幕十二 老人の願い
扉が軋む音が、沈黙に満ちた地下室に落ちた。
ルメア大通り、その裏手にある古い鉄扉。
看板も札もなく、錆びたその扉は、ただひとりの訪問を待っていた。
階段を下りる足音が、石壁に吸い込まれていく。
その音も、数歩のうちに静寂に呑まれた。
冷たく、乾いた空気。
この地下では、声すら息と同じ速度で消える。
名を告げる者も、名を呼ぶ者もいない世界。
だが――アラーナ・ノクターンが足を踏み入れたとき、空気がかすかに変わった。
灯りはない。
窓もない。
けれど、その空間の中央、契約の抽斗の脇に据えられた古椅子に、ひとりの老人が座っていた。
誰の気配もないはずの場所に、確かに“居た”。
背は丸く、着込んだコートは年季を帯びて色を失っている。
両手を膝に置いたまま動かず、ただ呼吸だけが生を示していた。
まるで、永い間そこに座って待っていたように。
アラーナは足を止める。
瞳を動かさず、その存在を確認。
老人はゆっくりと顔を上げた。
その動作に、時間が一瞬、引き延ばされた。
「……声を、奪われたんです」
低く、震える声。
だが、その語尾だけが妙に確かだった。
「……あの子は、もう声が出せない……」
「……だから、代わりに……お願いしたいんです……」
「……どうか……あの子を……」
声が途切れるたびに、空気が沈む。
その沈黙の深さに、アラーナは呼吸を一拍遅らせた。
彼女は一歩も動かず、それを受けていた。
言葉を返す理由はない。
老人は足元の鞄を開け、ゆっくりと袋を取り出した。
赤い封蝋が施されていたが、印は滲み、かろうじて輪郭を保っていた。
押されたはずの紋章はもう崩れ、ただの汚れにしか見えない。
袋の内には契約書が一枚――だが、それは白紙だった。
そして、ルメア銀貨が十枚。
それだけが、確かに揃っていた。
「……このままで――名前も、書けませんでした……」
アラーナは、静かに歩み寄る。
足音は、空気に吸い込まれるたびに形を失っていく。
銀貨が揃っている――それがすべて。
この世界で契約が成立するのは、印でも署名でもない。
“支払いがある”という事実だけが、それを証明する。
それでも――袋を取ろうとした瞬間、彼女の指がわずかに止まった。
依頼の条件は、確かに満たされている。
だが、この銀貨には“重さ”があった。
金属ではない、もっと柔らかい――祈りのような質量。
沈黙の底に、確かに“願い”が沈んでいる。
依頼ではなく、代わりに願う誰かの心。
アラーナは、思考を拒んだ。
意味を考えれば、手が鈍る。
その代わりに、慣れた所作で袋を受け取る。
空気が静かに動き、封蝋がきしむ。
アラーナは何も言わず、ただ、階段のほうへと踵を返した。
足音が、再び沈黙に溶けていく。
老人は、椅子に座ったまま、目を閉じていた。
その表情には、安堵にも似た影。
だが、呼吸はもう、音にならなかった。
契約は――すでに完了している。
(つづく)




