幕十 ギルドの扉は軋む
ルメア中央ギルド《コモン・リスト》。
白い石造りの本館には、連盟登録の冒険者と市民が日夜出入りしている。
その建物の裏手。
看板も、扉札も、鍵穴すらない古い鉄扉がある。
誰も気に留めないその扉は、ただの壁のように沈黙していた。
……だが、女が近づくと、鉄が軋む音を立ててゆっくりと開いた。
押しても叩いても開かないそれが、音を立てたのは――
アラーナ・ノクターンただ一人を迎え入れる合図だった。
石段を下りる。
硬質音が、静寂の空気にひとつずつ刻まれていく。
冷たい空気が、声帯の存在すら忘れさせる。
灯りはない。けれど、彼女は迷わない。
歩幅も、手の位置も変えずに――まるで日課のように、ただ降りる。
数日前の夜。
仕事を終えた裏路地で、黒衣の男が近づいてきた。
言葉はない。
薄い封書を差し出すと、音もなく去っていった。
アラーナはそれを受け取り、封を切る。
中には、ひとことだけが記されていた。
首を預ける場所。《オーケストラ》。
それだけ。
地下の扉が開くと、石造りの小部屋が現れた。
窓もなく、声もない。
金属製の抽斗が整然と並ぶ。
契約を飲み込むための無数の口。
ひとつの抽斗が開いていた。
中には、小ぶりの封蝋袋が納められている。
赤い蝋で封じられた袋は、開封すれば即座に痕跡が残る仕立てだった。
蝋面には、五線譜を模した歪な刻印。
それだけで、ここが何を“演奏”する場所かが分かる。
アラーナは袋を取り出し、封を切る。
ルメア銀貨が規定通り十枚。
契約書には「年齢不詳・片眼・右手に火傷痕」とだけ記されていた。
名前はない。
依頼人の記録もない。
だが報酬だけは、確かに先に置かれていた。
先払い。それが条件。
結果より先に、金が動く。
それを理解できる者だけが、アラーナ・ノクターンに依頼できる。
封を閉じ、アラーナは袋を抽斗の脇に戻す。
ベルトの背に差した小鎌を抜く。
黒く光る刃先は、まだ沈黙を保ったまま空気すら切らない。
柄の端で金属台を一突き。
甲高い音が室内に跳ね、すぐに消える。
声の代わりに――それが了承の合図。
抽斗の奥で帳票が一枚抜かれ、赤い印が押される。
誰が依頼したかも、なぜかも、記されることはない。
ただ、“死神が動いた”という記録だけが残る。
返事も、説明もない。
それでも、すべては問題なく進行する。
沈黙のまま、死神は次の首へと歩き出した。
(つづく)




