幕十七 コードで呼ぶ者、記憶で見る者
蝋燭の小さな炎が、冷えた空気をゆっくり撫でていく。
その温度が、記憶と現実の境を曖昧にしていた。
男は椅子にもたれかかり、組んだ指をほどくと、静かに机の上を叩いた。
「……第四実行班の名簿、いまじゃ軍の中でも一部の上層部しか見られない」
アラーナは反応を返さない。
呼吸を抑えるようにして、言葉を封じた。
口を開けば、過去に飲み込まれてしまう気がした。
「十人いた暗号兵のうち、八人は任務中に消えたとされてる。彼らは全員、内部記録抹消。指揮官だった女――セリア・グランネヴィル。最後に目撃されたのは、首だけが指令室に残された時だった」
蝋燭の炎が、机の上に置かれた一枚の紙を照らす。
そこには手書きの図と、番号の羅列。ゼロフォーの名もある。
「まさか、本当に……お前がやったのか。全部、あの時に」
沈黙。
アラーナは動かない。
だが、その指先が、ごくわずかに動いた。
紙に触れるわけでもなく、ただ手のひらが、無意識に何かを拒絶するように。
男は表情を変えず、続けた。
「命令に背いた、ってことか。あるいは――命令を果たしすぎた、のかもしれないけどな」
椅子のきしむ音。
蝋燭が小さく波打つ。
「でも、ひとつだけ言える。お前は“誰か”を斬らなかった」
その言葉に、アラーナの視線が一瞬だけ動いた。
体温が、ほんのわずかに上がるのを感じる。
忘れたはずの鼓動が、コートの下で鳴った。
「記録に残ってるんだよ。ゼロセブン――リュカ・アーヴェント。“ゼロフォーの任務中に失踪”ってな」
その名に、反応はなかった。
けれど、空気が確かに、少しだけ締まった。
「……それがゼロフォーの“意志”だったのなら」
男はゆっくりと立ち上がった。
机の上に、小さな鍵をひとつ置く。
「俺は、お前に興味がある」
そのまま、背を向けて歩き出す。
扉の前で立ち止まり、最後に一言だけ、背中越しに告げた。
「好きにしていい。この街で居続けるのか、逃げるのか、それとも……この街で、俺を斬るのか。だが、覚えておけ。……ゼロフォーという文字列は、まだ“消されていない”。あの記録庫の底に、きっちり貼られている」
扉が軋んで開き、足音が外へと消えていく。
部屋には、炎の音と、鍵の金属が木に触れる微かな感触だけが残された。
アラーナはまだ、何も言わない。
ただ、揺れる火の向こう、過去と現在の狭間に立ち続けていた。
炎が一度だけ強く揺れ、壁の影が形を変える。
その揺らぎのなかで、一瞬だけ――記号ではない“顔”が浮かんだ気がした。
それは、名を持たない誰かの面影。
そして、その影が消えると同時に、アラーナの呼吸だけが残った。
(つづく)




