第一章:影の式神
かつて人と妖が隣り合い、怯えと祈りが暮らしに溶けていた時代。
山深く霧に包まれた夜見ノ村では、代々「式神」が人々を妖怪から守ってきた。
村人はその神の化身に手を合わせ、祈りを捧げ、安寧を得る――はずだった。
だが、その守り神は知らず知らずのうちに、自らが「災い」でもあることを悟る。
敬われる式神としての顔。
忌まわしき妖怪としての顔。
光と影は一つの体に宿り、やがて抗えぬ運命のうねりへと呑まれてゆく。
式神は問う。
「自分が信じていた正義は、本当に人のためだったのか?」
これは、守るべき者を迷いながらも見つめ続けた、ある“影”の物語である
山に抱かれた霧深い地に、夜見ノ村という集落があった。古より妖怪が出没し、人を喰らい、災いをもたらす地として知られながらも、そこに生きる者たちは畏れと共に暮らしていた。
村には四柱の守り神「式神」が祀られていた。東に“アカネ”、南に“セイリュウ”、西に“シラハ”、そして北に“カゲミツ”。
そのうちの一柱、カゲミツは最も人々に慕われていた。
白面をかぶり、漆黒の装束に身を包み、細身の長刀を携えた影のような姿。無口でありながら、その佇まいには不思議な威厳があり、子どもから年寄りまで“カゲミツ様”と呼び親しまれていた。
しかし、当の本人――式神カゲミツには、疑念があった。
(なぜ、私はここにいる?)
式神とは、神に仕える守護の存在。だが彼の記憶には、神の姿も、誓いもなかった。
時折、断片的に蘇る映像――赤い空。炎に包まれる家屋。泣き叫ぶ人々。自分の手にこびりついた血。そして――自分と同じ顔の、もう一人の“カゲミツ”。
(あれは……夢なのか? それとも……)
疑念は日増しに深まっていった。
そんなある晩、村外れの小屋で、男の変死体が見つかった。腹を裂かれ、内臓が抜き取られていた。
「妖怪じゃ……! また奴らが来たんじゃ……!」
村は騒然とし、カゲミツは祠から呼び出された。人々の前に静かに現れた彼に、村の巫女・ミコハは深く頭を下げた。
「どうか、この村を……お守りくださいませ、カゲミツ様」
カゲミツは無言でうなずき、霧の深い森へと足を踏み入れた。
その森の奥、枯れた大木の前で、彼は“それ”を見た。
それは、自分と同じ顔、同じ装束を纏いながらも、顔の面がひび割れ、血で汚れた存在――
「……俺か?」
その“影”は嗤った。
「久しいな、カゲミツ。……いや、オレ」
耳に響く声は、自分のものだった。
「オレは覚えているぞ。おまえがこの村を焼いた夜のこと。人を喰らった、あのときの味……忘れられんよ」
思考が揺れる。
過去の記憶――子どもの悲鳴、炎に包まれた夜、喉元に噛みついた感触……
「違う……違う、俺は……」
「違わない。おまえは妖怪だった。式神になったからといって、それが消えるわけじゃない」
次の瞬間、影のカゲミツは霧の中に溶けた。
その夜、彼は夢を見た。
炎に包まれる村。その中で嗤う“自分”と、祠に並ぶ三つの影。
アカネ、セイリュウ、シラハ――他の式神たちも、そこにいた。
彼らもまた……?
式神と妖怪――それは、本当に別の存在なのか?
疑念は、確信へと近づいていた。
夜明け前、カゲミツは決意する。
(俺は、真実を知る。たとえそれが、人に仇なすものであったとしても)
こうして、夜見ノ村の運命を揺るがす夜が、幕を開けた。
式神と妖怪――
守る者と脅かす者。
相反するそれらが、もし同じ“魂”を持っていたとしたら。
この物語は、「正しさとは何か」を考えながら書き進めたものです。
誰かにとっての救いは、別の誰かにとっての痛みかもしれない。
善と悪は、決して明確な線で分けられるものではなく、
人の祈りや恐れがその輪郭を曖昧にする――
そんな世界に生きる存在たちの、静かで苦しい、けれど確かな「選択」の記録です。
もしもあなたがこの物語のどこかで、
式神に、妖に、あるいは村人に心を重ねてくれたなら。
それは作者として、何よりの喜びです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。