第1話 生きている死者と、死んでいる生者
四限目の体育の時間、俺――眞白 奏多は保健室前のベンチの日陰で、陽射しと風をやり過ごしていた。
グラウンドを回るクラスメイトの歓声が、遠く、俺の耳に届く。
先生は慣れた調子で「無理すんなよー」と俺に声をかける。
「ちくしょう」
昔から体は強いほうじゃない。長距離走などは特にすぐに視界が白んで、ひざが痛む。今日も例外じゃなかった。
放課後――
いつものメンバーの三人で校門を出る。
とりとめのない学校の話を交わす。
購買のメロンパンの話、昨日の配信者の話。俺は相槌を打ちながらも、頭の奥がからっぽなのを自分でも分かっていた。
俺が住む住宅街に入る前に踏切がある。
カンカンカン……と音が鳴り響くと、黒と黄の色の遮断機が下り、風にフェンスが鳴った。
「ん?」
その向こう側に――白の、フリルで縁取られた、黒い大きな日傘。各所にはカットワーク刺繍とリボンがあしらわれている。
傘の下の人影は細く、赤く髪が風に揺れた。纏うのはゴシック調のワンピース。
それは、ひと目で「ただ者じゃない」と分かる雰囲気。
俺は思わず足を止めた。
視線を逸らした一瞬のあと、電車が轟音とともに通り過ぎる。
視界を切り裂いた銀色の壁が去ると、そこにはもう誰もいなかった。
「なぁ、今さ――向こうに、日傘の女の子いたよな?」
「は? 誰もいなかったけど」
「カナタ、疲れてんじゃね」
笑いながら友人たちは歩調を崩さない。
踏切を超えたあとも俺だけが振り返り、誰もいない線路をにらむ。
胸の奥に、針を落としたような小さな違和感が漂っていた。
翌日――
夕暮れ。
また、いた。
今度は日傘から顔を少し出している。赤い髪。赤い瞳。つり目ぎみの鋭い形。
年齢は、分からない。
(学生、か?)
また電車。が横切っていく――そして、消える。
そんなことが3、4回ほど続いたある日のこと。
友人たちと駅前で別れた後。
ふいに背中を撫でるような気配がして、振り返る。
――いた!!
今度は、はっきりと。
夕日の縁をすべらせるように、黒と白の傘がこちらへ近づいてくる。
あんなに目立つ格好なのに街を行き交う人々は、だれも気づかないフリをしている。
いや――本当に気づいていないのだ。
「……アタシが見えるんだね、お前」
やはり普通の人間とは思えない、独特な雰囲気を纏った声だった。
俺は喉がひゅっと詰まり、頷くことしかできなかった。
彼女は目線を日傘で隠していたが、それを降ろしてゆっくりと閉じた。
「君は一体……」
「アタシはシオン。そうね、キミ達の言葉でいうところの“死神”かな」
そう言い切ると不敵に、赤い目が笑う。
「死神、だって?」
「信じる信じないはどっちでも。ほら、見えてないだろ? あの人達には」
彼女はさりげなくサラリーマンであろう通行人の肩に手を伸ばし――掌はすり抜けた。男の人はスマホから顔も上げない。
俺は足元がふらついた。視界の端が暗くなる。
「おいおい大丈夫かよ。ぶっとんだ話を聞いて足がすくんだか?」
「いや、そうじゃない。俺は昔から、身体が弱いんだ。気にしないでくれ」
つい口をついて出た。言い訳みたいで、みじめだと思った。
「それより。君、いやシオンが死神だとして、俺がもう死にそうだからお迎えにきたとでも?」
「アハハ、ちがうちがう。体が弱いから、死にそうだからってだけで、人間にアタシ達が見えるわけじゃないよ」
シオンはケラケラと子供のように笑ったかと思うと、クスっと妖艶な微笑に変えて低く告げる。
「お前が今“この瞬間”に、生きてないからだよ」
言葉が胸に落ちる音がした。何を言われたのか分からない。だけど、その冷たい指先が心臓の裏をなぞったみたいに、じわりと痛んだ。
「お前、名前は?」
「眞白、奏多」
「じゃあカナタ。また明日な」
「え?」
シオンはふっと口角を上げ、日傘を再び開いて夕日の光の中に溶けていった。
その日からだ。
毎日、同じ時間、同じ踏切に彼女は現れるようになった。
「よ、カナタ。今日も顔が死んでんな。よしよし」
彼女は満足げにニッコリと笑った。
「……毎日毎日、飽きないな、シオン。何が目的なんだ」
「お前がもっと“こっち”来るのを待ってんだよ」
「こっち?」
「お前達が生きてるのが“この世”。アタシがいるのが“あの世”。二つの世界は平行線で基本、混ざらない。……でも、ときどき、境界がほどける」
「じゃあ、なんでシオンはこの世に?」
「簡単さ。“未練”があるから。アタシの未練が、アタシをこの世につなぎ止めてるんだよ」
「じゃあ、俺につきまとう理由は?」
「お前になら言っちゃうか。“お前の身体をもらうため”だよ」
彼女はまっすぐな目をして俺に言い放った。
身体が冷たくなる。けれど、俺は意外なほど冷静だった。
少しむこうで踏切の音が鳴っている。
俺の影と、シオンの影は、交わらず、並んだままだった。