幕六 契約の残響
アラーナ・ノクターンは、沈黙街の住人ではなかった。
けれどこの街は、彼女にとって最もなじむ“契約の場所”だった。
声を持たない依頼者たち。
名前を書かず、署名もせず、ただ一枚の封筒を差し出す。
中に書かれているのは、短い指示文だけ。
──午前三時までに静かにしてほしい。
──この通りを通らないようにしてほしい。
──あの女が笑えるようにしてほしい。
誰が、とは書かれていない。
けれど依頼は確かに届く。
そしてアラーナは、必ず応える。
「支払いは、済んでいるのよね」
小さく呟き、封筒を開く。
そこには、“ルメア銀貨十枚分”の構文印が押されていた。
声を失った者たちが差し出す、唯一の価値。
支払いがある限り、依頼は成り立つ。
感情や動機は、関係がない。
アラーナは夜の街角に立ち、周囲を見渡す。
濡れた石畳。
錆びた看板。
崩れた壁の下で、酔い潰れた男がひとり、顔を伏せて眠っていた。
そこに風はなく、時間も流れていない。
だが彼女は知っている。
この沈黙の中にこそ、最も正確な“声”があることを。
それが、仕事の合図になる。
ゆっくりと歩み出し、刃を抜いた。
金属の摩擦音が一瞬だけ、闇の中に響く。
次の瞬間、男の首が落ちた。
血の匂いはしない。
影が沈み、路地が元の静けさを取り戻す。
アラーナは刃を収め、足元に封筒を置いた。
依頼の完了。
支払済の証。
夜風が一度だけ、彼女の頬を撫でた。
その冷たさが、世界の温度を確かめる唯一の方法だった。
「……次」
言葉ではなく、呼吸の形。
その微かな息が、空気の層をわずかに揺らす。
路地の向こうで、猫が走り抜ける。
窓辺のカーテンが静かに閉じられる。
沈黙街の夜は、彼女の仕事を拒まない。
それは祈りでも、赦しでもない。
ただ、必要とされているという事実だけがあった。
アラーナはもう一枚の封筒を取り出す。
新しい依頼。
内容は読まずとも、結果は知っている。
“静かにしてほしい”――この街では、すべての依頼が同じ内容。
歩みが再び始まる。
足音が路地に重なり、やがて遠ざかっていく。
その足音を、誰も追わない。
追う理由も、追われる理由もない。
ただ、ひとつの結果だけが、翌朝の街に残る。
封筒の山。
印の押された構文。
誰の名も記されていない契約の残響が、今日もこの街を満たしていく。
(つづく)




