癒えぬ痛み
母が入院して一か月後。別れは突然訪れた。
琴葉はミニバンを必死に走らせた。けど、
「・・・・間に合わなかったね」
琴葉はため息と共に言うと、目の前の
ミニバンから目を逸らし、鍵穴に
挿しかけていたキーをポケットに
しまいながら踵を返した。
一時でも『痛み』を和らげたかった。
一年経っても拭えない『痛み』を。
だから柔術着を着こんだ中年男、設楽辰夫と
(柔道でいう)乱捕りに打ち込んだ。
辰夫は琴葉が幼い頃から親しんでる近所に
住む元警察官で、現在は『設楽柔術道場』を
主宰し、近所の子供や学生、社会人らに
柔術を教えていた。
この辰夫ーおっちゃんーの柔術、
かなりの我流なのだが
かなりどころじゃないくらい実践的なのだ。
十七の頃から辰夫に指導を仰いでいた
琴葉初の実戦は高校卒業間近の時、
夜道を歩いていた時に突然男が眼前に
現れた時だった。
正面から襲い掛かってきた男の脛に
素早く踵前蹴りを決めた。
痛みに狼狽え、前屈みになった男の
両膝目掛け低空タックルを決め、
後頭部と背中をアスファルトに叩き付けた。
痛みに悶絶する男にマウントを取ると
そのまま鼻っ面にパンチ。
鼻血でパニックに陥り、慌てて身体を捩る
男の背後を取るとチョークスリーパー。
男が白目を剥いたところでたまたま
通りかかった警官に止められた。
命拾いしたな。琴葉は男に
そう吐き捨てた。
あれ以来、得意技になった低空タックルを
辰夫に鮮やかに決め、そのまま倒し込む。
素早くマウントを取り、そこから
すかさず腕を取ろうとするが、
辰夫は難なくスイープし、逆に琴葉の上を取る。
琴葉も負けじと両の足を辰夫の首と片腕に
巻きつけ三角締めを狙う。
それも簡単に防ぐ辰夫。
デジタルのスポーツタイマーのブザーが鳴った。
二人は膠着状態を解き、離れると立ち上がり
礼をした。
琴葉が道場の隅であぐらをかき、タオルで
汗を拭っているとスポーツドリンクを
持った辰夫がやってきた。
「ほれ」
「サンキュ」
琴葉は辰夫が放ったペットボトルを受け取ると
キャップを外し一気に呷った。
辰夫も隣であぐらをかき、ボトルを口に運ぶ。
「もうちょっと時間あればおっちゃんから
1本取れたなあ」
挑発的な琴葉の笑みに、
「バカ野郎。二日酔いでも、まだまだ
お前から取られるわけねえだろ」
辰夫は鼻で笑って返した。
「・・・・急にゴメン」
「ん?まだ子供らが来る前だから構わねえが
もう店始まんだろ?」
「直人に任せてっから少し遅れたって大丈夫。
身体動かしたくなっちゃってさ」
「・・・・気ィ紛れたか?」
「・・・・うん」
琴葉はそう言うと立ち上がり、
「じゃ、行くわ」
出口へ向け歩き出す。
が、すぐに足を止め、
「ヤマザキのシングルモルト、12年モノ
入ったから」
「マジか!?」
辰夫は目を輝かせた。
「やっと手に入ったんだから。じゃ」
「おう!稽古終わったらダッシュで行くからよ」
辰夫は満面の笑みで見送る。
やがて、琴葉の姿が見えなくなると
「・・・・」
小さく息を吐いた。
琴葉と同様の『痛み』を胸に感じながら。