幕三 逃走と封印
エリオットの剣は、速くはなかった。
だが、重さがあった。
刃は鈍く光り、影の首をひとつ断ち落とす。
乾いた音が響く。
それが、この夜で初めての“音を持った死”だった。
血はほとんど流れない。
闇がそれを飲み込んでいく。
月の光さえ、刃に触れることを恐れていた。
彼は息を整えず、ただ前を見ていた。
倒れた影を踏み越え、母のそばへと進む。
「アリーシャを」
短い言葉だった。
母はわずかに頷く。
老騎士は少女を抱き上げる。
体は軽い。
体温が、もう薄れていた。
まるで、存在ごと空気に溶けてしまうようだった。
扉を蹴り、外へ出る。
背後で何かが崩れ、
火花が散り、空気が焼ける匂いがした。
それでも、振り返らなかった。
夜気が冷たい。
息を吸うたび、鉄の味がする。
邸の外では、もう煙が上がっている。
炎が夜の色を変え始めていた。
森へ入る。
木々の影が音を飲み込み、
月光がわずかに漏れていた。
少女の体が、腕の中でかすかに動く。
目は開かない。
唇も閉じたまま。
追手の足音が近づいていた。
枝が折れ、地面が沈む。
エリオットは剣を抜く。
一閃。二閃。
瞬きをする間に、三人が倒れる。
背後から矢が襲う。
幾本もの矢を背中で受け止めた。
熱いものが流れ、視界が揺れる。
それでも、少女を落とさなかった。
木立を抜け、祠が見えた。
古く、崩れかけた石の祠。
誰かを待つかのように佇む巨石。
その前で、彼は膝をついた。
息が荒い。
指先が震える。
それでも、意識は確かだった。
地に少女を伏せ、構文を描く。
空気の上を指がなぞる。
光ではない。
祈りでもない。
それは、“名前を封じる式”だった。
「……聞こえていないだろう」
「だが、聞いてくれ」
老騎士の声は低く、遠かった。
まるで、誰かの記憶をなぞるように。
「記憶を封じる。名も、声も。そのかわり――生きろ」
血が滴り、印を描く。
構文が閉じ、空気が震える。
少女の体がわずかに反応した。
瞼が動き、そして沈む。
声はなかった。
ただ、深く、眠るように――。
エリオットは背を預けた。
剣を土に突き立てる。
風が、彼の白髪を揺らしていた。
「……名を持つ者は、狩られる。
だがいつか、思い出せ。おまえが呼ばれていた日を」
その言葉は、風に溶けた。
誰の耳にも届かない。
夜が静まる。
風が森を駆け抜けた。
それは、沈黙の中で唯一残された“声”のようだった。
祠の奥で、光が一度だけ瞬いた。
老騎士の姿は、もうなかった。
ただ一本の剣と、揺らいだ空気だけが残る。
森が再び沈黙を取り戻した。
(つづく)




