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幕七 名を呼ぶ記憶

夜の空気は冷たく、湿っていた。

アラーナは人気のない路地を、変わらぬ歩調で進んでいく。

足音は一定で、呼吸と同じリズムを保っていた。


誰も彼女に近づかない。

すれ違う者がいても、影を見ただけで視線を逸らす。


この街では、名前を持たない者たちが祈る。

声に出せない願いを、紙に書けぬまま胸にしまう。

そして、夜のどこかで子どもたちが歌を口ずさむ。



女神さま、首だけでいい……

名前を差し出すから、あの人を連れていって……



それは最近、この街で流行しはじめた“うた”だった。

誰が最初に口にしたのかはわからない。

子どもたちは意味も知らずに遊びながら歌い、

大人たちは静かに聞き流している。


けれど、アラーナはその旋律を確かに“感じていた”。

耳に届くというより、空気の振動として。

言葉より先に、街全体がその節を覚えているようだった。


瓦屋根の上。

古びた窓の下。

濡れた石段の影。


どこで誰が歌っているのかはわからない。

それでも、その声は確かに沈黙街のどこかで息づいていた。


アラーナは歩みを止めた。

一歩だけ。

それ以上でも、それ以下でもない。


足元に、小さな水たまりがあった。

濁った闇が鏡のように光を返し、そこにぼんやりと浮かぶ輪郭。


自分の姿ではない。

知らない誰かの顔。

それが、ほんの一瞬だけ映ったように見えた。


アラーナは目を細め、息を吸う。

夜の湿度が肺の奥に沈む。

胸の奥で、何かが微かに疼いた。


声ではない。

名でもない。

ただ、呼ばれた気配のようなもの。


それは記憶と呼ぶにはあまりにも曖昧で、

感情と呼ぶにはあまりに冷たい。

けれど確かに、彼女の中で何かが反応していた。



「……知ってるわよ、そんな話」



小さく呟いた声が、路地の石壁に吸い込まれる。

その響きは言葉ではなく、吐息に近かった。


街の空気が、それに応えるようにわずかに揺れた。


遠くで犬が吠える。

風が看板を鳴らす。

そのどれもが“うた”の続きのように聞こえた。


子どもたちの歌は、願いの形にも似ている。

誰かの名を差し出せば、死神がその者の首を持ち去ってくれる。

そんな噂が、街の隅々まで染み込もうとしていた。


アラーナは空を見上げた。

月は雲に隠れ、光はない。

夜の輪郭がゆっくりと滲んでいく。



「……忘れたわ」



短い言葉。

誰にも聞かれず、彼女自身にも届かない。

ただ、息の代わりにその一言が残る。


再び歩き出す。

コツ、コツ。

足音が路地に重なり、やがて遠ざかっていく。



闇は何も答えない。

それでも、アラーナの中にはわずかな残響があった。

名を呼ばれることも、応えることもないまま。

それなのに、なぜか胸の奥のどこかが騒がしかった。


それは痛みとも、安堵ともつかない。

ただ、確かに生きている証のように、そこに在った。


そして、夜が静かに更けていった。

歌も、風も、すべてが遠くへ溶けていく。

沈黙街の上を、薄い雲が流れていく。


誰も知らない。

この街で、ひとりの死神が、失われた名の“響き”を、ほんのわずかに思い出していたことを。



(つづく)

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