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金の鍵


チコル・コペルは、悩んでいました。ほう、と深いため息をつきました。チコルは今、小さな商店街の片隅にいて、親方と一緒に、冬の風に吹かれながら、話をしていました。


「ずいぶんとさびれたなあ。ここも」と親方は言いました。チコルもさびしそうに言いました。「ええ、昔は、それは賑やかでしたけれどねえ。ムッシュ・ポルが生きてた頃は、それはここは美しくて、欅が何本も並んでいて、みんなが楽しそうに歩いていたなあ…、お姉さんが、いつもここで、ぼくに、いろんなものを、買ってくれたものですよ。今思うと、大変だったろうなあって、思う。どんなにか、苦労して、お金を都合したんだろうなあ。ぼくは、今も、時々、だだをこねて、あんなおもちゃを欲しがるんじゃなかったって、思うことが、あるんですよ。ここには、そんな思い出がいっぱいあるんだ…」


チコル・コペルは今、ある建設会社で働いていました。今、町で、整備計画というのが、あるらしくて、このさびれた商店街をつぶして、新しく大きくて立派なデパートを建てることになったのだそうです。チコル・コペルが働いている会社が、そのデパートの建設を、請け負うことになったのですが、その前には、この商店街を壊さねばならず、チコル・コペルは今日、親方と一緒に、この商店街を視察にきていたのでした。


欅の並木は今はもう、根こそぎ取られてしまって、一本もありませんでした。ムッシュ・ポルのお店も、シャッターを閉めたまま、固まった石のように動かず、ひっそりとしてそこにありました。親方も、少しさびしそうな顔をしていました。親方も、ムッシュ・ポルのことを知っていました。ポル氏は、それは親切な人で、誰にも優しく、歌うようなきれいな声で、とてもうれしいことを言ってくれたものですから。その優しい声で、優しいことを言ってもらえると、それだけで、生きている辛いことが減って、なんだか自分が強くなった気がして、また、いろんなことをやってみたいと思う気持ちが、芽生えてきたものでした。


ポル氏が亡くなってからというもの、商店街はまるで、死んだように静かになりました。店はたくさんあったし、人もたくさんいたのに、もうここには誰もいないような気がして、だんだんと、人もよりつかなくなって、次々と、店が閉まって行き、商店街はどんどんさびしくなっていったのです。ムッシュ・ポルがいただけで、本当にここは、幸せな、いいところだったのです。それにみんなが気付いたのは、ポル氏が、いってしまった、後でした。


チコル・コペルは、親方と一緒に、ポル書店の前に立ちました。そして二人とも、書店の看板を見上げながら、同時にさみしげなため息をつきました。時代の流れとは言え、仕方のないことなのかなあ。できたら、この店だけは、ムッシュ・ポルの思い出だけは、残しておきたい。でもそれは、ぼくらには、できないことなんだ。町の人が、もう決めてしまったことだから…。


親方は、何を思ったのか、書店のシャッターの下に手を差し込み、それをこじ開け始めました。錆びついたシャッターは、ぎりぎりと音を立てて、なかなか、上には上がりませんでした。チコルが、横から、それを手伝いました。シャッターは、二人を中に入れるのを拒むように、がりがりとうるさい音を立てて、抵抗しました。それは、二人に、中に入るな、と言っているように聞こえました。でも、二人は、無理やりシャッターを開けて、中に入っていきました。暗い書店の中に、本のぎっしり詰まった本棚が並んでいました。古い本の湿ったにおいが、水のようにたまっていました。どこからか、ころんと、空気の響く音が、聞こえました。


「ムッシュ・ポルは、いつもあそこにいたね」親方が、店の奥の小さなレジの方を指差して言いました。「ええ、いましたね。いつも、ほんの少し、笑ってたなあ。そう言えば、小さい時、ペール・ノエルに、図鑑をもらったことがありましてね。古い図鑑で、所々、傷や痛みがあったんですけど、きれいな鳥や動物の絵がいっぱいのっていて、それはうれしかった。後で知ったんですけど、あれは、ポルさんがくれたものだったんですよ。長いこと読んでいたなあ、あの本。どこにいったろう。あの本、どこに、なくしてしまったろう。ぼくたちは、いつもそうなんだ。大切なことに、気付くのは、いつも、それがなくなってしまった、後なんだ…」


親方は、切なそうな目をして言いました。「わしはなあ。女房が、若い時に死んでねえ。子供を残して、死んじまって、辛くってさあ。死のうかと思ったときがあるんだよ。子供も、つれてさ。ばかだったよ。子供を、車に乗せてね。どこにいけばいいのか、わからないのに、町をぐるぐる走り回っていた。そうしたらねえ、どこからか、不思議な音楽が、聞こえてきてね。バイオリンのような音に聞こえた。それを聞いてたら、泣けてきてね。泣いて、泣いて、泣いてね。子供が、わしに言うんだ。おとうさん、おうちに帰ろうって。それで、死ぬのはやめて、家に帰ったんだけど、あれは、何だったのかなあ。今も思い出すよ。きれいな音だった。ムッシュ・ポルの声に、少し、似ていた…」

チコルは、黙って、聞いていました。チコルは、覚えていました。お姉さんが教えてくれたことを。ムッシュ・ポルが本当は誰だったのかを。ポル氏が、そのバイオリンを弾いていたことを。そしてそれは、誰にも言ってはいけないことだということを。


ポル氏が死んでしまった今、一体だれが、バイオリンを弾いているのだろう? チコルは考えました。誰も知らない王様が、バイオリンを弾かないと、とても困ったことになるのです。それが何なのかはわからないけれど、本当に困ったことになるのです。でも、ポル氏はもうこの世にはいない。きっと、商店街が壊れてしまうのは、そのせいなんだ。ここは、本当は、人間にとって、とても大切なところなんだ。でも、町の人は、そんなことに気づきもせず、壊してしまう。バイオリンの音が、聞こえないからだ。あの音を、聞いたことがある人なら、ここを壊すことなんて、考えられないだろうに。


チコル・コペルと、親方は、しばし、なつかしそうに、古書店の中を歩き回りました。ポル氏がいつも座っていた椅子が、主をなくしたさみしさのまま凍りついて、そこで、死んでいました。もう誰も、その上には座れないような気がしました。座ってしまえば、椅子は、ガラスのように、粉々に、壊れていくような気がしました。ふと、チコルは、うっという、うめき声を聞きました。気づくと、隣で、親方が、喉を詰まらせて、泣いていました。ここを、壊さなければならないんだ。自分が、壊さなければならないんだ。そう思うだけで、親方の胸は震えて、涙を流さずにいられなかったのです。


チコルも、深いため息をつきました。しょうがないことなんだ。もう決まってしまったことなんだから。ああ、でも、もう一度でいいから、ムッシュ・ポルに会いたい。あの声を、聞きたい。やさしいことばで、語りかけて欲しい。チコルは、心の中で、小さく歌を歌いました。


国には不思議な王様、住んでいる。

誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。

こりすが踊って、歌ってる。

誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。

しろかねのお月さん、聴いている。

黙ってそれを、聴いている。

王様、ひとりで笛を吹いている。

カチカチ鳴るは、金時計。

こばとがきょとんと顔を出し、笛の調べに耳澄ます。

王様、笛を吹いている。

ひとりで笛を、吹いている。


今は、誰が笛を吹いているんだろう? チコルは考えました。誰かが、笛を吹いていてくれるんだろうか。誰も知らない王様は、いるんだろうか? まだ、この国に、いるんだろうか? いるとしたら、それは誰なんだろう? ああ、王様の奏でる音楽を聞きたい。きっと、やさしい、音楽なんだろう。それはそれは、胸が明るくなって来るような、きれいな、音なんだろう。チコルは、足を動かし、書店から少し出て、外の空を見ました。風の音が聞こえました。昔、並んでいた、欅の木の、幻を見たような気がしました。そうして、チコルが、もう一度、古書店の中に、入ろうとしたときでした。彼は、どこからか、不思議な音が、風に乗って流れてくるのを、聞きました。


それは、ぽろぽろという、優しい、ピアノの音楽でした。チコルははっとしました。どこから、聞こえてくるんだろう。また外に出て、空を見ました。でも、音は、風に紛れてどこかに消えてしまい、もう聞こえませんでした。きっと、どこかで誰かがピアノの練習をしていたんだろう。それが風に乗って、たまたま、ぼくの耳に届いただけなんだろう。チコルはそう思いました。でも、何となく、胸にしみるような懐かしさを、少し感じたような気がしました。


そしてチコルはまた、書店の中を振り向きました。ふと、書棚の中の青く光るものに、目が行きました。それは、小さな薄い詩集でした。あ、とチコルは思い出しました。そう言えば、ポルさんは、この小さな詩集を、ひどく気に入っていたっけ。何度も、声に出して読んでいたっけ。チコルは、何かに引き込まれるように、書棚の隅にあった一冊の青い詩集を手にとりました。そして何気なく、ぱらぱらとめくって、その中に書いてある詩を、ひとつ、読みました。


壊しては だめだよ

それは 金の鍵

燃やしては だめだよ

それは 真珠の薔薇

ああ 壊してしまったんだね

ああ 燃やしてしまったんだね

でも いいんだよ

また 鍵は作ってあげるから

もう一度 薔薇は咲いてくれるから


チコルは、びっくりして、目を見開きました。まるで自分に言われているような気がしたからです。チコルは、青い詩集の表紙に目をやり、そのタイトルと詩人の名前を読みました。


「『空の独り言』 オリヴィエ・ダンジェリク」


チコルは、何かが胸にあふれてきて、止まらなくなりました。思わず、嗚咽が漏れて、涙がぽろぽろと流れだしました。ああ、大切なものに、気付くのに、どうして人間は、こんなに、こんなに、時間がかかってしまうんだろう。なんで、大切なものに、気付くまで、こんなに、こんなに、遠回りをしてしまうんだろう。気付いた時には、すべてがおそいんだ。ここは、壊してはだめなんだ。壊したら、大切なものが、なくなってしまう。それがなくなってしまったら、人間は、とても困るんだ。困るんだよ。困るんだよ。壊さないでおくれ。誰か、誰か、助けて。ここを、この小さな店を、壊さないでおくれ。


誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている…


親方が、ひっそりと、店の奥で歌を歌っていました。チコルは店先に立ったまま、涙にぬれた顔を空にあげました。するとまた、かすかに、どこからか、ピアノの音が流れてきました。チコルは、目を見開きました。今度こそ、逃がしてはいけない、そんな気がしました。チコルは耳を澄まして、そのピアノの音を捕まえました。ああ、誰かが、誰かが、ピアノを、弾いている。なんて、やさしい音だ。ああ、ポルさんのバイオリンの音に、よく似ている。ああ、ポルさんのバイオリンは、それはやさしい、春の風のようだった。でもこのピアノは、まるで、そうだなあ、どこか遠い、寒い冬の森の奥で、誰かが灯している温かな焚火の音のようだ。焚火のそばには、優しい、女神さまがいる。そこを訪ねると、優しい声で、言ってくれるんだ。おいで。火のそばによって、温まっておいき。


誰も、誰も、誰も知らない王様が…


チコルは震える声で歌いました。ポルさんの店は、いつか、壊れてしまう。でも、この国にはまだ、いるんだ。誰も知らない王様が、どこかにいるんだ。そして、ピアノを、ひいている。誰にも知られずに、ないしょで、ずっと、ピアノを、弾き続けてくれている。きっと、きっと、そうなんだ。


ああ 壊してしまったね

でも いいんだよ

また 作ってあげるから


チコルは、胸の奥で、詩のことばをささやきました。一冊の青い詩集を抱きしめて、チコルは親方と一緒に、店を出て、シャッターを閉め、会社の方に、戻ってゆきました。


誰も知らない王様が、ひとりで笛を吹いている。

今もひとりで、吹いている。

誰も知らない、王様が。


それはきっと、遠い遠いはるかな昔から、続いている、不思議な不思議な、物語。小さな国の、時計を回すために、小さなひとつの秘密の鍵が、誰も知らないところで、美しい声と言葉と心を持つ王様たちの手から手へ、ひっそりと流れていく、不思議な物語。どこにいるだろう。王様。いつか、会えるかな。会えるなら、会いたいな。どこにいるだろう。


その頃、ソランジュ・カロク夫人は、やさしいピアノを弾く手をとめると、ああ、今日もピアノを壊さずに、ちゃんと弾くことができたわと、ほっと、安心した息をついていました。カロク夫人は、静かにピアノの蓋を閉めると、そっと地下室から出て行き、金の鍵で、地下室の扉を、しっかり封じました。秘密が、誰にも、もれないように。


カロク夫人は、手の中に光る、金の鍵を見つめました。ポルさんのようにやさしく弾くには、まだまだ勉強が必要だわ、わたしには。ああ、それにしても、王様は、どこにいるかしら。次に、この鍵を渡せる、王様は。わたしも、探さなくては、美しい声と言葉と心の、やさしい王様を。ポルさんのように、探さなくては。国の時計が止まってしまわないように、地下室で楽器を弾いてくれる、やさしい王様を。


ああ、どこにいるの? 王様は。


カロク夫人は、ため息のように言いながら、窓辺に手をついて、外の空を見上げました。


(おわり)





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