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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

遅すぎた再会

作者: 吉姜

彼女はまた、腹を抱えていた。

冬の夜風が窓の隙間から吹き込み、背筋を冷たく撫でる。

部屋の灯りが揺れ、壁に映る影は、何かを思い出させるようでもあり、嘲笑しているようでもあった。


腰に重みがのしかかり、一歩ごとに歩みが鈍くなる。

呼吸は浅く、胸の奥が詰まる。

彼女は無意識に手を下腹へ添えた。

その仕草は自然で、刻み込まれた本能のように見えた。


これが最初なのか、もう何度目なのか、考えもしなかった。

影のように、どこまでも付き纏って離れない。


――


最後に彼を見た顔を思い出せない。

夜の抱擁だけが、熱のように彼女の全身を震わせた。

朝になると、部屋は空っぽになっていた。

床には服が散らばり、空気には酒と煙草の匂いが残っていた。


やがて、腹に重さが宿る。

幻覚だと思いたかった。

だが制服のボタンがきつくなり、吐き気が何度も押し寄せるたび、夢ではないと知らされた。


教室では囁きが背後で笑いに変わり、教師の視線は彼女の胸元に落ちては、すぐに逸らされた。

廊下を歩く足音さえ、裁かれているように響いた。


家はもっと静かだった。

母は茶碗を持ちながら一度も顔を上げず、視線は刃物のように冷たい。

父は椅子に座ったまま、息遣いさえ押し殺していた。

言葉を紡ごうとしても、その沈黙に押し潰され、喉の奥に消えていった。


子どもが連れ去られた日のことを、彼女は鮮明に覚えている。

顔を見せてもらえなかった。

短い泣き声が響き、すぐに途切れた。

伸ばした腕は空を掴み、そこには何も残されなかった。

壁際に落ちた影が、誰のものかさえ分からなかった。


それ以来、彼女は麻痺を覚えた。

痛みよりも、麻痺のほうが生きやすいと。


――


年月が過ぎ、夜は彼女の避難所になった。

酒だけが、唯一の慰めだった。

彼女は壁際の席に腰を下ろし、黄昏の光に紛れた。

グラスの氷がカランと音を立てる。それが挨拶の代わりだった。


その夜、彼は入ってきた。

扉の光が彼の影を引き延ばし、気怠い仕草を際立たせた。

視線を流すつもりが、次の瞬間、心臓が不意に跳ねた。


声も、笑みも、歩き方さえも――

あまりにも似ていた。

初めてのときめきではない。

消えたはずのあの人が、目の前に戻ってきたようだった。


彼は隣に座り、何気なく酒を注文した。

氷がグラスに落ち、乾いた音を響かせる。


「名前は言わなくていい」

彼は笑った。酒気のように軽やかで、煙のように頼りない声。

「俺も訊かないから」


一瞬の間のあと、彼女はグラスを傾けた。

喉を焼く苦さに目を細めながら、笑みが零れた。

過去も未来もない。ただ今だけがある。

それでいい。


――


彼はときどき、不思議な言葉を口にした。


「ずっと、君を待っていた気がする」

囁きは甘い告白のように響いた。


頬に熱が灯り、彼女は顔を逸らした。

「何を待っていたの?」

「こうして近づけることを」


夜、彼は耳元で歌を口ずさむのを好んだ。

知らない旋律なのに、彼女の体は解けていく。

遠い昔に戻ったようで、不思議と安心するのだった。

「その歌、何?」と訊くと、彼は笑って「自分でも分からない」と答えた。


酔いつぶれた夜、彼は彼女の手を強く握りしめて呟いた。

「君は、いつも俺のそばにいた」

彼女は夢話だと思い、額に口づけを落とした。


ある夜、彼女が気まぐれに歌を口ずさむと、彼はじっと耳を傾けた。

「その声……生まれる前から聴いていた気がする」

彼女は首を振り、ただ恋人の戯言と受け取った。


――


彼と歩く夜道は、冷たい風さえ柔らかく思えた。

キッチンで麺を茹でているとき、彼は戸口にもたれて見ていた。

ふいに笑い声が零れる。

「どうしたの?」と彼女が訊くと、

「いや……この光景、どこかで見た気がして」

彼女は一瞬固まり、それを笑みで覆い隠した。


酒以外に寄りかかれるものがある。

その事実が、彼女を少しだけ楽にした。


――


男は台所で歌を口ずさんでいた。

旋律は知らないはずなのに、心の奥が静かに満たされていく。

彼女は戸口に立ち、微笑みながら、その背を見つめた。

やっと取り戻せた気がした。


「母親はいなかったんだ、ずっと」

彼は数日前、そう言った。

彼女は笑って答えた。

「じゃあ、私が母親の役をしてあげる」


彼女はそっと下腹に手を添えた。

そこには、もう一度あの重みが宿っていた。


気づいてはいなかった。

彼が言ったことは本当だった。

彼女が言ったことも、本当だった。



             ――完――

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