幕二十 命令は冷たく届いた
ヴァルティア歴V.E.286年――現在より三年前。
廊下の壁には監視端末が均等に並び、光の明滅さえ、秒単位で制御されていた。
人間の息よりも、機械の作動音のほうが多い場所。
その無機質なリズムの中を、アラーナは歩いていた。
影衛の指令室へと続く、地下最深部の通路。
何度も通った場所。
任務のたびに、感情のない靴音を刻んだ道。
だが、その夜だけは、空気が違っていた。
白い蛍光灯は変わらず天井を照らし、温度も規定のまま。
それでも、皮膚の内側が静かにざわついた。
息を吸っても、どこかに“密度”がある。
そんな気配だけが、歩みに影を落とす。
まだ指令室には入っていない。
けれど、そこに辿り着く前から、アラーナは知っていた。
今夜は、“いつもと同じ任務”ではない。
重厚な鋼鉄扉の前で、立ち止まる。
冷たい金属の静けさは、これから入る者にだけ許された緊張を孕んでいた。
無音の開錠音が鳴った。
扉がゆっくりと開いた先にいたのは、影衛・第四実行班の指揮官――セリア・グランネヴィル。
黒髪をぴたりと結い上げ、軍服を寸分の隙もなく身にまとい、一切無駄のない所作で、端末を操作していた。
その動作には、人間的な呼吸がなかった。
指の動きは正確で、まるで命令そのものが彼女の神経を支配しているかのようだった。
「ゼロフォー。着座を」
空気が止まった。
呼吸音がひとつ、ノイズのように響いた。
それでもアラーナは動かない。
それは指示であり、命令であり、慣習でもあった。
だが、彼女にとって“座る”ことは“従う”ことではなかった。
それはただ、意味のない動作だった。
セリアは視線をわずかに逸らしただけで、反応を返さなかった。
やがて、端末から一枚の命令書が排出される。
重々しい封印紙。
淡く浮かぶ文字は、見る者の目に冷たい圧をかけてくる。
命令書の上部には、任務分類を示すコードが刻まれていた。
《A2》――暗号兵・処理対象同班所属・記録抹消指令。
その分類が何を意味するか。アラーナには、わかっていた。
ただの粛清。
しかも、それは“身内”に対して発動されるものだった。
処理対象:ゼロセブン(暗号兵・第4班所属)
状態:行動不明/再教育不可と判定
命令内容:即時処理、記録削除。手段不問。
視線は、一瞬だけ紙の端を逸れた。
読み間違いではない。
封印も正規。
命令は、成立している。
指先の関節がごくわずかに動いた。
呼吸は浅くなったが、それでも外には出ない。
肺に入りかけた空気が、どこかで止まったまま沈んでいく。
――ゼロセブン。
少し前まで、隣で命令を受けていた者。
食事のときも、訓練のときも、戦場でも、沈黙を守りながら隣にいた。
その名前が、今は――“処理対象”になっている。
「任務確認は?」
セリアの声は均一だった。
高低も、抑揚もない。
それは、人間ではなく装置に向けて発せられる類の音声だった。
アラーナは、もう一歩だけ前に出る。
命令書を手に取り、封印を目で確認し、指の腹で紙の縁をなぞった。
そして、言葉を置く。
「……了解した」
それは拒絶でも肯定でもない、確認と同義の語。
指令通りに、音の形を取っただけの返答だった。
踵を返す。
軍靴の音が、扉の前で鋭く響く。
セリアはもう、何も言わなかった。
無言で閉じられた扉の音が、廊下に残された唯一の記録となる。
その残響が、金属の壁を伝って遠くまで響いていた。
まるで、地下全体がひとつの巨大な棺のように。
アラーナはこの時、まだ気づいていなかった。
この命令書が、自分という存在を終わらせる夜の始まりになることを。
(つづく)




