幕四 朝の門前にて
朝は、すべてを終わらせた後にやってきた。
霧の残る小道に、木々の影が長く伸びる。
夜と朝の境目が混ざり、世界の輪郭がぼやけていた。
セレスタ・ホームの裏山、その奥にある古い祠から、ひとりの修道女が、少女を抱きかかえて戻ってきた。
少女は軽く、冷たく、それでいて確かに生きていた。
修道女は施設の玄関に入ると、慌てたように院長を呼ぶ。
「……祠の前に、ひとりでいました」
声が震えていた。
それでも少女を抱く腕だけは、しっかりと力がこもっていた。
院長が現れ、静かにその顔を見下ろす。
目の前の少女は眠るように目を閉じていた。
皮膚は透けるほど白く、呼吸はかすかに上下する。
だが、その唇からは音が生まれない。
修道女は言葉を続けた。
「この子……名前がありません。持ち物も、印章も」
院長はゆっくりと頷く。
そして、何も言わずに腕を差し伸べた。
抱き取られた少女の身体はわずかに揺れたが、目を開くことはなかった。
「……名がないなら、呼び名を与えましょう」
「呼び名があれば、人はここで生きていける」
静かな声。
それは決して祝福ではなく、ただ“生活”のための言葉だった。
院長は少女の髪に触れ、息を整える。
窓から差す光が、彼女の指先に触れる。
それは、まだ冷たい朝の光だった。
「この子を、アラーナと呼びましょう」
修道女はその名を繰り返した。
「アラーナ……」
小さく、確かめるように。
その声に反応するように、少女の指がわずかに動いた。
ほんの一瞬。
けれど、その微かな反応だけで十分だった。
院長は目を細め、短く祈る。
祈りは言葉にはならず、唇の動きだけが残った。
その日から、少女はアラーナと呼ばれながら生きることになった。
名ではなく、呼び声だけを与えられた存在として。
やがて、街の片隅に子どもたちの間に遊びのための歌が広まった。
誰が最初に言い出したのかはわからない。
それでも、その響きはゆっくりと街に溶けていった。
ねぇねぇ おしえて
だれのなまえが きょうはきえるの?
しらないこえが ふりむいたら
くびが ころん おちるから
なまえはかくして ほら うたおう
しんだふりして ねむろうよ
それは、名を呼ばれないための歌だった。
声を持たないための祈りでもあった。
そしてその中心には、名を封じられた少女の影があった。
朝の光が差し込む。
窓辺のカーテンが揺れ、埃が光の中で漂う。
誰も気づかないまま、その“始まり”が、静かにそこに存在していた。
(つづく)




