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幕二十一 葛藤と選択

影衛・第四実行班のブリーフィングルームは、無人だった。

本来なら任務開始の報告を受けて、他の暗号兵たちが集まっている時間だ。

だが室内には、気配ひとつなかった。


整然と並ぶ椅子、壁に貼られた作戦予定表。

誰も座っていない机の上に、軍の灰色灯がぼんやりと落ちていた。


空気は乾いていた。

人の呼気が途絶えた部屋は、まるで時間そのものが停止したようで、床に響く足音すら、異物のように響いた。


アラーナは扉を閉め、音を立てずに中央へと進む。

手袋越しの指が、机の角をなぞる。

その冷たさが、現実を確かめるための唯一の感覚だった。


そこは――ゼロセブン。

彼がいつも立っていた位置だった。


命令書に記されていた“処理対象”の名。


ゼロセブン。


影衛・第四実行班所属、暗号兵。

沈黙の訓練、無言の作戦行動、息を合わせた戦場。

言葉はなくとも、隣に立つときだけは、わずかに空気が柔らかくなった気がしていた。


アラーナにとって、彼は数値でも符号でもない。

沈黙の中で、唯一、温度を持っていた存在だった。


だが、命令書の封印は正規だった。

署名も認証印も、軍の正式規格。

形式上、何の欠落もない。


――だからこそ、異物だった。


軍の記録では、彼は“行動不明”、そして“再教育不可”。

それは軍が「もう利用価値がない」と判断した証だ。

つまり、命令書の意味は“処分”に等しい。

だが、彼がそんな判断を受ける理由が、どこにも見つからなかった。


アラーナの思考は冷たく、整っていた。

それでも、内側のどこかが軋む。

金属が歪むように、形を保ったまま、わずかに音を立てた。


本当に、彼が裏切ったのか。

それとも、誰かが彼を“裏切らせた”のか。


封印紙を見つめる指先が、かすかに震える。

感情ではない。

ただ、思考と呼吸のあいだに生じた“微細な揺れ”だった。


アラーナは、椅子をひとつだけ動かした。

ゼロセブンがいつも座っていた席。


音は立てなかったが、整然とした部屋の中で、そのわずかな位置のずれが、不自然な乱れを作った。

秩序の中の異物――まるで、今の自分のように。


壁の端にあるスクリーンには、かつての任務記録が映し出されたままだった。

座標、識別コード、処理対象一覧。

そのどれもが、淡々と処理されていった“過去”の断片。


そこに感情はない。

ただ、成功率と損耗率という数字だけが、すべてを支配していた。


アラーナは、無意識にその映像を見つめていた。

かつての自分がそこにいた。


同じ動き、同じ呼吸、同じ沈黙。

命令を受け、命令を実行し、報告する。

何の違和感もなく、それが“生”の全てだと思っていた。


だが今、その単純な構造が軋んでいる。

たった一枚の紙のせいで。



「……本当に、あんたが……?」



声はかすれていた。

空気がその音をすぐに飲み込み、壁に吸い込まれていく。

問いではなかった。

答えを知っている者の、自己確認のような響きだった。


返事は、もちろんない。

彼はここにいない。

その不在が、完璧な証拠のように静まり返っていた。


アラーナは再び命令書を見下ろした。

印字された識別番号。


“処理対象:ゼロセブン(暗号兵・第四実行班)”

“命令内容:即時処理、記録削除、手段不問”


手段不問――その言葉が、紙の上で異様に重かった。

それは命令の中で最も残酷な文。

兵士の裁量を認めるという建前のもと、全ての責任を“実行者”に押し付ける文言だった。


アラーナは、その意味を理解していた。

軍は「命令を果たさなかった者」よりも、「命令の正しさを疑う者」を恐れている。

そして、いまの自分がまさにそれだった。


冷気が頬を撫でる。

どこからか漏れた空調の風。

それが、まるで「確認」のように感じられた。


アラーナは静かに息を吸い、封印紙を胸ポケットに滑り込ませた。

瞼を閉じ、わずかに眉を寄せる。

世界が静止したような、長い一拍。



この命令は、処理か。

それとも、証明か。



彼女は知っている。

命令は従うものではなく、“観測されるもの”だ。

だが、それをどう扱うか。

どこで刃を抜くか。何を斬るか。


それを決めるのは――いつだって、自分自身だった。


沈黙は命令を正当化しない。

沈黙の中で残るのは、意志だけだ。


アラーナは、視線を落としたまま動かない。

壁際の蛍光灯がわずかに点滅し、室内の影が伸びる。

その影が机の上を這い、椅子の脚を包み、やがてアラーナの足元で止まった。


心臓の音が、ゆっくりと戻ってくる。

冷たい音。

それは、機械の鼓動に近かった。


封印紙の端が、ポケットの中で指に触れる。

あの紙が存在する限り、命令は消えない。

だが、命令に従うかどうかは――命令では決められない。


アラーナは踵を返した。

その動作ひとつに、無数の思考が沈んでいく。

机の上の光が、彼女の背中に沿って細く伸びた。


そのまま、無音のまま扉へと向かう。

背後で風が動いたような錯覚があった。

だが振り返らない。


沈黙の中で、ひとつの決意が形を取った。



それは命令の始まりではなく――抗うための最初の呼吸だった。



(つづく)

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