。
彼は私の手を振りほどき、私を強く抱きしめた。
「……っ!?」
「罪とか、罰とか、知るかよ! 俺はココロンが大事なんだ! ココロンが泣いてるなら、俺がそれを止める! それだけだ!」
彼の体温が、冷え切った私の体に伝わってくる。
18歳の、若く力強い鼓動。
彼は私の耳元で、歌い始めた。
♪――
それは、言葉のないハミングだった。
けれど、どんな詩よりも雄弁だった。
『ここにいるよ』『一人じゃないよ』『全部受け止めるよ』
そんなメッセージが、音の波となって私の心に染み込んでくる。
私の目から、涙が溢れ出した。
止まらなかった。
詩篇姫として気丈に振る舞ってきた仮面が、彼の腕の中で粉々に砕け散った。
「……うぅ……あぁぁ……」
私は子供のように声を上げて泣いた。
アルト師匠は何も言わず、ただ私を抱きしめ、背中をさすり、歌い続けてくれた。
マロンも私の肩に止まり、小さな翼で涙を拭ってくれる。
どれくらいそうしていただろう。
気がつくと、本から溢れていた黒い靄は消え、空には一番星が輝いていた。
「……落ち着いた?」
アルト師匠が優しく尋ねる。
私は恥ずかしさで顔を上げられず、彼の胸に顔を埋めたまま頷いた。
「……はい。……シャツ、濡らしてごめんなさい」
「いいよ。ココロンの涙なら、大歓迎だ」
彼はニカッと笑い、私の頭をポンポンと撫でた。
その手つきは、もう「弟分」のものではなかった。
私を守り、導いてくれる、一人の男性の手だった。
「行こう、ココロン。俺たちは二人で一つだ。どんな重い荷物も、半分こすれば軽くなる」
「……はい。アルト師匠」
私は彼の手を取り、立ち上がった。
体は嘘のように軽い。
夜風が心地よかった。
この人と一緒なら、どこまでだって行ける。
そう確信した、旅の夜だった。
(第1章 完)




