幕零 伝承の街
夕暮れ。
ルメアの下層区は、深く沈んでいた。
市場は閉ざされ、風見鶏は止まっている。
風だけが、影のように通り抜けていった。
通りの片隅で、子どもたちが輪をつくる。
声は小さい。けれど、確かに歌があった。
誰が教えたのかも、いつから始まったのかもわからない。
それでも皆、その歌を知っていた。
少女がぬいぐるみを抱き、片足で回る。
歌が輪を描き、影が地面に伸びる。
風が通り抜け、誰かの髪を揺らした。
―――――――
ねぇねぇ おしえて
だれのなまえが きょうはきえるの?
しらないこえが ふりむいたら
くびが ころん おちるから
なまえはかくして ほら うたおう
しんだふりして ねむろうよ
―――――――
それは遊びだった。
目隠しをした鬼がひとり、中央に立つ。
誰かがそっと背を叩き、「なまえは?」と囁く。
答えられなければ捕まる。
ただ、それだけのこと。
意味を知る者はいない。
けれど、この街では“暗闇で名を呼ばれたら首が落ちる”と信じられていた。
石畳の向こうで、店主が窓を閉めた。
古書屋の老婆は本を読むふりをしている。
誰も歌に触れない。
ただ、聞こえないふりをしていた。
この街では、名は呪いに似ている。
呼ぶことは、結ぶこと。
呼ばれることは、切られること。
それでも、誰かが必ずその歌を口にする。
忘れないために。
あるいは、思い出してしまうために。
その歌は、今も起こっている。
ほんとうに“あった”ことだった。
けれど――誰も、その意味を知らない。
風が通りを撫でた。
輪が揺れ、歌が止まる。
空気が一瞬、遠い過去の色を帯びた。
その夜、ひとつの名が誰にも知られずに消えた。
誰もそれを知らない。
けれど確かに、存在していた。
それは過去ではない。
今も起こっていることだった。
けれど、“誰の話か”を知る者はいない。
物語は記録されなかった。
沈黙の底で、ひとつの刃が動き出す。
(つづく)




