幕十九 記録を塗りつぶす者たち
黒煙は消え、路地裏の空気が戻ってきた。
雨はやんでいた。
けれど、地面はまだ濡れていて、踏みしめるたびに薄く水音を立てた。
沈黙だけが、雨の名残として残っていた。
追跡者の形も血も、何も残らなかった。
ただそこにあったのは、“処理されたという事実”だけだった。
アラーナは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、背中に貼りついた冷気が動き、足が前に出る。
左手には、古い金属の鍵。
名も知らない男が、数日前に残していったもの。
鍵は、廃聖堂裏の一室を開いた。
蝋燭の火は、すでに灯されていた。
男は机の前に座っていた。
前と同じ姿、同じ場所、同じ表情。
アラーナが一歩足を踏み入れると、彼は視線を上げ、静かに言った。
「……“死神”が戻ったという噂は、もう軍だけじゃない。王国の上層部――いや、国王の耳にも入っているだろうな」
アラーナは返さない。沈黙のまま、壁際に立つ。
「記録ってのはな、誰かが“生きてる”って信じてる限り、燃やしても残る。良くも悪くもな」
彼は机の上の一枚の紙を滑らせる。
アラーナが受け取り、目を落とす。
そこに書かれていたのは、区画番号と座標、そして十日後の日付。
名前も、依頼人も、理由もない。ただ、それだけ。
「……だが、塗りつぶすことは、できるかもしれない。形を変え、存在を消して、別の姿で歩かせることができるなら――な」
アラーナは紙を伏せたまま、男の顔を見た。
男は何も言わない。
微笑むこともなく、ただそのまま、語り始めた。
「……第四実行班。あれは、存在を“記録される前に”消すための班だった」
彼の声は、低く静かだった。
「再教育された貴族。禁術保持者。密命に背いた軍人。王国にとって“不都合な存在”を、表に出さず、記録ごと抹消する――それが、俺たちの任務だった」
「俺たち暗号兵は、ただ、命令だけに従った。意志持つこともなく、番号で生かされて、番号で処理されるために存在していた」
机の上の蝋燭が、わずかに揺れた。
「……でもな。気づいてた。処理対象が、何もしてない子どもだった時もある。“記録に残る前に消せ”って……あれは、ただの予防だった」
男は、無意識に「俺たち」と言っていることに気づくと、少しバツが悪そうに頭を搔いた。
アラーナは、その言葉を聞きながら、ひとつの記憶を思い出していた。
訓練の終わり。兵装を受け取る前の夜。
廊下の奥、ゼロセブンが、背を向けて立っていた。
声も表情もなかった。
けれど、なぜかその背中だけは、不思議と怖くなかった。
彼の背に視線を置いた瞬間、初めて思った。
“背を預けてもいいかもしれない”と。
それは感情ではなく、ただの本能だった。
これまで、何の意思も感情も持たず暗号兵として教育されてきたゼロフォーにとって、それが唯一だった。
蝋燭の炎が揺れるなか、アラーナは静かに言った。
「……お前。ゼロセブン……お前が、ゼロセブン……なのか」
男は何も言わない。
だが、その視線が、“そうだ”と語っていた。
それは命令ではなく、確かに“呼びかけ”だった。
アラーナは伏せた紙をポケットにしまう。
そして、黒衣の下、《ルジェ・ノワール》の柄に触れる。
「――わかった」
その声に、迷いはなかった。
ゼロセブンが生きていた。
かつて背を預けた相手の“記号”が、今ようやくひとつの輪郭を持った。
番号しかなかったふたりが、初めて互いの記憶を呼び起こした夜だった。
それは、記録ではなく――選び直すための“再会”となった。
夜の外では、誰も知らぬ風が、静かに新しい頁をめくっていた。
(つづく)




