幕五 沈黙街の死神
ルメアの下層区、《沈黙街》。
石畳には泥が溜まり、建物の影は夜よりも濃く沈んでいた。
雨はとっくに止んでいるのに、空気はまだ湿っている。
この街では、風が滅多に通らない。
それでも――ひとつだけ、確かな音があった。
コツ、コツ。
硬質な足音が、路地の奥で均等に響く。
それは、呼吸の代わりに存在を示すようなリズムだった。
黒いロングコートをまとった女が歩いていた。
歩調は静かで、乱れがない。
腰の位置に短い刃がひとつ。
柄の根元だけが、布の隙間から覗いている。
その名を知る者はいない。
あるいは、知っていても、口に出せないだけかもしれない。
この街では、誰もが彼女を“死神”と呼んだ。
誰ひとり、彼女の声を聞いたことはない。
けれど、彼女が歩くたび、“死”だけが確かに訪れた。
「ーーっ」
男の絶叫は短かった。
鋭い音も、金属の衝突もない。
首が落ちる。
体は膝を折り、地に沈む。
返り血は飛ばず、息の余韻もない。
ただ、黒い塊のようなものが残る。
女は視線を向けず、懐から封筒を取り出した。
白紙に見えるその表には、“支払済”の構文印が押されている。
名は記されていない。必要もない。
この街では、それで契約が完結する。
封筒を足元に置くと、彼女は一拍だけ呼吸を整えた。
それは祈りではなく、確認のための行為だった。
世界がまだ続いているかどうかを、確かめるように。
「……終わり」
低い声が空気を震わせた。
誰も聞いてはいない。
それでも、その一言が確かに“記録”として残る。
アラーナ・ノクターン。
それが、彼女がこの街で名乗る名だった。
けれど、その名を呼ぶ者は、いない。
この世を統べる神でさえも、彼女の本当の名を知らない。
仕事が終わると、アラーナはいつものように歩き出す。
振り返らず、確かめもせず。
通りの先で犬が吠え、すぐに鳴き止む。
窓のカーテンが閉じる気配があった。
それだけで、この街の“支払い”は完了する。
足音だけが遠ざかっていく。
それは雨後の滴のように小さく、けれど確かに残響を引いた。
沈黙街の住人たちは、彼女を見ない。
誰もが夜をやり過ごし、朝になれば何も問わない。
そして翌日、路地の片隅には封筒がひとつ落ちている。
“支払済”の印が押され、中には何も入っていない。
それがすべてだった。
夜が更けるにつれ、霧がゆっくりと降りてくる。
彼女の姿は、その霧のなかにゆっくりと溶けていった。
コツ、コツ――。
それが最後の音。
街は再び、いつもの沈黙を取り戻す。
アラーナは振り返らない。
だから誰も、その顏を見たことがない。
けれど確かに、そこに彼女はいた。
首を落とし、名を残さず、声を持たずに。
そして、夜がまたひとつ、終わった。
(つづく)




