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幕十一 名も声もない依頼

ルメア旧整備区画。

建物の骨組みだけが残った、半壊の住宅群。


雨はもう降っていない。

けれど、空気はまだ濡れていた。

錆びた配管からは絶え間なく水が滴り、壁は剥がれている。

窓という概念すら、この区画からは消えかけていた。


ここでは、誰が死んでも通報はされない。

腐食と崩壊の速度のほうが、生命よりも早い。


そんな瓦礫の路地のひとつ。

灯りの切れた廊下に、ひとりの男がいた。

片眼に黒布、右腕には火傷痕。

契約書に記されていた特徴と、一致していた。


男は壁にもたれ、しゃがみ込むように座っていた。

背の後ろの影が、泥の床に長く伸びている。

彼の指先は、何かをいじっていた――

だがそれが何であるかは、もう意味を持たなかった。


アラーナは音を立てずに近づく。

靴底のの接地音が、かすかに泥を押しつぶす。

背に届く距離。呼吸の気配はない。

ただ、体温だけがこの場所に“まだ生きている”ことを知らせていた。


腰のベルトにかけた小鎌に、指を添える。

刃は音もなく抜かれた。

黒い金属の弧が、夜の湿気を切り裂き、

空気がひとつだけ震えた。


振り返る動作が完了するより早く、男の首が傾いた。

時間差で身体が沈み、泥に濡れた地面へと崩れ落ちる。


音も、叫びも、何も残らなかった。

処理は完了。


その中で――ひとつだけ、かすかな動きがあった。

切断された口元が、震えていた。



「……マ……ナ……」



風にかき消されるような、あるいは、ただの痙攣だったのかもしれない。


アラーナの目が、ほんの一瞬だけ動く。

視線の焦点がわずかにぶれる。

“呼ばれた”という感覚。

それが何を意味するのか、彼女には分からない。



アラーナは、視線を戻した。

何も聞かず、何も拾わず、踵を返す。


背後では、倒れた身体が泥に沈み、黒布が水を吸って重く垂れていた。

この街の空気は、すべての死を“沈黙”の形に変える。



通りには灯りもなく、風もなかった。

ただ、遠くで鉄管の水が滴る音がした。

アラーナの足音が、それと交互に響く。


生者と死者の区別が曖昧な街。

歩けば歩くほど、境界が薄れていく。

だがアラーナにとって、それは恐怖でも痛みでもなかった。

“仕事”という言葉のほうが、現実に近い。


彼女は、何も持ち帰らなかった。

必要がない。

結果は常にひとつ。


アラーナが生きている限り――

それが依頼完了の証となる。


その夜、ルメア旧区の片隅で、

誰かが窓を閉めた気配があった。

それが、この街での“報告”の形。


死神はただ、次の夜を待つ。

それだけだった。



(つづく)

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