幕十五 再会は、ゼロフォーの名と共に
ルメア下層区の奥。
崩れかけた石壁に挟まれた、看板もない酒場――《エイディスの耳》。
灯りは弱く、空気は淀んでいた。
名も知らない者たちが、声も交わさず集う場所。
アラーナは、壁際の席にいた。
黒のロングコートは椅子の背に。
グラスには触れず、視線は一点を見据えたまま動かない。
まるで、そこに自分自身すら存在しないかのように。
扉が軋み、足音が近づいてくる。
男が正面の椅子を引き、静かに腰を下ろした。
旅装。乱れた髪。
軽い身振りの中に、目だけが観察の色を帯びている。
「……沈黙街の酒場ってのは、気配まで薄くなるもんだな」
アラーナは、顔を上げない。
「まあ、酒より静けさに浸る場所だって話か……違ったか?」
返答はない。
「椅子、硬くなったな。……前より、だいぶ」
それでも、何も返ってこない。
男は肩をすくめ、グラスを指でなぞりながら、ぽつりと落とした。
「……相変わらず、不愛想だな。……ゼロフォー」
空気が、変わった。
アラーナの視線が、初めてわずかに動いた。
次の瞬間、左手が腰の内側に滑る。
黒衣の下、《ルジェ・ノワール》の柄へと指が触れた。
椅子が軋む。
身体の軸が静かに傾き、踏み込みの構えへと移行する。
処理動作直前の、戦闘姿勢。
店内の音が遠のく。
誰もが気づきながら、誰も見ようとはしない。
男は、両手をゆっくりと上げた。
笑みは保ったまま、声だけが少し低くなる。
「……まあ、そう来るのは覚悟で呼んだんだが……。予想通り、さすがというか、やっぱり怖ぇな」
アラーナはそれでも返事はしなかった。
けれど、指が柄から離れる。
構えは解かず、緊張だけが残った。
男は静かに立ち上がり、テーブルにルメア銀貨を一枚だけ置いた。
「ここじゃ話せない。……静かな場所がある」
「情報と酒、どっちが目的かは、行ってから決めてもらって構わない」
アラーナはグラスを一度だけ見やり、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。
コートの裾がなびき、長い髪が肩先で揺れた。
足元の動きは静かで滑らか。
周囲の空気がわずかに震えた。
男が店を出る。
アラーナがその背を追う。
誰も、ふたりに声を掛けなかった。
ふたり自身もまた――その必要すら感じていなかった。
呼ばれたのは、名ではない。
番号――それは、命令と引き換えに与えられた記号。
もう忘れていたはずのそれを呼ばれたとき、心臓が冷える音がした。
(つづく)




