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幕二十二 コード開放《ヴェルサ・ファタール》

任務指定区画は、旧演習区域の外縁だった。

地図上ではすでに廃止と記録されている区域。

霧の濃い夜、森が濡れた息を吐く。

光も音も吸い込まれ、足音さえ輪郭を持たない。


アラーナは、定められた座標へと進んでいた。

道はない。地形は歪み、木々は形を失っている。

ただ“そこへ至る”ための命令だけが、頭の中に残っていた。


風が動く。

視界の奥、霧の裂け目に影が現れた。

警戒を強め、アラーナは立ち止まる。


そこにいたのは、ゼロセブン。

影衛・第四実行班、暗号兵。

つい数日前まで、同じ指令の下で隣に立っていた男。


距離は十数歩。

互いの輪郭がかろうじて見えるほど。

それでも、気配でわかる。

間違いようがない。


ゼロセブンは何も言わず、ただアラーナを見ていた。

その眼には恐れも驚きもなく、

ただ“理解”だけがあった。


アラーナは、コートの内側から命令書を取り出した。

濡れた封印紙を破ることなく、そのまま差し出す。

紙面を月明かりが照らした。


ゼロセブンは一瞥し、息を吐いた。

それは苦笑にも似た、静かな諦念だった。



「……そういうこと、か」



その声は、風と霧に溶けて消えた。

彼は答えを求めていなかった。

アラーナも、言葉を返さなかった。

ただ、呼吸が一拍遅れただけ。


それでも、わずかな空気の乱れがあった。

命令よりも早く、別の言葉が口を突いて出た。



「――逃げろ」



声は、ほとんど音にならなかった。

命令ではなく、衝動でもなく、ただひとつの選択として、そこに落ちた。


ゼロセブンはわずかに目を見開き――そして頷いた。

その仕草に、ためらいはなかった。


だが、次の瞬間――森がざわめいた。


気配が走る。

空気が揺れる。

霧の奥から、複数の影が浮かび上がった。


処理確認部隊。

命令の執行を監視する、軍の眼。

アラーナが命令を“正しく”実行するか、その一点だけを見届ける者たち。


数は二十を超えていた。

無言の足音が、円を描くように近づく。


ゼロセブンが身を翻そうとする。

だがアラーナは、右手を上げて制した。

その動作だけで、空気の密度が変わる。


沈黙が、刃のように張りつめる。


アラーナの指が、腰の後ろに触れた。

《ルジェ・ノワール》。

黒い柄が、指先の圧に応えるように微かに震える。


夜気が、金属の匂いを帯びていた。

霧が息づく。

空間の輪郭が、音もなく歪み始める。


アラーナは小鎌を抜き、構えることなくその刃を見つめた。

濡れた金属が、月なき空を映す。


そして、その刃に口づけをし、静かに呟く。



「コード開放――《ヴェルサ・ファタール》」



その声は祈りではなく、呪文のようだった。

それは、命令を超えて現れた“意志の構文”。


空間に亀裂が走り、裂け目が現れる。

音はない。

ただ、世界の密度が変わった。


黒い煙が地を這うように広がり、空気の層をねじりながら立ち上がる。

重力も、形も、すべての法則が失われたかのようだった。


小鎌が宙に投げ出された。

その瞬間――世界が反転する。


煙の奥から現れたのは、漆黒の大鎌。

刃は闇を吸い込み、輪郭を曖昧にしたまま拡張する。

長さはアラーナの身長を超え、柄には紅い構文線が浮かび上がっていた。

彼女がその柄を掴んだ瞬間、周囲の気配が、息を止めた。


それは武器ではなかった。

空間そのものを支配する構造体。

《ルジェ・ノワール》――沈黙の象徴。


最初の一歩。

地面が軋む。

次の瞬間、兵の姿が霧に溶ける。


声は上がらなかった。

痛みも、悲鳴もなかった。

ただ、存在が“削除”された。


刃が走り、空気が鳴る。

世界の輪郭がひとつ、またひとつと剥がれていく。


逃げようとした者の目に、黒い残光だけが焼きついた。

自分が死んだことを理解するより早く、意識が霧の中に沈んでいった。


斬られたのは、肉でも命でもない。

命令に従うだけの“番号”だった。

アラーナは、かつての自分を断ち切るかのように《ルジェ・ノワール》を振るった。


最後の一人が、膝をついた。

声もなく、顔を伏せる。

恐怖ではなく、理解の表情。

それを確認することもなく、アラーナは背を向けた。


《ルジェ・ノワール》を肩に担ぎ、

空に向けて軽く振るう。

漆黒の巨刃は、音もなく溶けて消えた。


風が戻る。

霧が形を取り戻す。

ただ、世界の音だけが一瞬遅れてやってくる。



雨は止み、森は静かだった。

だが、その沈黙の奥で、アラーナの心だけがわずかに脈を打っていた。


それは、命令に従うための鼓動ではない。

彼女がまだ“人”であることを確かめる、最後の残響だった。



(つづく)

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