幕八 祈りの代価
沈黙街の灯りは、今夜もまたひとつずつ消えていく。
それは風の仕業ではない。
黒いロングコートが通りを抜けるたび、店の扉が静かに閉まり、路地から息づかいが消えていく。
誰も声をかけない。
誰も視線を交わさない。
ただ、足音だけが石畳に均等な間隔で落ちていく。
コツ、コツ――。
それが、この街で唯一残された“音”だった。
アラーナには、いくつかの規律があった。
依頼人と顔を合わせない。
声を交わさない。
名を問わない。
そして、誰かの感情に踏み込まない。
そのどれかが崩れれば、自分の輪郭が揺らぐ気がした。
理由はない。
けれど、守らなければならないとだけ、強く感じていた。
その夜、廃材の積まれた路地の端に、ひとりの少年が立っていた。
やせた肩。薄い上着。
顔や腕には、紫色の痣がいくつも浮かんでいる。
少年は両手を握りしめ、何かに耐えるように立っていた。
アラーナは一瞬、足を止めた。
影が、灯のない壁に伸びる。
視線が交わった。
その少年からは、敵意も、憎しみも感じられなかった。
むしろ、祈りに似たものが漂っていた。
声のない願い。
沈黙の奥に沈む、かすかな熱。
アラーナが近づくと、少年は顔を上げた。
瞳の奥で何かが震えている。
唇が、ゆっくりと動いた。
「……あの人を、殺して」
声はなかった。
けれど、その形が確かに“言葉”を語っていた。
それは依頼ではない。
報酬も、封筒も、構文印もない。
ただ、ひとりの少年が祈るように願った。
それだけだった。
彼女は短く息を吐き、視線を逸らす。
自身に架した規律を反芻する。
耳を貸さず、言葉を返さず、通り過ぎた。
それが、アラーナの“仕事”。
けれど――その夜の空気には、いつもと違う何かが残っていた。
路地を抜けると、霧が低く垂れ込めていた。
遠くで鐘が鳴った気がしたが、風が音を奪っていく。
アラーナは歩調を緩めず、ただ夜の奥へと進む。
街の端、森へ続く獣道。
その向こうで、世界の音が――途切れた。
翌朝、静まり返った森の入口で、死体がひとつ見つかる。
首がなかった。
血痕もない。
それが誰なのかも分からない。
まるで、首から上の空間ごと消えたようだった。
沈黙街の者たちは、それを見ても騒がなかった。
ただ、またひとつ“支払済”の印が増えたのだと、誰もが理解していた。
街のはずれ。
石の階段に座った少年が、夜明けの光を見上げていた。
痣の残る腕を抱え、唇をかすかに震わせている。
その隣には、母親らしき女がいた。
何も言わず、少年の肩に手を置く。
言葉はない。
けれど、その沈黙の中にすべてがあった。
アラーナは遠くから、その光景を見ていた。
誰にも気づかれず、声もかけず。
ただ、観測する者として。
胸の奥がわずかに痛んだ。
その理由を、彼女は分からない。
規律のひとつが、どこかで軋む音がした気がした。
「……祈り――ね」
呟きは夜気に溶け、消えた。
朝の光が路地に差し込み、沈黙街を淡く染めていく。
その日、街ではひとつの噂が流れた。
“祈りを叶えるメガミ”――
そう呼ばれる女がいる、と。
だがアラーナは振り返らない。
誰の声も、呼び止めも聞かない。
ただ、歩き続ける。
足音だけが、静かに次の夜へと続いていった。
(つづく)




