幕十六 記憶の再起動
男の背を追って歩く。
アラーナは足音を抑え、視線を絶えず周囲に巡らせていた。
廃聖堂。
かつて宗教施設だったという石造りの建物は、今ではほとんど忘れられた存在だった。
扉は錆びていたが、開く音は意外なほど静かで、内部は思ったより整っていた。
灯りはない。
男が蝋燭を一本取り出し、火をつける。
オレンジ色の光が、埃にまみれた机と椅子を照らし出す。
四方を石壁に囲まれた空間。窓は布で覆われ、外からの気配は届かない。
密室というには、あまりに静かすぎた。
男は机の向こう側に腰を下ろし、椅子をひとつ、軽く手で示した。
アラーナは応じない。
壁際に立ったまま、男を見ていた。
その視線は警戒を解かず、同時に、蝋燭の炎を見てもいなかった。
男は無理に話しかけようとはしなかった。
しばらくの間、室内にはただ蝋の燃える音だけがあった。
“ゼロフォー”。
その言葉が、まだ頭の奥に引っかかっている。
──番号だけで呼ばれていた日々。
訓練施設の白い天井。
鉄の音、整列、感情の削除命令。
自分の意思で動いた記憶が、ひとつもない。
眠る時間も、食事の量も、表情の変化すら――すべてが監視されていた。
喜怒哀楽は“廃棄対象”とされ、笑った者は次の朝には部屋から消えていた。
『ゼロフォー、次の処理対象』
『ゼロフォー、表情変化、規定外』
命令の声が降ってくるたびに、頭の中の何かが凍りついていった。
“判断”という機能が、最初から自分に与えられていなかったのだと、思い知らされる。
あれは意思ではなかった。反射だった。
投げられた言葉に、身体が勝手に反応する。
名を与えられることはなかった。
番号で呼ばれ、番号で消される者だった。
生き残る条件は、ただ命令に従うことだけ。
アラーナの目が、今いる部屋と記憶の中の“あの部屋”を重ねていた。
石壁の冷たさ。灯りの位置。誰もいない静けさ。
違うのは、自分が立っている“意志”の強さだけ。
男がようやく口を開いた。
「……影衛の残党が、動き出してる」
彼の声は低く、抑揚はほとんどなかった。
机の上に、何枚かの紙を広げる。
手描きの地図、記号が刻まれた軍用文書の断片、黒く塗り潰された日付。
「影衛の組織自体は、とっくに死んでる。だが、お前の記録は軍に残ってるし……新たな追跡部隊を編成してるらしい。“お前専用”に、な」
アラーナは何も言わない。
資料にも目を向けなかった。
「ルメアに死神が出るって話が広まった頃、軍の末端が動いた。首のない死体。刃の形状。処理痕――“ゼロフォー”の特徴を知る者は、まだ残ってる。そしてどこかで、お前を監視している」
沈黙の中で、“監視”という単語だけが、記憶の底を震わせる。
アラーナの表情が少し険しくなる。
同時に、その足がわずかに動いた。
逃走でも、攻撃でもなく、ただ地に立ち直すような動きだった。
男は視線を蝋燭に落とし、少し間を置いて言った。
「……ゼロフォーは、もういないのか?」
その問いに、言葉は返らない。
けれど、静かに伏せられた視線が、それ以上の答えだった。
そのとき――
蝋の炎がわずかに揺れ、視界の端で“白”が瞬いた。
訓練室の光。硬質な床。規則正しい足音。
ほんの一瞬、過去が呼吸したように思えた。
アラーナは瞳を閉じ、再び開く。
そこにあるのは、いまの光だけ。
蝋の炎だけが、沈黙のなかで揺れていた。
(つづく)




