第2話 死神の未練
それからの数日、踏切から家までの二十分は、彼女とのおしゃべりの時間になった。
俺は歩き、シオンはふわりと滑るように付いてくる。傘の縁のフリルが風に揺れていた。
俺達の会話は他愛もないものばかり。今日の給食の話や、校内の掲示の誤字の話で笑うこともあった。
本物の死神と笑っている自分に気づいて、可笑しくなることもあった。
「そういや、シオン。君は、なんで死んで……なんでそんなに強い未練を残してるんだ?」
信号待ち、横断歩道の白線の上で、俺は訊いた。
シオンは赤い目をわずかに細める。
「……なんだよ、カナタ! アタシに興味あんのか? シシシ」
(変な笑い方だな)
「自分の身体を乗っ取ろうとしてる死神のことは、わりと興味湧くだろ」
「アハ! それもそうだな」
彼女は語り出した。
生前、彼女は幼馴染の女の子・赤井春香と、ピアノの発表会に出るのが夢だった。
だが、本番の日に悲劇は起きた。
会場に向かう途中、シオンは交通事故に遭い、病院へ緊急搬送されてしまう。春香は紫苑を待ち続けたが、そのまま紫苑のステージは無音のまま幕を閉じた。そして、両親への「ありがとう」も言えないまま――反抗期をこじらせたまま――彼女は死んだのだ。
「……だから、聞いてほしい。アタシの音を。はるかに。お父さんとお母さんに……」
俺は何も言えなかった。胸の奥が、灼けるように痛い。
「カナタ。最初にも言ったけど、死神は死神を認識できる人間の身体を乗っ取ることができるんだ」
横道に入って、人目が途切れると、シオンはさらりと言った。
「そういう死神は他にもゴロゴロいる。全部奪って、そのまま生きるやつ。……でも、生きてる人間を乗っ取るには条件がある。乗っ取られる本人が、どういう経緯かはさておき、それを望まないと成立しない」
「そうなのか」
「そ。アタシは、カナタで三人目だ。前の二人も、生きてるのに死んだ顔してた。けど、結局、最後のところでアタシを拒んだ」
「……まぁ、普通はそうだろうな」
「ったく、あいつらなんかよりアタシの方が、ずっと“意味のある人生”を送れるってのに」
「“意味のある”か……」
白線の上に、影が二つ、重なったり離れたりする。
気づけば、俺は口を開いていた。
「――いいよ」
「え?」
「だから、いいよ。乗っ取っていい」
シオンの瞳孔が、わずかに広がる。
「本気かよ。……それ、つまりお前は死ぬんだぞ」
「分かってる。嘘でも本当でも、シオンの話を聞いて、同情しちまったからな。
……それに、俺の身体だって、長持ちする保証はない。生きる意味も見いだせないまま、なんとなく終わるくらいなら――この身体を使ってシオンの未練、晴らしてこいよ」
シオンは黙った。
夕日が傘の縁を赤く染める。彼女は視線を落とし、つぶやく。
「……バカだな、お前は」
* * *
重厚な扉がゆっくりと閉じられ、ホールは静まり返っていた。
ステージ中央には大きなグランドピアノ。
その漆黒の表面がライトに反射し、静寂の中に張り詰めた緊張を漂わせていた。
観客席には三人。
赤井春香。かつて生前のシオンと一緒にピアニストの頂点を夢見た幼馴染。
そして、前列中央にシオンの両親。
三人とも、この場に呼ばれた理由が分からず、互いに小声で言葉を交わしている。
「春香ちゃんも! どういうことなの……?」
「分かりません。けど、ここに来いとだけ……」
「僕達を知る誰かが何かの目的で呼んだんだろうね」
その時だった。
ステージ袖の影から、一人の少年が現れる。
制服姿だが、瞳は異様に“赤く”染まっていた。
言うまでもない。彼は眞白 奏多――の身体に宿ったシオン。
「あなたは……」
春香が立ち上がる。
だが、彼女は言葉を飲み込んだ。目の前の少年の仕草が、確かに“彼女”を思わせたからだ。
少年は答えずにただ笑顔を三人に贈った。そして、ピアノの椅子に腰を下ろした。
鍵盤の前に手を置くと服のこすれる音だけがその場に響いた。
その背中に、三人は言い知れぬ既視感を覚える。
――静寂。
そして、彼の指が一音目を奏でた。
柔らかく、透明で、切ない旋律。
指先から零れる音は、まるで長く途絶えた時間を繋ぎ直すかのように、ホール全体を包み込んでいった。
春香の瞳が大きく見開かれる。
「……紫苑……」
両親もまた、こみ上げる感情を抑えきれずにいた。
母親の手が口元を覆い、父親は拳を震わせながらもただ聴き入る。
音は流れる。
未練。後悔。願い。――そのすべてを込めた旋律が、あの時に果たされなかった発表会を今ここで完成させていく。
やがて最後の和音がホールに響き渡り、余韻が静かに消えていった。
誰も拍手しなかった。できなかった。ただ涙と嗚咽だけが、空席の多いホールに滲んでいた。
奏多はゆっくりと立ち上がり、赤い瞳で三人を順に見つめる。
その表情は、どこか満足げで――そして、寂しげでもあった。
「……ありがとう」
かすれた声が漏れる。
それは、両親に一度も言えなかった言葉。
それは、春香にずっと伝えたかった感謝。
そう告げると同時に、赤い瞳はふっと色を失い、元の黒へと戻っていった。
奏多は糸が切れたように膝をつき、荒く息を吐く。
(う……、シオン。もういいのか? 俺をそのまま乗っ取ってもいいのにと言ったのに……)
彼女はあの踏切に戻るまで、俺の中に居たまま返事をしなかった。
顔は見えなかったが俺の中で、シオンは確かに笑顔だったと思う。