表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/15

幕六 契約の残響

アラーナ・ノクターンは、沈黙街の住人ではなかった。

けれどこの街は、彼女にとって最もなじむ“契約の場所”だった。


声を持たない依頼者たち。

名前を書かず、署名もせず、ただ一枚の封筒を差し出す。

中に書かれているのは、短い指示文だけ。



──午前三時までに静かにしてほしい。


──この通りを通らないようにしてほしい。


──あの女が笑えるようにしてほしい。



誰が、とは書かれていない。

けれど依頼は確かに届く。

そしてアラーナは、必ず応える。


「支払いは、済んでいるのよね」


小さく呟き、封筒を開く。

そこには、“ルメア銀貨十枚分”の構文印が押されていた。

声を失った者たちが差し出す、唯一の価値。


支払いがある限り、依頼は成り立つ。

感情や動機は、関係がない。


アラーナは夜の街角に立ち、周囲を見渡す。

濡れた石畳。

錆びた看板。


崩れた壁の下で、酔い潰れた男がひとり、顔を伏せて眠っていた。

そこに風はなく、時間も流れていない。


だが彼女は知っている。

この沈黙の中にこそ、最も正確な“声”があることを。

それが、仕事の合図になる。


ゆっくりと歩み出し、刃を抜いた。

金属の摩擦音が一瞬だけ、闇の中に響く。


次の瞬間、男の首が落ちた。

血の匂いはしない。

影が沈み、路地が元の静けさを取り戻す。


アラーナは刃を収め、足元に封筒を置いた。

依頼の完了。

支払済の証。



夜風が一度だけ、彼女の頬を撫でた。

その冷たさが、世界の温度を確かめる唯一の方法だった。



「……次」



言葉ではなく、呼吸の形。

その微かな息が、空気の層をわずかに揺らす。


路地の向こうで、猫が走り抜ける。

窓辺のカーテンが静かに閉じられる。

沈黙街の夜は、彼女の仕事を拒まない。


それは祈りでも、赦しでもない。

ただ、必要とされているという事実だけがあった。


アラーナはもう一枚の封筒を取り出す。

新しい依頼。

内容は読まずとも、結果は知っている。



“静かにしてほしい”――この街では、すべての依頼が同じ内容。



歩みが再び始まる。

足音が路地に重なり、やがて遠ざかっていく。


その足音を、誰も追わない。

追う理由も、追われる理由もない。

ただ、ひとつの結果だけが、翌朝の街に残る。


封筒の山。

印の押された構文。

誰の名も記されていない契約の残響が、今日もこの街を満たしていく。



(つづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ