Page:07 オタサーの姫に、わたしは…なる!のよっ!!
異世界からのオタク『クロガネ・レンカ』は、なぜかカフェで働いていた。しかし、その小さくも些細で、ありふれた彼女の接客により、知らないところで運命の歯車が勝手に回り始める!そんなことは露知らず、喫茶店のせがれ系主人公『ルシェ―ド・二クロフ』と共に仕事終わりを謳歌していた彼女たちの前に、新しい面倒事を背負って、ある少女がやってくる。だが、その少女はちょっと地雷系っぽくて━━━━!?
━━━━私の一日は、一杯のコーヒーから始まる。
「いってきまーす!」
シンクに接し、弾かれた水音。
食器同士が触れ合い、重なり合う音。
快活な一声は、それらを押しのけ、屋内に響き渡った。
「ん、いってらっしゃい」
「いってらしゃい、気をつけるのよー。…さ、あなたもそろそろ用意する時間じゃない?また出勤前に寄ってから行くんでしょ?」
泡を含んだスポンジ片手に、皿を磨く妻。
彼女は、私に視線送ると、話を振った。
「ん、ああ。そうだな、準備するよ」
時計を確認し、テーブルに置いた眼鏡を手に取る。
ぼやけた視界は、レンズ越しに鮮明さを帯びていく。
一通り、目を通し。読み終えた新聞紙を大雑把に畳み、私はソファから腰を上げた。
歳は、とりたくないものだ。
新聞を読む時でさえ、最近では裸眼でないと、よく見えなくなってきていた。
老眼鏡…。
頭に、とある言葉が過ぎるが、脳は頑なにそれを拒んだ。
若くはない。そう分かってはいるが、その一歩を踏み出したくはなかった。
意固地になっている。それは分かってはいるのだが…。
玄関の方からは、扉を開けて遠ざかっていく、慌ただしくも元気な娘の足音が聞こえていた。
この忙しない音を聞く限り。本日も娘は、すこぶる機嫌が良いのだろう。
どうやら不安なく学校生活を送れているようで、父としては実に喜ばしい。
そんな娘を送り出し終えると、次は自ずと私の番がやって来る。
「今晩は何が食べたい?あの子はロールシュリンプのグラタンが食べたいって言ってるから、メインのおかずになりそうなやつで」
「メインか……、オムライスとかは?」
「たしかにメインだけど、肉料理とかじゃないのね…。まあ、いいわ。あなたたちが好きなものは似てるし、私も例外じゃないからね」
妻は困ったような。それでいて、楽し気な顔を見せる。
「ありがとう。世話をかけるな…」
彼女には、いつも支えてもらっていた。
数十年も付き添い、どんな時も活力を与えてくれる。
私には、実にもったいないほど聡明で素敵な女性だった。
「いいわよ。それよりも用意はできた?できたなら、気をつけていってらっしゃい」
「ん、それじゃあ、行ってくる」
やわらかい表情の妻に見送られ、私は玄関の扉を開く。
会社員にとっては憂鬱な月曜日ではあるが。この妻の笑顔と、これから向かう先のことを考えれば、モヤモヤとした気持ちは簡単に吹き飛んでしまう。
足取りも、この通り。自然と弾んでいた。
目指す場所が会社というのは変わらないが。それは出社場所であって、現在の目的地ではない。
いま私が足を運んでいるのは、通勤途中に見つけた、とあるカフェ。
最近の私は専ら、そこで朝食を摂ってから会社へと出社することが、連日のルーティンとなっている。
朝に、この時間を設けたことで、会社では仕事の捗りようが向上した。
自身の気持ちにも、少し余裕が生まれたようにも感じている。
ゆえに、こうして足繁く、そこへ通っていた。
━━━━この、“Coffee shop カフェ ミスト”に…。
「ん、いつもより3分ほど早く着いたな」
逸る気持ちを抑えきれず、ついつい少し早く到着してしまったようだ。
しかし、11時開店の土日とは違い、平日は朝8時から開いているため問題はないだろう。
この、働く者達のニーズに応えたかのような時間帯からの営業は、我々のような朝に時間の少ないサラリーマンにとって、なんとも喜ばしい限りである。
「……さて、8時だ」
腕時計で、時刻が8時になったことを確認する。
いつもなら、8時を少し過ぎた辺りで入店しているために気がつかなかったが、表札が既にオープンに裏返されているところから、普段から規定時刻よりも早めに店を開けているのだろう。
時間帯が違えば、いつも目にしている世界も、視点が変わり、異なる世界に見えてくる。
新しい発見に、なぜか少しだけ得したような気分を味わいながらも、私はいつものカフェの扉を開いた……のだが。
「おかえりなさいませ、ご主人さま~!お席にご案内しますねっ!どうぞこちらに……」
ガチャン……。
━━━━どうやら店を間違えたらしい。
毎日通い、道と建物の外見は覚えていたはずだったが、ここではなかったようだ。
昨晩は、姉弟が欲しい…と、日ごろからボヤいていた娘の願いを叶えてあげたくて、妻と二人目を授かるための活動を、年甲斐もなく夜遅くまで頑張っていた。
きっとまだ、その疲れが抜けきっていないせいで、店を間違えてしまったのだろう。
私も、正直もう若くはないが、ここまで翌日に疲労を引きずるなんて予想もしていなかった。
ここにきて、自身の老いを悲しいほどに痛感する。
しかし、ぼーっと歩いて来たにしても、どういう間違え方をしたらあんなお店に入って……。
「あ……。いや……。あっ…てるな。ここで…」
店の外装に、周辺の景観。
それに加え、店の看板に書かれた店名が、ここが目的地のカフェであると証明していた。
どうやら、ここは。昨日まで、私の通っていた…。
“Coffee shop カフェ ミスト”で間違いないようだ。
「見間違い……ってことは、ないんだよな」
睡魔に抗い続けている脳は完全な覚醒状態とは言い難いが、かと言って白昼夢を見るような、不安定な精神状態ではなかった。
では、今しがた店内にいた、あのメイド服の女性は何者だったのだろう…。
真相を確かめるためにも、私はもう一度。扉のドアノブに手をかけ、ノブを回した。
カランっという、軽快な音が鳴る。
ドアをくぐり、店内を見渡すと、見知った光景が広がっていた。
私は幻覚を見ていたんだろう。
あれは、心が見せた幻だったのだ。
二人目の子を授かりたいという、思いが生んだ幻影だったのだ。
どうやら脳は、まだまだ覚醒に至っていないらしい。
早いところカフェインを摂り入れて、目覚めさせねば……。
「あっ!おかえりなさいませ、ご主人さま~!おかえりになったと思ったら、お帰りになったのでビックリしたんですよ~!さあさあ、それではお席にご案内しますねっ!」
「━━━━━━━━。」
やっぱりいるじゃないか。
どこからどう見ても、明らかなメイド服で出迎えた女性。
こんな店員さんは、この店では見たことがない。
ここの女性店員さんの制服はパールカーキ色のキャンバスエプロンで統一されている。
マスターや男性従業員の方も制服は一律で、ダークブラウン色のキャンバスエプロンだったはず。
だが、この女性だけは……。なぜかメイド服だった。
まさか、私にしか見えていないんだろうか。
私だけにしか見えていない、見えてはいけない女性なんだろうか…。
「こちらご奉仕リストです!わたしにしてもらいたいことが決まったら、教えてくださいね!あっ、自己紹介がまだでした!わたしは、“れ ん か”っていいます!気軽に、“姫”って呼んでくださいね!」
「━━━━━━━━。」
私は、流されるまま指定の席へと座らされた。
ご奉仕リストなる、見た感じは注文表のようなものを手渡されたが……。
物を持って接客をしているのだから、しっかり彼女は存在している女性なんだろう。
見えていないのであれば、物が宙に浮いていたりするんだが…。
しかし……。
ここは、本当に私の知っているカフェなのだろうか。
「それでは、ご注文まってます♡」
「━━━━━━━━。」
名乗った名前と、他者から呼ばれたい名前が1文字たりとも一致していないメイドの店員さん。
彼女は言いたいことを言い切ったようで、ぺこりと頭を軽く下げて私の席から離れていく。
混乱はしているが、店員さんが独特なだけで、店自体が変わったというわけではないようだ。
ならば、私としては何ら問題ではなかった。
(ん、このメニュー……。いつものメニュー表とは違うのか…?)
メニュー表の装丁は今まで通りのデザインだったが、どうも彼女の妙な言い方に私は引っかかっていた。
(……いや、気にしすぎだったか。メニュー内容もいつもと同じだな)
ざっと記載内容を読んではみたが、メニュー内容には特におかしな点は見当たらなかった。
警戒をしていた分、取り越し苦労だったことが分かると、とたんに私の心は凪いだ。
寄せていた波が、すっかり疑念心をさらっていったのか、心も幾分か軽くなっていた。
いつも通りなら、悩む必要もあるまい。
「すみません。注文いいですか」
カウンター方面へ向けて、声をかける。
見慣れない格好に、最初こそ面食らってしまったが、店のメニューに変化がない以上、気にせず注文して問題ないだろう。
せっかく来ているんだ。純粋に食事を楽しもうじゃないか。
私の呼びかけには、直ぐに返答があった。
「はーい!」
オーダー板を手に、元気よく返事をして駆け寄ってくるのは、先ほどのメイド服の店員だった。
既に別のお客さんも何名か席に着いてはいたが、やはり接客をしている他の店員さんは、皆ふつうのエプロン姿だ。
なぜ、私のところに再びやって来た彼女だけが、他の店員と格好が違うのか…。
それを考え始めると、心がさざ波を立てるので、できれば深追いは止めておきたい。
「はい!お待たせしました!お決まりになりましたか?」
「ええ。ミストレスの無糖とブレークファストモーニングを一つお願いします」
「ブレークファストのモーニングで、ドリンクはミストレス、お砂糖は無し…ですね。……その他のご奉仕は、ご希望されますか?」
「奉仕……?ああ、いや、結構です」
またも意味不明な言い方に惑わされかけたが、おそらく注文のことだろう。
きっと彼女は新人で、業務も覚えたてなのだ。
特殊な言い回しに、特に言及はせず、ここは温かく見守ってあげようじゃないか。
「━━━━ん?なにか?」
じっと、見つめられていた。
注文内容で、おかしな部分でもあったのかと、自身の発言を思い返す。
だが、毎朝同じように注文しているメニュー。
噛んだりしたわけでもなければ、誤って告げた覚えなどないが…。
私が思案する一方、彼女は口をへの字にし、とても残念そうに聞いてきた。
「本当によろしいのですか?チェキと握手も希望されませんか?」
「ち、ちぇ……きぃ??な、何ですか…それ…?」
「あら、チェキをご存じありませんか?わたしとご主人さまが一緒に写真を撮って、その場で撮った写真をお渡しするご奉仕内容ですよ~!追加料金でサインも描いちゃいます!」
━━━━━━この人は何を言っているんだろうか?
カフェで店員さんと一緒に写真を?
なんのことなのか意図が読めないが、これは何か深く関わってはいけないサービスな気がした。
「……い、いや。遠慮しておきます」
「ふふっ、ご主人さまったら、シャイ…なんですか?また、シたくなったら声かけてくださいね?」
小悪魔のような笑いを浮かべたメイドの店員は、注文を取り終わると席から離れて行った。
彼女の歳は、十代後半…くらいだろうか。
そんな彼女に不覚にもドキッとしてしまった私は、大人としてなんだか負けた気がしていた。
(朝からカフェでこんな気持ちになるだなんて…)
年端もいかない少女に心揺さぶられ、悔しい感情が私を支配する中、別の卓からは黄色い声も上がっていた。
「ひめさまー!!当方とチェキを!!今度はサインもお願いするでありますよ!!」
「こ、こちらも!!あ、握手…。し、し、してもらってもいいですか!?」
「はーい!そっちのご主人さまたちは、ちょっと待っててねー?じゃあ、ご主人さまぁ、撮るよー?はい、オーク!」
「あ、ありがとうございます…!今度は…その…親指立てないで……ハート作ってもらえると……その…」
「今度は…って、また帰ってきてくれるんですか?うれしいー!ご主人さま、わたし……ずっと、まってますね?」
「ま、待っててーーー!!僕が帰って来るの待っててーー!!ひめちゃーーん!!」
━━━おそろしく大盛況だ…。
いつもと同じ空間なのに、なんだか別の空間に連れてこられたかのような…。
不思議な体験をずっとしているが、それでも私には重要な問題ではない。
重要なのは、至福の一杯を味わいながら体に燃料を注いでいく、あの感覚なのだ。
たとえ、メイドさんのご奉仕とやらが、行き過ぎたものであったとしても、私には関係がない。
あのコーヒーを摂取し、堪能できるのなら……。
「お待たせしました」
(━━━きた。ついにきたぞ、この瞬間が…)
エプロン姿の女性店員は、台車で運んできた注文の品を順に卓上へと並べていく。
ふっくらとしたロールパンに、とっろとろのマーガリン。
カリカリに焼きあがったベーコンと、ふわふわで半熟な黄身が艶めくスクランブルエッグ。
ガラス椀に盛られた、みずみずしくもドレッシング輝くコーンサラダ。
そして、近隣では有名なコーヒー畑で採れた。最高品質の等級豆を使用したオリジナルのブレンドコーヒー“ミストレス”。
以上の料理が、私が最近ハマりにハマっている。朝の食卓を彩るキャスト達だった。
漂う香りに、私の細胞が喜びを上げ。盛られた食事に、喉が鳴る。
ざっくりと言ってしまえば、至高の卓上だった。
「以上でご注文の品はお揃いでしょうか?」
「はい、ありがとうございます」
「では、こちらに伝票を置かせて頂きます。それでは良いひと時を…。失礼いたします」
店員さんは馴染みのある定型文を残し、台車を押して別の卓へと料理を運びに向かう。
彼女の接客は、私のよく知っている、ここの店員の対応そのものだった。
となると、やっぱりおかしいのは、あの店員さんだけということになるのか。
だがまあ、そんなことは忘れて、今はここに集いし者達に向き合うとしよう。
冷めてしまっては、それこそせっかくの朝食が台無しだ。
それでは、さっそく……。
「いただきま……」
「ご主人さま、お待ちください」
「━━━!!??………びっ…くりしたぁ…」
突然、後ろから話しかけられ、身体も心臓も飛び跳ねた。
弾みで膝をテーブル裏にぶつけ、ガタンという音も立ててしまい、周囲から一瞥される。
それはもう、すごく恥ずかしかった…。
「あ、あの。なにかありましたか?」
食事を始めようと思っていた直前でのお預けで、私は突然話しかけられた事への疑問よりも、食事を邪魔されたことへの怒りがこの時は勝っていた。
そして、またもや話しかけてきたのは、あのメイド服の店員だ。
この嫌な予感が、予感だけで終わればいいのだが…。
「申し訳ありません。一つだけ、仕上げの魔法をかけるのを忘れておりました」
「ま、魔法…ですか!?」
━━━━とんでもない言葉が出てきた。
魔法は、一部の特殊な者に宿ると聞く、特別な神の加護。
その力は特例を除いて、女性のみに宿ることが確認されているらしい。
いずれも使用者は揃って女性…ということから、能力保持者は通称、魔女…と呼ばれており、あまりにも万能で異端的な能力ゆえに、一部地域では蔑まれたり、時には敬われたりと、様々な扱いを受けてきている……という話を聞いたことはあったが。
まさかその魔女が、メイドとしてカフェで働いているなんて…。
「ど、どんな。魔法なんですか…?」
いい大人の私でも、流石にこの発言には興奮を抑えきれなかった。
さきほどまで抱えていた、食事を妨害されたことへの怒りも消え去るほどに、心を動かされてしまっていたのだ。
魔法なんてめったに見れるものではない。
それも本物の魔女が目の前で見せてくれるなんて、一生に一度あるかないかの機会だ。
魔法に倣って、魔道具なんてものも作られたが、所詮は本物には遠く及ばない模造品止まりの代物である。
その珍しくも神秘的な、神に次ぐ異能を見られるというのなら。例のチェキ…とやらも追加の料金を支払ってでも、注文する価値が出てくる。
私に衝撃をもたらした彼女は、にやりと口角を上げて語る。
「どんな魔法かと…?ふふっ、それはですね……。料理のおいしさを上昇させる魔法です!」
「な、なん…だって…!?」
いつも食べている、この朝食は絶品だった。
私がこのカフェをこよなく愛しているのは、なにもコーヒーだけを味わうためではない。
一番人気のコーヒーに負けず劣らない……。
いいや、それ以上に光るものを秘めている軽食の数々。
一見、シンプルな食材で構成された品々ではあるが、だからこそ美味しさの良しあしが料理の表情に明確に現れる。
調味料でごまかしの効かない料理は、料理人の技量や経験、腕が試される調理技術の集約図。
サラダを例にあげるなら、野菜が持つ多少のえぐみをどこまで抑えられるのか、そしてコーンはどのくらい茹で、それだけの時間で提供を行えるように食材管理を徹底しているのか。
野菜を引き立てるドレッシングは、なに由来の油分で配合されて、塩分比率はどのようになっているのか…。
このように、サラダ一つとっても、様々なポイントで味は大幅に変化する。
それら一つ一つを完全掌握し、全てをベストともいえるコンディションのステージへと。
この店の料理は、総じて押し上げることができていた。
次々と、偉そうな評論家のような事ばかり言ってはいるが、これは事実だ。
私の持つ神の加護は、«味蕾異常»。
一般の人間が感じ取ることができない領域の味を、認識してしまう能力。
私を診断した医師によると、人間の舌に存在する味覚を感じ取る器官。味蕾が正常な人間よりも多く存在していることで、舌が過敏になり形成されている能力だという。
通常、味蕾は大人になるにつれて数を減少させていくようで、子どもの頃に食べられなかったものが大人になると食べられる…という現象は、味蕾の減少により味覚の感じ取れる範囲が狭まったことが理由と考えられているそうだが、私にはその経験がないので実際のところよく分からない。
幼少期はそれなりにこの能力で苦労はしたが、大人になった今はこの能力を活かした仕事に就けている。
災い転じて…といったところだが、現在直面している出来事も、同じく転じて福をなそうとしていた。
「お嬢さん。この朝食がさらに美味く化ける……。そう言っているんだね?その、魔法で…」
「はい!もう、とーっても美味しくなりますよー!以前には胸を掻きむしりながら『俺の心がぁ!!燃える……壊れるーーッ!!!』って叫びながら涙するご主人さまもいらっしゃいましたー」
━━━━壊れるほどに美味いのか……それは…!?
よく中毒性のある美味い料理……なんてのを、聞いたことはあるが…。
現に、この朝食セットもその分類に私の中では入ってはいる。
しかし、脳を破壊される美味さなら分からなくはないが、心を破壊される美味さとはいったいどれほどの破壊力なのだろうか。
心は心臓ではなく脳に宿るという説も聞くが、表現としては一緒なのだろうか。
━━━━知りたい。その味を、私の舌で、味わいたい…。
一般人でさえ、錯乱する美味さなのだ。
常人を上回るほどの味蕾数を持つ私の舌が、それを受け止めた時、いったいどうなるのだ…。
━━━━試したい。いいや、試さずにはいられない!!
「お嬢さん。それは、いくら…。するんだい?」
心は完全に傾いていた。
そんな高等技術……。いや、魔法なのだが。
仮に体験するとしても、決して安くはない金額のはずだ。
ご奉仕だとか言っていた他のサービス料金は分からないが。この機会、逃せば一生の後悔になるやもしれない。
その神秘。食べずして、死ぬなんて私には、絶対にできない!
たとえ、明日から給料日まで、昼飯が抜きになろうとも……!!
「無料のサービスです♡」
「━━━━む、無料…?つまりは……タダ、なのかい?」
「はい!」
━━━━こいつはたまげた。
魔法はあくまでも料理を引き立たせるだけのアクセントに過ぎないと?
それは……ああいや、そうだな。主役は料理であって、魔法ではない……。
私としたことが、何か大事なことを見落としてしまっていたようだ。
魔法は確かに見たい、この目に焼き付けておきたい…が。
ここへ来た本来の目的は、素晴らしい朝食とコーヒーで、最高の一日を幕開けることだったはず。
しかし、いつしか楽しむという行為が暴走し、別の場所へ重きを置き違えていた。
━━━━なんて愚かなんだ、私は。
彼女が気づかせてくれねば、最高の朝が陳腐なものにすらなっていたかもしれない。
食材の本質を理解し、寄り添い、味わいながら、食材と舌の上で踊る。
この簡単なテクスチャも見失いかけていた私は、評論家気取りの他愛もない、舌の肥えた中年でしかなかったのだ。
教えてくれたのは、彼女と出会えたのは、僥倖だったのかもしれない。
「ありがとう、目が覚めたよ。君のおかげで大事なことに気づけた。では、その魔法。ぜひ、お願いするよ」
「いったい何に目覚めたのかは分からないですけど、脳が活動開始し始めたってことですかね?まあ、なんでもいいですけど、始めますね!」
魔法を行使すると…。魔法をかけると、彼女は宣言した。
目の前で魔法が使われるという高揚感と、約束された朝食のグレードアップ。
この胸の高鳴りは、幼少期に誕生日でもないのに、祖母からおもちゃを買ってもらった…。あの特別な日に味わった、忘れがたい感情と瓜二つであった。
私は鼓動を早めつつも、店員さんの動きを眺める。
「~~~~~♪」
鼻歌を歌う彼女は、腰のあたりから何かを取り出した。
あれは……。ケチャップ?だろうか。
特徴的な白いキャップをパチッと外すと、彼女はおもむろに私のスクランブルエッグに向けて、ケチャップをかけ始めた。
(ケチャップ一つで味が激変するとは思えないが…。まあ、様子を見てみよう…)
大人しく彼女の行為を、見守る姿勢に舵を切ったはいいが。すぐに、やや不安な気持ちに陥る。
彼女はケチャップでハートを描き、ハートの中央に空いたスペース内に、ぐるぐるとケチャップを大量に詰め始めたのだ。
その量は、おおよそスクランブルエッグに対しての必要量を軽く超えており、美味しく食べられる許容量をはるかに凌駕していた。
「ま、まってくれ。それ以上は……!」
それ以上は、塩分の取り過ぎで高血圧になりかねない。
致死量というほどではないしろ、美味しいと感じる限度ラインは、とうに過ぎている。
それに、そのままでも十分に味が付いていたスクランブルエッグに、追いケチャップなんてことをしたら、味蕾が敏感な私は気絶してしまうかもしれない。
そう思っていたら、自然と彼女に制止を促していた。……が、しかし。
「うん?なんです?それ以上かけたらどうなるんです?大丈夫ですよ~。これからが魔法なので」
彼女いわく、まだ魔法は、かかっていないらしい。
まあ、それもそうか。今はケチャップしか、かかっていないわけで…。
「準備はいいですかー!」
「━━━━━━━━!?」
油断をしていた私は、気づけばケチャップのハートが真っ赤に塗りつぶされていることに驚く。
もちろん彼女の声量にも驚いてはいたが…。
「さあ、いきますよー!」
ケチャップをしまい、胸の前に手を構える。
その手は、ハートのような形へ模されていた。
両手で、なぜかハートを作った彼女は、ユラユラと不気味に揺れ始める。
━━━━はっ、はじまる!!いよいよ始まるぞ。美味しくなる魔法とやらが!!
雰囲気が出てきた為か、私は若干の緊張を覚えていた。
彼女は、胸にかざした手で、作ったハートを揺らす。
ゆるやかに、左右へ、一回ずつ。
魔法の呪文を唱えながら、丁寧に揺らしていく。
「おいしくなーれ、かわいくなーれ、もえ~もえ~きゅんっ!」
彼女が手で作った、即席のハート。
それが、スクランブルエッグ上に作られた、ケチャップのハートに向けられる。
その時、見えない何かが、手で模したハートから撃ちだされた!………のだろうか?
「━━━━━━━━。」
「━━━━はい、おいしくなりましたよ」
「本当に!?」
これが魔法……なのか!?なんにも見えなかったが!?
派手な音も、眩い閃光も、不思議なオーラも…。何も感じなかったが…。
本当にこれで美味しくなっているのか?
「はい、ほんとうですよ?だって、わたしの愛の魔法を込めましたから!」
「愛の魔法?さっきは、美味しくなる魔法だって……」
「うん?知らないんですか?愛情は魔法なんかよりも特別な、最高のスパイスなんですよ!」
「魔法なんかって…。はぁ、やっぱり魔法じゃなかったのか。愛情も大切だろうけど、それで味まで変わるはずがないじゃな…」
「では、食べてみてください」
「……え?」
「ご主人さまも食べてみて頂ければ、きっと愛情がどういう意味か、わかると思いますよ」
「いや、しかし、こんなにケチャップがかかってたんじゃ……」
「愛情の味……知らずに帰っちゃっていいんですか?」
真剣な眼差しだった。
笑っている…。笑ってはいるのだが、彼女は真面目に魔法をかけたと言っている。
美味しくなった。美味しいから…。美味いから黙って食べろと……そう言っていた。
「━━━━━━━━食べるよ」
別に挑発をされたからではない。
ただ知って、味わってみたかったのだ。
心が壊れるほどの、愛情の味…。というものを。
「……いただきます」
「はい!どーぞ♡」
震える手をフォークへと伸ばし、そのままケチャップの海に沈んだスクランブルエッグを救い上げるようにして、すくい上げた。
私の唾液量は食事を前にして増えてはいるが、それは味蕾を活性化させる栄養素でもある。
味蕾は口腔内の唾液と反応し、味覚をより鮮明に脳へと伝達する。
そうなのだ…。
この、ケチャまみれになった刺激物を口に含んだ瞬間。私の脳内は、間接的にケチャまみれの情報を処理できずに、真っ赤なケチャの海にスクランブルエッグ共々沈み行くことになるだろう。
それは、私の味覚を別の意味で破壊することでもある。
……これはもはや、食事とは名ばかりの戦い。
━━━━味覚をかけた戦争だった。
「━━━━━━━━。」
口は開くことを拒み続けるが、私はそれでも、ソレを口の中へと運び入れた。
咀嚼、咀嚼、咀嚼……。
繰り返す咀嚼の中で、私の考えは……。
━━━━━━━━好転した。
「な、なんだ…この……温かな……味は。いつも食べているスクランブルエッグとは何かが、違う…」
味蕾は何の結果も検出しない。
むしろ破壊されるどころか、心の芯からじわっと温かい何かが広がっていくような感覚さえも覚えた。
(この味わい…。私はこれをどこかで…)
けれど、これと似た症状を、私は過去に何度か経験していた。それは……。
「それが愛情の味。まごころ……です。ご主人さまも、この味…ご経験があるのでは?」
━━━━その通りだ。確かに経験がある。
この味と共に育ってきた。
この愛情を受けて育てられた。
この味は……。この、味は……!
「おふくろの……。亡くなった…。おふくろの味だ……!」
あの頃は、腹を空かせ家へ帰ると、決まって台所から美味しい匂いがいつも漂って来ていた。
おふくろは、もちろん私の能力を理解していた。
だからといって刺激の少ない薄い味にしたり、高級料理のような一級品の味に仕上げようなんて考えは微塵も持っちゃいなかった。
ただただ素朴な、家庭料理。それが、おふくろの作る料理だった。
味蕾は、意外にも、おふくろの料理で異常な検出を行うことは、一度たりともなかった。
なぜか、おふくろの作った料理を食べている時だけは、何も気にせずに食事に没頭できたのだ。
当時の私は、その味蕾の反応に不思議がりもせず、生活を送っていたのだが、ある日事態は一変する。
あれは、学生時代最後の。……幻燈祭前夜のことだった。
━━━━━おふくろが死んだ。
そう連絡を受けて、急いでバイト先から飛び出した。
あまりにも取り乱していた私は、バイトの作業着のまま実家への道を走り抜けていた。
だが、帰宅した私を待っていたのは…。冷たくなり、涙を流す父親や近所のおばさん達から囲まれ、まるで眠るように、瞼を閉じた亡きおふくろの姿だった。
その後、調査が行われたが、結局おふくろを襲った具体的な死因は不明。
しかし、死因に直接的な関係があるのかは分からないが、ひとつだけどうしても当時から気になっていたことがあった。
おふくろの遺体は、不自然なほどにシワ一つ見られない光沢のある肌をしていたのだ。
これは比喩でもなんでもなく、当時の私の瞳にはそのように映った…というだけの話である。
このことについては、気が動転したことによる錯覚か何かだと、私の中で自己消化させたが、今にして思えば奇妙な点だった。
この事件以来、私の味蕾は前にもまして過剰な反応を示し始める。
それがきっかけで、ファストフード関係は舌に合わず、めっきり足が遠のいた。
おふくろがいなくなり、当たり前に思っていた食事を、当たり前に楽しめなくなった頃の私は、とてもじゃないが人に見せられるような顔はしていなかっただろう。
「これが、愛情の味…。ケチャップでスクランブルエッグが溺れているのに、こんな味わいが生まれるなんて…。お嬢さんは、本当に魔女なんじゃ…」
「わたしは本当の魔法なんて使えませんし、魔女なんかでもないですよ。ですが、気持ちを言葉に乗せて魔法のようにかけることはできます。これに技術や知識なんて凝り固まったものは必要ありません。大事なのは、相手に向ける想いなんですから」
「想い……ですか…?」
「はい!作られた料理って、ベースの味は変えられませんが上にトッピングはできるでしょう?つまり愛情は後乗せ可能ってことですよー!それも、なんと乗せ放題なんですー!」
ニコニコと楽しそうに話す。
無茶苦茶なことを、真剣に語る。
あまりにも突拍子もない。
あまりにも夢の詰まった答えに、つい……。
「………っぷははは!何ですか、その理論。全然ロジカルじゃないですね」
つい、笑みが漏れてしまった。
「あ、やっと笑って下さいましたね、ご主人さま。そうですね、ぜんぜんロジカルじゃないですけど、そう考えた方が楽しくありませんか?人生いろいろと!」
「……そうですね。ええ、私もそんな気がしてきました」
考え方は色々あるだろう。
そんなもので、愛情なんかで、料理は変わらない…。
愛情を振りかけても、論理的に味の変化は証明できない。
当然だ。その答えは間違ってはいない。
間違ってはいないが……。そんな答えでは、つまらない。
食事を、人生を楽しむのなら。考えも楽しく、夢があった方が断然いい。
凝り固まった理屈を語るよりも、柔軟な気持ちを抱えて味わう方が何倍も充実できる。
幸せの伝播。
食事に愛情を注ぎ、食べた者が幸せになる。
食べた者が幸せになれば、それを作った者が幸せを感じる。
愛情を通じて、食事を通して、幸せの輪が広がっていく。
これこそが、食事のあるべき本来のカタチ。
味覚だけでは解決できない特別な味わい。
彼女のような若者の柔軟な考えだからこそ、見えてくる世界もあるのかもしれない…。
「この味は、またここで食べられますか?できればまた次回も、その…。魔法をかけて欲しいんですが」
おふくろの味を求めに、毎朝ここへ通うというのもおかしな話だが、また次があるなら是非とも食べたい。
どう考えても、私より随分と年下の少女にお願いすることではないのだが…。
「うーん。その必要は、ないのでは?」
お願いは、やんわりと断られた。
無理難題ではなかったはずだが、断られてしまった。
「必要ない理由とは…?」
諦めきれない私は、理由の開示を迫った。
「ご主人さまにはわたしよりも、もっと適任の方が近くにいらっしゃるように思えますが…?たとえば、そちらの薬指に身に着けていらっしゃる。指輪に誓い合った奥方さま…など」
「━━━━━━━━!!」
言われて気づくとは、本当につくづく自分が鈍感だということに嫌気が差してくる。
この味はおふくろの味だったが、妻が作る味にも、どことなく似ていた。
妻の料理も優しい味付けであり、これまた味蕾も大人しくなる料理だった。
てっきり、妻の神の加護である≪品質保持≫が関係しているのかと思っていたが、事実そうではなかったのだ。
妻の料理にも私への愛情……。愛する家族への想いが込められていた。
いつも美味しい料理を作ってくれる妻には、感謝しているし、愛している。
だが、込められたものにすら気づけなかったことは、私が舌からの情報のみに依存していたことによる怠慢だろう。
「お嬢さんには気づかされてばかりだな…。そうだな、そうするよ。帰ったら妻に、感謝の言葉を伝えるよ」
「そんな降って湧いたように、突然ありがとう~って伝えるよりは、もっといい伝え方があると思いますよ?」
「え?それはどんな…?」
「一言でいいんです。ご飯を食べた時に『おいしい』って相手に伝える。それだけで用意した側が何よりも救われる最上級の誉め言葉になりますからね!それに、急に感謝を伝えられても驚いちゃうか、浮気したんじゃないか~とか疑われて良からぬ想像の引き金になりかねませんから」
「おいしい……か」
「ちゃんと日頃から伝えてますか、ご主人さま?」
「ありがとう…は伝えてますけど、面と向かってそういう言葉は、あまり伝えてなかったような…」
「いけませんねー。それなら、ご自宅に戻られたら夕飯の時にでも伝えてあげてください。きっと、今夜は寝かせてくれなくなるかもしれないですねー?もちろんいい意味で」
「あ、あまりからかわないでくださいよ…。でも、はい。妻にはしっかり伝えます」
「ふふっ、そうしてあげてください。こういう小さなことでも女性は嬉しいんですからね?では、私はこれで。ご主人さま!今日も一日、お仕事がんばってきてくださいね!」
「あっ……、ああ。ありがとう、メイドのお嬢さん」
今の彼女の口ぶりからすると、実は私のことを前から知っていたのだろうか。
マスターとは直接面識はないが、店員さんから見ると、おおよそ私は平日の出勤前に毎朝同じメニューを注文する変わった客…のような印象だろう。
先輩の店員さんに事前に聞いていた…。なんてことも有りえるのかもしれない。
どれも、憶測の域を出ない考えではあるのだが。
「あっ!次に、もしお会いする機会があれば、気軽に『ひめちゃん』って呼んでくれるとうれしいです!」
「え……あぁ……うん、わかったよ。おじさんには少しハードルが高いけど、色々とお世話になったし頑張ってみるよ」
「えへっ!約束ですよ!ご主人さま♡」
彼女のまぶしい笑顔は満開に咲き誇っていた。
当初は、彼女に熱い声を送る他の卓の客たちを気持ち悪いと、偏見にはなるが、そう思っていた。
しかし、彼女の明るい性格や気持ちを言葉に起こし伝える伝達力など、知れば知るほど彼女の魅力があふれ出てきた。
今では私も、気が付けば彼女をこれからも客として応援したいという、謎の感情がフツフツと沸き上がってきている。
新人であろう彼女が、客をここまで引き込んでいるのも、彼女の持ち得る人徳ゆえなのかもしれない。
━━━━それからの私は、彼女の愛が振りかけられたスクランブルエッグを筆頭に、卓上に並び広げられた料理達を味わい尽くした。
そして食後に、ミストレスのおかわりを頂いているのだが。
(おっと、もうこんな時間か。少々、ゆっくりし過ぎたな)
腕時計を見ると出社時刻ギリギリに差し迫っていた。
私は、ミストレスの鼻に抜ける芳醇な香りと、舌にいつまでも広がり続けるほのかな甘みに後ろ髪を引かれながらも、急いで会計を済ませ、外へと飛び出る……と、店内から声をかけられた。
「いってらっしゃいませー!ご主人さま~!」
「━━━━っ!?……ん、いってきます…!」
━━━━ある日。いつものカフェが、いつもとは違うカフェになっていた。
だが、私は明日も明後日もここへ通い続けるだろう。
通う理由がまた一つ増えた、このカフェ“Coffee shop カフェ ミスト”に…。
「よし、今日も頑張るか!」
こうして私の新しい一日が始まった。
カフェインだけではなく、元気と愛情を補給した今の私の身体には、エネルギーが満ち溢れている。
これなら本日も良い仕事ができそうだ……。
━━━━私の一日は、この一杯のミストレスコーヒーから始まる。
━━━━あなたの一日の目覚めに寄り添う……“Coffee shop カフェ ミスト”。
■
■
■
「……っていう、コマーシャルで売り込んでいくのはどうよ!」
「今までの全部コマーシャルだったのかよ!?なんで、無駄に長すぎるヒューマンドラマを聞かされてるのか、ずっと疑問だったけどさ!?おかしいと思ったよ!!ケチャップ塗れが、おふくろ味だなんて聞いたことねーからな!?そんなの却下だ、却下ぁっ!!!だいたい何で、お前だけメイド服着てんだよ!?」
「━━━━そりゃあ、メイド喫茶だからに決まって……」
「ウチを勝手にメイド喫茶にしてんじゃねぇぇえよ!?」
◆◆◆
【神廻歴4201年3月14日】
【PM 14:30 シンフェミア カフェ ミスト裏手 自動商売機前】
「ごきゅ…ごきゅ…、ぷはーーっ!!バイト終わりの一杯は、格別ねぇ~!」
「頼むから、晩酌してるオッサンみたいなこと言わないでくれ…。知り合いだと思われたら恥ずかしくなるから!」
「しょうがないでしょ~?文句があるなら、この美味しすぎるチカコーラに言ってよ。ハンバーガー屋さんで飲んだペプチドコーラも美味しかったけど、これもいけるわ~。どこの世界でもコーラって、ほんっと、罪な飲み物なのよ~!それにたったの、100レイス(※日本円で100円)!物価が消費税に呑まれていく、ウチの島国とは大違いよ!!ごきゅ…ごきゅ…、ぷはーーっ!!」
「はぁ……。女子力……」
俺の横で、ガブガブとコーラをラッパ飲みしている異世界からの転移ガール。
クロガネ・レンカが、この世界にやって来てから、早いもので一週間が経っていた。
さすがにそれだけの期間をこちらで生活していれば、環境にもだいぶ慣れてきているようだ。
━━━━いや、なんか慣れ過ぎて。逆に、ふてぶてしくなってません?
「けっぷ…。それより!さっきのCM、かなりいい案だと思うんだけど、ルシェは何が気に食わなかったのよ?お店をPRして、たくさんお客さんくれば嬉しいんじゃないの?わたしは別に、見返りを求めているわけじゃないんだけど。売り上げに貢献した、気持ち程度の…。そのぉ、心ばかりのインセンティブがあってもおかしくないと、勝手に思ってはいるけどね……?けっぷ…」
傲慢だ…。発想が、ふてぶてしいにもほどがある。
親切の押しつけだった。
プレゼンに見せかけた。自己の私腹を肥やすだけの、セルフプロモーションだった。
「あのなぁ?気に食う、気に食わないとかの問題じゃなくて…。俺の家、そもそもメイド喫茶じゃないからな?まあ、百歩譲って仮にメイド喫茶事業を展開していくとするよ?そしたら、ウチに落ち着きを求めて来てくれてる客層の方々が、ギャップを感じて来なくなっちゃうかもしれないだろ?だって、求めてるニーズに反りまくってるんだからな!?」
行きつけの店が、ある日入店したら、メイド喫茶になっていた。…なんて体験をしたら、俺だったら次回の利用は見送ってしまう。
「ルシェ~?現実を見なさいな。今も変わらずお客さん来てくれてるでしょ?客足が遠のいたり、見なくなった常連さんいた?…けっぷ」
「いや、いないけども……っておい、ちょーっとまて。さっきの話ってフィクションなんだよな?」
「ごきゅ…ごきゅ……んん?…ねぇ。わたし、作り話だなんて一言も言ってないわよ?」
「え、じゃあ…。メイド喫茶してんの?……当店?」
「けっぷ…。そうよ?月曜日と水曜日限定でしてるけど?ルシェったら、パパスから何も聞いてないの?さっきの話も、実際に来てくれたお客さんから話を聞いて作ったストーリーだから、8割はノンフィクションよ?……2割はわたしの可愛さ補正が入ってるけどね?」
「━━━━いや知らんわッ!!!月曜日と水曜日って言ったら、俺が外業務に行ってる曜日じゃねぇか!!あの親父よくわからん事業に手を出しおって!!」
「……けっぷ」
「お前はゲップで答えるんじゃねぇよ!?」
この1週間で、彼女は本当にやりたい放題できるようになったようで……。
父や母のことも、パパスやマミーとか呼んでるし。
パパ、ママ呼びの初期設定は、どこへ行ったのやら……。
いい加減、山に返しに行こうか。この娘。
「まあ、安心するのよ。その2日間以外はフツーに働いてるし、メイド喫茶の評判も案外悪くないのよ?だってほら、見なさいな」
レンカが指さしたのは、ウチから出てくるお客さんだった。
いたって普通のお客さんではあるが……。おや、何か言ってるな…。
「今日は"ひめちゃん"入店してないとかどういうことだよ。昨日は居たのに今日は休みってか?くっそぉ、入れてるシフトさえ何曜日か分かれば…!」
若い男性客が苛立った表情を浮かべ、店から離れて行っていた。
この位置からでも彼の独り言は聞き取れるが、どうにもレンカのことで頭を悩ましているらしい。
そこへ、彼の後方から。
「━━━━落ち着くのです、同志よ」
同じく当店から出てきたと思われる客が、彼に声をかけた。
「あ、あんた誰だよ?」
「当方は、しがない"ひめさま"親衛隊の一人。名乗る名など、これだけで十分でありますよ。ところで、"ひめさま"のタイムスケジュールが知りたいと…?よろしいでしょう。同じ志を共にする者同士、ここは助け合いましょうとも!━━━━ではまずは、"ひめさま"の起床時刻から……」
「ち、ちがう、ちがう!!俺が知りたいのは"ひめちゃん"の出勤日だよ!俺を変質者にさせようとするな!」
彼は、うろたえながらも、変態への道を勧める男性をはねつける。
あの男性客。彼には見覚えがあった。
細身の体躯に、チェックのシャツ。
ダメージジーンズに、シャツをぴっちりと収めた出で立ち。
肩までかかる黒い髪に、牛乳瓶の底のような厚さのレンズを使用した、眼鏡をかける男性。
ウチの常連客の一人だった。
「そうですか。あなたも変態の素質がありそうなのですが、非常に残念です。出勤日が知りたいとのことですが、現在判明しているのは月曜日と水曜日のみ。"ひめさま"は今週の月曜日に初降臨なされたので、1週間分のデータしかまだないのですよ。故に、シフト制であった場合は、週ごとに違う可能性も出てくるのであります!だからこそ!当方は毎日!毎日通い続ける精神であります!!……よければ、ご一緒にどうですか?」
また、危なそうな勧誘が始まった。
あのお客さんが常連なのは知っていたが、まさか変態だったとは…。
変態客に誘われた若い男性は、不審そうに目を細めて答える。
「一緒に?冗談じゃ……いや、まて?…いつ出勤するか分からない…。だから通い続けるしかない…。そ、そうだな。よし、俺も同行しよう」
勧誘は成功してしまったようだ。
「同志よ!!よくぞ言ってくださいました!」
歓喜に震える変態客は、ガシっと若い男の手を握りしめると。熱く、固く、がっちりと、一方的に力強く握手を交わした。
「いつ出会えるか分からないドキドキ感……。なんつーか、これは人生が楽しくなりそうな……」
「ええ、その通りでありますよ!!当方も"ひめさま"のおかげで毎日が楽しくなったでありますよ!!」
食い気味に気持ちを語る変態客は、若い男性にその後も色々と何かを吹き込んでいた。
レンカの魅力、仕草、話し方、香り、起床時間。
最後の方に至っては、何かを起こす前に警察へ突き出した方がいいのではないかとも考えさせられる内容だったが…。
やがて彼らは意気投合でもしたのか、肩を組み。そのまま雑踏の中へと消えて行ったのだった。
「━━━━ね?わたしのファンは幸せそうでしょ?」
「あ、うん。若干の犯罪臭がすることを除いては、良いお客さんなんじゃないか……?でも、レンカは今日も働いてただろ?レンカが接客してるのに、あの人たちは気が付いたりしなかったのか?」
「確かに、それもそうね…?メイクは、メイドカフェ仕様とは変えてもらってるけど、そんなに気がつかれないものなのかなぁ?……あ、わたしの声のトーンも関係あるかも。メイドの時は、無駄にきゃぴきゃぴさせてるし。香水も、マミーがくれたし」
「きゃぴきゃぴ…?あー、なんとなく想像つくわ…」
あまりにも身に覚えがありすぎる。
初見で彼女と遭遇した時に、清楚系の女の子…という印象を受けたが、それは彼女の声のトーンと仕草によるものだった。
実際にフタを開ければ、問題児なアホガールだったわけだが…。
第一印象で与えたイメージを、崩さないように徹底しているメイド状態のレンカさん。
お客さんには、それが"ひめ"という女性として認識され、記憶付けられているはず。
だから、それ以外の曜日でレンカに遭遇しても同じ人物だと気づかれていないわけか…。
━━━━でもそれって。普段は、清楚とは無縁な、ちゃらんぽらん女子だと思われてるってことなんじゃ…?
「にしても、"ひめ"って愛称は何なんだよ。小さい頃にお姫様に憧れてたから~とかか?」
冗談交じりに尋ねてみる。
例のCM話にも出てきたが、わざわざレンカと名乗っておいて、ひめという愛称を呼ばせているのは何故なのかと、何となく気になってはいた。
通常日との差別化で客に呼ばせている…という理由が、一番ありそうな話ではあるが。
しかし、彼女から返ってきたのは妙な問いだった。
「ルシェは、メイド喫茶に集まるのはどういう人たちが全体的に占めてると思う?」
「へ?……うーん、レンカみたいな人?」
質問を質問で返されたことで、間の抜けた声が出る。
俺は、とっさに思いついたことを彼女に返してみた。
だが、とっさにしては、かなり的を射た答えだと思うんだが。
「そうよ!あったりー!!……って、ちがーーーうっ!!……いや、違わないんだけどね?」
「どっちだよ……」
「どっちもよ!!……こほん!つまりはね、メイド喫茶には迷えるオタクたちが集まるのよ。……さあ!わたしのことが、そろそろ分かってきたルシェなら……もう答えを導き出せるんじゃない?」
「チヤホヤされてアイドルになりたいと?」
「うぅーん…!合っては、いるんだけどぉ……。今日はそれじゃなーーい!!……こほん。わたしはね、ルシェ。オタクの集まる場所。オタクサークルの姫。そう、オタサーの姫にわたしは…なる!のよっ!!」
「━━━━帰ろうかな」
「まってよ!?ねぇ、心の声が漏れてるんですけど!わたしは本気なの~!!だからゴミを見るような目でこっちを見ないでよぉぉお!」
「ゴミをこんな目で見たことねぇよ。ゴミは、ゴミ。レンカは、レンカ…」
「それって、わたし限定!?わたしだからってこと!?ねぇぇぇえ!るしぇぇえ!!」
またレンカさんの発作みたいな症状が出始めたので、いつものように放置していきたいんだけど…。
ここ、店の裏手だから。泣かれると色々と、面倒なんだよな……。
「わかったから大きい声を出さないでくれ。……で?その…オタサーの姫…?とかいうのになって、一体どうするんだ?」
「みんなを幸せにするのよ」
けろっとした表情で、とても大きな野望を告げるレンカさん。
「……レンカ。悪いものでも食べた…?」
「失礼ね!?いったいどういう意図の質問なのよ!?」
柄にも無いことを口にした彼女に思わず驚いてしまった。
てっきりレンカさんなら、『チヤホヤされて貢いでもらって楽に暮らすのよ!』なんて、頭よわよわな回答を持ち出すだろうと、高をくくっていただけに、意表を突かれてしまったのだ。
「言葉にした通りの意味なんだけど!?真面目な話なんだから、ちょっと聞いててよ。……オタクってね、一つのコンテンツに夢中になってそれを極めたりする人たちが多い界隈なんだけど。その結果、友達とかの友人関係も、バッサリ切っちゃって、孤独になっちゃってる人も多かったりする界隈なのよ。まあ、わたしもそこに含まれるわけなんだけど。…でね?オタク同士で仲よくすれば済む話では~って思うかもしれないけどさ、案外そのハードルって高くて。だから、逆に人間関係を遠ざけて閉じこもっちゃったりもするんだよね……あっはは…」
「━━━━━━━━。」
これはおそらく、彼女の実体験も含まれている。
自身の暗い過去。
それを話に出すということは、ある種の覚悟の表れ…。
彼女にとって、それほどまでに重要なナニカ…なのかもしれない。
「結局のところね、勇気が足りないのよ。話しかけたらどう思われるか~とか、客観的な視点で自分を見ちゃうから、歩み寄ることがどうしても出来ない。あと、オタクは無駄に変なプライドを作っちゃったりするからー。孤高がカッコいい!…みたいな。皆がみんな、そうじゃないけど。……それも、独りの寂しさを取り繕う為の偽装……みたいなものだったりするのよ。…だ、だからね!わたしはきっかけを作りたいの!」
「きっかけ……?」
「そうよ!わたしは、オタクたちがみんなで、ワイワイ楽しめるような環境を作りたいのよ!それを実現できる場所。それが、メイド喫茶なの!メイド喫茶なら、きっと同じようなタイプのオタクたちが集まる。それで、わたしが接客するでしょ?すると、わたしを気に入って推してくれるオタクたちが推し活を始める。オタクは一度行動に移したら、それはそれはフットワーク軽いわよ?オタクの行動力を舐めないでちょうだい?」
オタクのことをこうも嬉しそうに語るのは。自身も、そのオタクの一人であるからなんだろう。
たしかに、レンカの行動力には驚かされてばかりだしな…。
「オタクの推し活にも種類があるけど、なかでも布教活動がここでは重要よ。この布教活動で、別のオタクに話しかけるネタがなくて、コミュ障を発揮していた一部のオタクは手に入れるのよ。布教という名の会話デッキをね。デッキを手に入れたオタクはどうなると思う?……無敵になるのよ。水を得た魚って言葉を引用するなら、コミュ力を得たオタクってとこね!オタクがこうなれば、もう友達ができるまでに時間はそうかからないわ…。いいえ、友達…ではなかったわね。同じコンテンツの、修羅場となる戦場へ赴く者達。これをオタクは、同志と呼ぶわ」
決め顔で彼女は、そう言った。
友達ではなく、同志…。
そういえば、さっきの変態客も、同志って言葉を使っていた。
で、つまりは、それを導く存在が……。
「それが、お前の言う。オタサーの姫…なのか?」
「まぁ、本当の使い方は、オタクサークルに加入してる女子が、お姫様みたい扱われるからって理由で、使われるようになった俗称なんだけどね?でも、オタクたちを幸せにすることが出来るなら、わたしは姫になるわ。それに、近々お祭りがあるわけだし、家でこもってないで、友達と一緒に楽しんでほしいじゃない?」
━━━━彼女の気持ち。それは確かに、オタクに幸せを与えていた。
人付き合いがなくなり、人を避けるようになれば、誰かと共に過ごす時間も無くなる。
そうなると、イベントや、お祭りごとにも、積極的に顔を出さなくなるだろう。
自宅に閉じこもり、自分から世界を狭めてしまうかもしれない。
友人の存在は、それを変える。変えられる。きっかけになり得る存在だ。
今日見た、あの二人だってそうだ。
オタク同士が、好きを通して繋がった。
オタク同士だったからこそ、その話題で繋がれた。
彼らを繋ぎ合わせたのは、紛れもなく彼女だった。
「━━━━たまには、良いこというじゃん」
「た、たまにってなによ!時々、しんみりしたシーンでも良いことは言ってるでしょ!?」
「あはは、どーだか?」
レンカの気持ちは、直接的にはオタクたちへ伝わらないのかもしれない。
でも、彼女の想いは。別の形となって、オタクたちに届いているだろう。
あの、二人のように…。
「ねえねえ、ルシェ。幻燈祭って、もうすぐなんでしょ?」
能天気な口調に戻った姫から、二の腕あたりの服を摘ままれ、揺さぶられる。
なるほど確かに、この変わりよう。
レンカのファンが、通常業務の彼女に気がつかないのも納得だ。
何なら、声優とかに向いてるんじゃないのか。……メイドよりも。
「もうすぐというか、明日からだよ。3月15日から17日までの3日間。シンフェミア中央記念公園……。通称、ピースサイドパークを中心に開催されるから、俺はこのあと出店用の仮設テントの設営をしに行くつもり」
「ふーん、そう。……えっ、今日って3月の14日なの?」
「そうだけど……どうした?なにかあった?」
何か用事でもあったのだろうか。
レンカさんは目を丸くさせて、「おい、こいつまじかよ…」と言わんばかりの視線を俺に送った。
「どうしたって!3月14日よ?今日って、ホワイトデーじゃない!」
「━━━━なんだ…?それ……」
「えぇ……。あなた知らないの!?男の子が女の子にバレンタインのお返しのプレゼントを渡す日よ?…と、いうことで。わたしに何か、プレゼントちょーだい!」
両手を天に向け、期待に胸膨らませた表情の、物乞いをする少女が……そこにいた。
「いや知らないけど。そっちの世界の文化なのか?それに、お返しってことは何かを女子側から男子側に事前にあげてる…って話なのでは?その、バレンタイン…とかいうやつで」
「━━━━ちっ、なかなかに鋭いわね……異世界人……(ボソッ)」
「なんか言った?」
「い、いえ、なんでもないわ!その通りね。お返しなのよ!でもわたしはルシェにもう渡してるわよ?」
贈り物のお返し。
それは正しいようだが、彼女が俺に渡したものとは……。
「なんか貰ったっけ…俺?」
「あげたわよ?」
自信満々に渡したと答えるレンカ。
彼女は一度言葉を止めると、ススッと俺に寄るなり……。
二へっと、無邪気に微笑み。上目遣いで、自身の艶やかな唇に指を添える。
空いた片手を俺の胸に近づけると、白く細い指を添わせて。……吐息混じりに口を開いた。
「━━━━━━わたしという、妹を……ね?」
「━━━━人間をクーリングオフって出来るかなあ……」
「やめてよ!?どこに送り返すつもりよ!?山なの!?あの、キノコがたくさん生えてたキノコの山に捨てられるの!?わたしぃ!」
作られた雰囲気と表情は、跡形もなく崩壊した。
演技力の高さは評価できるが、彼女の本性を知ってしまった現在。
俺の心には微風さえも吹くことなく、心は微塵も揺れ動くことはなかった。
(残念だったなレンカ…。お前のそれは、もう効かん!!)
「確か、キノコすきなんだろ?なら問題ない気も……あぁあっ!やめろっ!!俺に向かって、ギガスラッシュを撃とうとするなよっ!?わかったから!ジュース奢ってやるから!それがプレゼントでいいだろ!?だから落ち着けってっ!!」
目を潤ませながら今にも泣きだしそうな、自称妹さん。
何を血迷ったのか、彼女は自身の神の加護である、空気の斬撃の射出準備に入り、照準を俺へと定めていた。
とたん、ぴくりと。俺が発した、ジュースという単語に反応するレンカ。
それを聞くなり、彼女は落ち着きを取り戻す。
「そう?……ま、わかってくれればいいのよ!ルシェもわたしの神の加護をちゃんと技名で呼んでくれるようになったし、今回は斬撃の錆にしてあげないでおくわ?それにしても、プレゼントがジュースって……女の子への贈り物としてどうなのよ?……えへへー!ジュース何にしよっかなー!」
(━━━━━あ、アホの子で助かった……)
この1週間でウチの偽妹は、とんでもない悪知恵を身に着けてしまったようです…。
脅しなんかには屈したくないが、アレ食らったら普通に死にそうでシャレにならないからな…。
それに今回は、ソーシャルディスタンス皆無だったし…。食らったら即死ですよ。
「とぅ~るる~るるる~る~るる~るるる~♪」
「はぁ……何にするか決まったら教えてくれ。……また妙な歌を歌ってるな、あいつ…」
自動商売機の前で、ぴょこぴょこ跳ねながら鼻歌を歌うレンカさん。
遠目から見ると、まるで幼い子供のようである。
本人に言っても、『わたし、まだ子供ですけど?』って真顔で言葉を返してきそうだが…。
「うーんとねぇ……。これにするわ!」
「はいはい」
ボタンを押し、ガタンっと音を立てて、対象のジュースが受け取り口に落ちてくる。
そいつを嬉しそうに拾い上げたレンカは、さっそく缶のフタピンをカシュっと押し込み、開封した。
「ほんと好きだな、そのミルキーグレープソーダジュース…。まあ、50レイスだし。安上がりでいいけども…」
さっき彼女が飲んでいたチカコーラと比べれば、半額なので懐にも優しい。
以前に彼女が、オークバーガーを大量に平らげたことを考えれば、この程度の出費なんて可愛いものだ。
「ごきゅ、ごきゅ……ぷっはーー!!やっぱりこれよ、これ!ミルクっぽい見た目なのに、味はグレープフルーツの炭酸。おまけに後味がブドウっぽいなんて、頭がおかしくなりそうで最高だわ!」
その説明のどこに最高の要素が含まれているのか、彼女の話を何度聞いても俺は理解が出来ない。
彼女の琴線を刺激するポイントはいつだってミステリーだ…。
「異世界に自販機があるなんて、最初見た時はファンタジーを冒涜してる!って思ったけど、現代人にとってはないと困る必需品よね~これ」
「レンカが異世界に抱いてる理想が高すぎるだけだよ…。それと自販機ってなんだよ。これは自売機だぞ?」
「━━━━へ?自販機じゃないの?自動で販売する機械で、自販機でしょ?」
「自動で商売をする機械だから、自売機だけど」
「それなら普通は自商機じゃない?自売機だと……いや、くだらないわね。ふっ、このイカれたジュースの前じゃ、全ての事象はあまりに矮小で他愛無いことだったわ…」
「━━━━━━。」
(━━━━なんだ、こいつ……)
自己完結したレンカさんは、さもワインを嗜むような持ち方で、ジュース缶を揺らしながら自分に酔いしれていた。
ええ、そうですね。
本日もレンカさんは、通常運行です。
「まあ、ゆっくり酔いしれておきなよ。俺は父さんと一緒に、店の設営に行ってくるから」
「ええ、行ってくるといいわ。わたしは、残された今日という1日をどう過ごすのか。これから考えておくから…」
このパターンは、何をしようか考えてたら1日が終わってしまうやつだな。
よく休みの日に陥ってしまうと、すごく後悔するやつ…。
「そ、そうか。ほどほどにな…?」
あとで彼女が、『たいへんよルシェ!気が付いたら1日が終わってたわ!?きっと新手のチートプレイヤーの仕業よ!そうなのよね!?ねぇ、そうだと言ってよぉぉお!!』って、泣きついてくるビジョンが薄っすらどころではなく、明確にくっきりと見える。
が、その対処は数時間後の俺に任せるとしよう…。
ひとまず彼女をその場に残し、会場へ持ち運ぶ機材等をまとめるために、俺は一度店へと戻り始めた……その時だった。
「━━━━ちょっとお話いいでしょうか……。先輩?」
少女のようでいて、どこか大人っぽさもある女性の声。
真横から誰かに呼び止められ、俺の足は自ずと停止する。
「……はい?」
それにこの声、どこかで聞いたことがあるような…。
耳に入った声を詮索しながらも、呼び止めたその人物へと俺は身体を向ける。
「━━━━近頃、ツェドを見かけなくて不思議だったんです…。家に行っても、冒険者協会に行っても、どこに行っても会えなくて…。だからあたし、街中を探し回って聞き込みしました」
淡い紫のグラデーションがかったアイリス色の髪。
装飾に黒のリボンが付く、黄色いゴムで括られたツインテール。
ぱっつん前髪とツインテールの髪型は、彼女の持つあどけなさを、より強めていた。
しかし、子供っぽい…というわけではない。
「━━━━聞き込みをしていたら、ツェドが…。噂によると、ツェドが捕まってるっていうじゃないですか…。あたし、それで思ったんです…」
ビショップスリーブのブラウス襟には、金色で縁取りされた気品のある黒いリボンがあしらわれ、上から纏われたブラックブルー色のベストが、彼女の大人びたボディラインを際立たせる。
さらに同じく、ブラックブルー色のサーキュラーフレアスカートは、金の刺繍で裾に煌びやかにパイピングが施されており、華やかな上品さを演出していた。
幼くもある顔と、年相応の発育を遂げた容姿とのギャップには不覚にも、どきりとさせられる。
思わず頭がクラクラしてしまうが、彼女の次の問いは、違う方面で俺の頭をさらに悩ませた。
「もしかして先輩が……」
「━━━あ……」
この女の子を俺は知っていた。
知っていたから。だからその先に、恐怖した。
「また、先輩がツェドを危険なことに巻き込んだんじゃないんですか!?もう冒険者は、とっくに引退してるはずでしたよね!?二クロフ先輩っ!!」
「……あぁ、そのぉ…」
ぐいっと、間合いを詰め寄ってきた彼女からは、ソフトで鮮やかな印象を受ける香りがした。
詰め寄り方と剣幕は、全然ソフトとは無縁だが…。
例えるなら、爽やかではあるがフローラルのようにインパクトがあり、どことなくスパイシーで甘いパインのような香りもする。
なんの香水を使っているのかは詳しくないので分からないが、女性、男性問わず万人から好まれる香りであろう。
とまあ、こんなことをポンポン並び立ててはいるが、彼女のことを特段意識しているとかではない。
本当だ。ああ、もちろん本当だとも。
……信じてくれ。
「━━━ルシェ、その人は?…ごきゅ、ごきゅ……」
「信じてくれ!!」
「んんっ、けっほ、けほっ……。なにをよ!?…けっぷ」
俺を見かねて、助けに来てくれたわけでは、なさそうな人がやって来た。
思わず心の否定文をレンカにぶちまけてしまったが、ミルクでグレープなサイダーを嗜む彼女は、むせながら言葉とゲップで返答をしてくる。
「ああ、いや。ごめん、こっちの話…」
彼女への謝罪もそこそこに、俺は何かを思い出しかけていた。
そういえば何かこういう展開……。どこかで既視感が…。
あれは……そう。
清楚オーラを放つ彼女と、初めて出会った……。
「なんですか、信じてくれって!?あたしは、先輩を心から信用したことなんて一度もありませんけど。半信半疑で接してましたけど!なんなら、これからも一度たりともないとは思いますけどっ!たぶん!」
初めて出会った思い出は、回想できなかった。
「思い出に浸らせろよ!?せっかくなんかエモい感じになってたんだぞ!?」
「先輩……。どうして、どうしてツェドを豚箱送りにしたんですかぁ!?」
「してねーよっ!!!何の話だよ!?たぶんそれ、冤罪で俺は濡れ衣だからな!?」
どうやらこの子は、勘違いを起こしている。
先日の火事でツェドが警察に捕まったことを知り、俺が事件に巻き込んでツェドを警察に突き出した…などと思っているようだ。
冒険者時代、ツェドとは頻繁に依頼をこなしていた。
依頼中、厄介ごとに出くわすこともあったが。いつも決まって、ツェドだけが何故か災難に遭うことは常であった。
彼の運が悪いわけではなく、彼の能力が強力すぎることで起こったトラブルが大半だったことは、彼女にも伝えているのだが、いまだに納得はしてもらえていないのだった。
今回の火災を誘発させたことに関して、ツェドが捕まるのは解らなくはない。
しかし、ツェドを自分の手で警察に突き出すなんてことは、彼が仮に悪事に手を染めていたとしても、友人としては出来ない。
━━━━まあ、現場に放置して帰りはしたけども。
「ツェドって……あのクズ男のことよね?じゃあ、この子って…」
(あ……、それ、地雷ワードで…)
「待ちなさい。あなたツェドのこと今なんて言った?クズって言った?言ったかしら?……言った!!」
地雷を踏み抜いてしまった。
ツェドに異様な執着を見せるこの女子に、彼への誹謗中傷は地雷だった。
これまた何も知らないレンカさんは……。
「………ね、ねぇ、ルシェ。その子の属性って、ヤンデレ…だったり、メンヘラ…だったり…する?」
精神面の不具合を彼女に抱いたようだ。
ヘラっていると言われれば、ヘラっている。
病んでいると言われれば、病んでいる。
だが、どちらもツェドが関わってきた時のみ発生する不具合。
アイツが関与しなければ、至って普通の……いや、訂正。
ちょっとニッチな趣味を持つ、変わった女の子なのである。
属性が何かと聞かれて、あえて答えにするなら……。
「えぇと……。━━━どちらかといえば、クーデレ……かな?」
「ツェドを……。ツェドをクズ呼ばわり出来るのは、あたしだけの特権なんだからぁぁああ!!」
ただ先ほども説明した通り、いざツェドが絡むと大変面倒なことになる。
ここで言ってしまおう。彼女は恋する乙女であり、同時に……。
━━━━ツェド依存症であると。
「ど、独占欲の獣だわっ!?ねぇ、ルシェ!?これ私の知ってるクーデレじゃないわよ!!ただの依存症地雷女よ!?」
「あー!やっぱこうなったぁー!!冷静になってくれよ、スティア!ツェドが捕まったのは自業自得なわけで……!」
ここで俺は自分の言った内容が、この状況に最も不適切であったことを理解する。
だが、言っちゃったし、聞こえちゃったなら━━━━仕方ないよな。
「━━━━━なーんだ、やっぱり関係があるんじゃないですか。二クロフ先輩……」
(ば、バラシテモータ……)
ツェドと接触していた。
彼が捕まった件に関わっている。
彼の捕まった理由を、知っている。
それが彼女に気づかれたことで、事態がこじれるのは確定した未来だった。
「先輩!!だったら教えてくださいよ!どうしてツェドを務所にぶちこんだんですかぁぁあ!?」
「まてまてまて!お願いだから前後に揺らさないでくれ!頭が!頭が、ぐわんぐわんするからっ!!」
怒り心頭の彼女は、涙をいっぱいに貯めた目でキッっと睨み、俺の両肩をゆっさゆっさと激しく前後にシェイクした。
レンカのように武力を持って脅されるのもキツイが、彼女のように脳をシェイクされるのも十分……あ、ヤバい、なんか気持ち悪くなってきた…。
「なんで、なんで、なんで、なんでぇぇぇえ!?」
涙ぐむ彼女は継続して、俺の脳に致命的なダメージを与えてくる。
これはなんとしても逃げなければ!でなけりゃ、ここ一帯が俺のゲロまみれになっちまうッ!!
俺の尊厳と、何より彼女を汚物まみれから守るため。俺は継続し、説得を行う。
「ツェドはぁぁ過ちをぉぉ犯したんだぁぁ!だからぁぁ捕まったぁぁ!!」
「ウソですッ!ツェドはクズだけど犯罪するほどクズじゃないもんっ!!でもクズだけどぉー!!」
(いや、クズなのは認めるんかいッ!!)
だめだ!やはり、俺の言葉では彼女には届かない!
なぜか昔から俺に当たりが強い彼女に、説得という方法は不可能ッ!!
穏便に事を済ませるなら、手荒な真似はしたくないけども…。
「━━━━ルシェの言ってることは本当よ。それと、早くそのシェイクを止めないと、ルシェの飛散物があなたの綺麗な顔にかかっちゃうわよ?」
悩める俺の思考に入り込んできたのは、ジュースを飲み干して待ったをかけるレンカさんの声だった。
泣いて目を腫らした少女は、じとりとした目をレンカに注ぎ、ぶっきらぼうに語った。
「なんですか?関係ない人は黙っててくださいっ!」
一方、レンカさんに止められて脳の攪拌が低速へと落ち着いた俺はというと……。
「レぇぇンんんカぁぁ!?ぶぁぁれぇぇあぁぁ……!」
活舌がイカれてしまっていた。
「なに言ってるのか聞き取れないわよルシェ…。口閉じてないと舌噛んじゃうわよ~?」
缶ジュースを飲み上げたレンカは、空き缶入れへと缶を入れながら、そう答える。
彼女なら説得できるかもしれない…と一瞬思いはしたが、初対面であるこの子をレンカが言葉で懐柔することは難しいかもしれない。
だが、少なくとも最初から聞く耳を持たれていない俺よりは、会話が成り立つはず…。
「はぁ、関係なくはないわ。あの時、あのクズが捕まる前にわたしはアイツと戦ったもの」
「またクズって…!……えっ、聞き間違い…だよね?戦ったって……ツェドと、あなたが??冗談でしょ?」
少女は、あっけらかんとした面持ちで彼女の言葉を待った。
「冗談じゃないし捏造話でもないわ。もちろん、あのクズが火事の被害を広げたこともね」
「火事を広げた……?ううん……っ!ツェドはそんなことしないっ!きっと人助けしたりして、結果的にそうなっちゃっただけなんでしょ?そうなんでしょ!?」
少女は動揺を隠すこともしていなかった。
感情をむき出しにし、唇を噛み締め、俺を揺すっていた手の動きは停止していた。
その様子を見て、レンカ続けて紡ぐ。
「確かに人助けもしていたわ。子供を火災現場から救い出していたわね」
「ほら、やっぱり!ツェドは犯罪者なんかじゃない!悪いことなんてなにも……!」
「その後で、その子供を殴って失神させた。子供の母親や、救助のお礼を言いに来た消防士さんたち。みんな同様にね」
「━━━え?」
彼女の口から語られた事実に、少女は言葉を失くしていた。
信じていた存在。信じていた可能性。
それらをバッサリと、否定される結果で告げられたのだから。
「だから、わたしは止めようとした。でも、わたしの攻撃を逆手にとって、彼は火事を手の付けられない規模にまで広げたわ。━━━━ここまで聞いても、あなたは彼が悪いことをしていない。罪はないって言いきれるの?」
「━━━━━━。」
ぎゅっと、口を締める。
瞳からほろりと、涙が声なく零れ落ちた。
俯きはしなかった。
レンカの目から、視線を逸らしはしなかった。
けれど、彼女の手は。
俺の肩にかかった彼女の手は。
心なしか、震えているように感じた。
「スティア……?」
彼女の両手が俺の肩から、するりと落ちるようにして離れる。
━━━━暫くの沈黙。
心の整理。あるいは、その短くも僅かな時間は、疲弊した心を慰めていたのだろうか。
「つぇどぉ……」
囁くように。ここにはいない彼に、送るように。
蚊の鳴くほどの小さくも弱弱しい声で、彼女は涙した。
レンカに向けられていた視線は、重く沈み行き、地面へと落ちる。
目を離し、視線を移した行動は、ツェドの行為を正しい考えで受け止めたという心の表れなんだろうか。
ぐしゃぐしゃになった感情で、絞り出した彼女の言葉に、レンカが動いた。
ゆっくりとこちらに……。いや、俯く彼女に向かって歩き始めていた。
そして、一言…。
「あなた、彼のことが好きなんでしょ?」
直球。
それも、センチメンタルになった今の彼女へ容赦なく。
「━━━━━━!?そ、そんなことっ!!」
突然やってきた投球に、まごつきながらはぐらかす。
否定したところで、いまさら感は否めないのだが…。
想い人を特定、指名されて面食らい。そして、苦し紛れの言い逃れ。
恋する女子には避けられない、もはや条件反射のようなものなのだろうか。
ぽうっと、頬を染めて赤面する彼女へ、レンカは「ふふっ…」っと一瞬だけ悪い顔をした。
彼女は楽しんでいる。
困った恋する女子を見て、確実に楽しんでいる…。
それでも、レンカは真面目に。努めて真面目に…。
さながら、恋愛相談を聞いた。ひとりの友人のようにアドバイスの言葉をかけた。
「ふーん、それなら……。好きなんだったら、待っててあげたら?あの人が、いつ出てくるのか分からないけど…。待っててくれる人がいるってことは、とても幸せなことだと思うから。━━━━あなたが彼のこと好きじゃないなら、話は別だけど…?」
(あ、また悪い顔したぞ。あのカウンセラー!)
まるで彼女を試すように。
彼女の本気を見定めるように。
少し挑発的に、悩める女子の背中を言葉で押した。
「━━━━え……ええ!ええ、そうねっ!別にあんなクズのこと。これっぽっちも、全く何にも、ぜんぜーん思ってないけど!……待ってやるくらい…は。して、あげようかな…」
顔を赤らめながら、涙を落とす、恋する少女。
たとえ愛は若干重くとも、その分だけの気持ちが、想いとしてたくさん詰まっているのだろう。
気持ちにウソはついても。恋心までは欺き、否定はしてほしくない。
心に芽生えたその想いは、きっとかけがえのないものなんだから…。
「ふふっ、愛情と愛嬌は女の子の一番の武器だからね。そ、れ、に~?処罰が軽くなって、案外早く帰ってきたりもするかもしれないわ?あの人は、誰かに操られてたんじゃなかったっけ?ねえ、ルシェ?」
レンカが、ニヤつきながら急なパスを出してくる。
目で、最後はお前が決めろと囁いてくる。
あたりまえだ。ここまでお膳立てしてもらっておいて、ムリなんて言葉は返すつもりはない。
「あ…、ああ!あの時のツェドは、普段とは明らかに違って様子がおかしかったからな。それも十分にあり得る。あと今回は、幸いにも被害が家屋一棟の全焼……は被害がデカいけど…。飛び火した家屋は、消防隊らの消火活動の貢献、ならびに迅速な避難誘導が功を奏したみたいで、早い段階で鎮火されたらしい。で、ツェドが殴った……ごほん。火災現場で負傷した消防隊員も打撲程度で済んでたようだから、多分そこまで…。あぁ、うん。重い罪にはならない…はずだ!アイツ、一応、救助活動もしてたことだし…」
火災後の状況を自分で言っていて、雲行きが怪しくなってきたものの、何とか説明にはなった。
あれだけ飛び火していて、それだけの被害で済んでいるのは消防隊の活躍。それに、あの貴族風な人が尽力してくれたおかげだろう。
だが、彼のことは新聞の一面にも記載されていなかったが…。ん?レンカが耳を貸せと言ってる?
『ちょっとルシェ!あなたに話を振ってはみたものの、わたし聞いてるうちに怖くなってきたんですけど!あのクズ、割と規模大きめのやらかししてるじゃない!間違いなく、罪も軽くはないわよ!それだけやって、軽い罪で釈放はないわよ!?』
『仕方ないだろ。新聞に書いてあった情報と、実際の現場状況がそれなんだから!それに、お前も原因の一因には含まれてるんだからな?あの時、挑発に乗ってツェドに……』
『ねぇ!!それは言わないって、あの後に約束したでしょ!?それ言われたら、わたし何にも言えないじゃない!!負い目、感じちゃうじゃない!!』
おっと、こちらも泣きそうになってしまった。
頼むから堪えるんだ…。お前まで泣き出すと収拾がつかなくなる…。
ツェドは暴れまわっていたが、たしかに初めは人命救助も行っていた。
本当に彼が操られていた中でそれを行っていたのだとしたら、本当に大したものである。
「そ、そう…。そうなんですね…。ツェドは自分の意志で、やったわけじゃないんですね…?はぁ……よかった。……本当によかった。……ツェドは普通のクズだったんだ…」
彼女は再びポロポロと涙をこぼし、今度は嬉しそうに笑顔も溢した。
ツェドに少しだけ、妬いてしまいそうになる。
彼のことを想い、彼の為にここまで涙を流す彼女を、心から素敵な女性だと俺は思っている。
だからこそ俺は…。ツェドが帰って来た時には、精一杯の拳を彼に贈ろう。
こんな一途な子を、泣かせて待たせた責任は重いぞ、ツェド。
━━━━━ん?それにしても普通のクズって……なんだよ。
「ねぇ、ルシェ?」
「うん?」
「それで、この子は誰なの?」
そうだった。
流れに流されて、忘れていた。
彼女たちは初対面だった。
「ああ、紹介す……」
「先輩は黙っててください。自分で名乗りますから」
「あ……う、うん」
やっぱり当たりが強めなんだよなぁ…。俺に…。
「さっきは取り乱しちゃってごめんなさい。あと、ありがとう…。えと、あたしは、スティア……。スティア・フリューゲル。あなたが会ったツェドの幼馴染で、そこの先輩の…。一応…………後輩です」
━━━━━なんだその苦汁をなめたような顔は。
「すごく嫌そうだな!?いやいや、一応って…!同じ学校の同じサークルだったろ?魔物研究会の…」
「それは先輩が中途加入してきたから、そんな関係になったんじゃないですか!私は元々、中等部の一年の頃から魔物研究会だったんですよ?なのに、変な時期に先輩が入って来たせいで…!なんで、高等部の三年生から入って来るんですか!?バカなんですか!?」
「バカとはなんだ!バカとは!!一応、俺は先輩だぞ~!」
「うわー、こんなにまで先輩風吹かせても無風なのは世界でも先輩くらいですね~!!先輩には、先輩としての威厳の破片すらも感じられませんよ。あっ、まさか全部粉々に割れちゃってるんでしょうか~?」
「…ってん…めぇぇえ!?せめて威厳の欠片にしろよな!!あと、破片になってるってことは、割った犯人お前だろ!?」
昔から生意気な後輩ではあるが、見ないうちに更に生意気さに磨きがかかっている気がする。
学生時代は口論も絶えなかったが、こんな煽り散らかす彼女も俺としては可愛い後輩の内の一人なのだ。
悲しいことに向こうは全然、これっぽっちも、なんの感情も持っていないのかもしれないが…。
と、ここでレンカが……。
「同じ学校…。あのさ、ルシェって今年で何歳になるの?」
「え?俺か?今年の7月で、20歳になるけど……それが?」
「てことは、スティアちゃんってわたしと年齢近い?」
「……う、うん。…かもな?」
そういえば、レンカは女子高生とか何とか言っていたっけか。
じゃあ、スティアとも……。
「━━━━わたしは、クロガネ・レンカ。今は17歳だけど、今年で18歳になるの。……もしかして、同い年だったりする…?」
首を傾げて質問をするレンカに、スティアは驚いたように言葉を返す。
「あ、あたしも、今年で18歳になるんだけど…。その、レンカちゃんは、女子高生…ってことなのかしら…?」
「うん、そうだけど…」
「そう、なんだ……?」
「━━━━━━━━。」
「━━━━━━━━。」
━━━━━━なんじゃ、この間は……。
俺の予想では、『同じじゃーん!よろしくー!』みたいな。
女子高生特有の、テンション高めなノリが出てくるものだとばかり思っていたが。
事態は想像よりも……。深刻極まるのか!?
もしやここは、年長者の俺が一肌脱いで場を和ませるしかないのかもしれない。
なにが起きているのか、さっぱり分からんが。今、俺が!動くしか!ないのでは!?
「ま、まあまあ、二人とも…。積もる話はあるかもしれないけど、本日のところは……」
「「ねっ!これから、どこかランチに(遊びに)行かない!?」」
「━━━━━なんだって?」
何かが始まる予感と、状況についていけてない脳の処理。
彼女たちの間で、何かが噛み合ったことだけは理解ができた。
二人は何とも息ピッタリに顔を見合わせ、ハモリを効かせながら互いを誘い合った。
その様子を、ぼーっと立ち尽くして見守ることしか出来ずにいた俺…。
言葉が交わされなかった、あの無言の数秒間に一体何があったというのだ…。
テレパシーか?念話で会話ができるのか?
今どきの女子高生という生き物は!?
「いいじゃんそれ!あっ!あたし美味しいパスタ屋さん知ってるんだけど、良かったら一緒にどう?」
「行きまーすっ!あとあと、ランチが終わったら、スティアちゃんが提案してくれた所にも遊びに行きたい!!」
「任せてちょうだい!あたしがレンカちゃんを最高のデートに招待してあげる!それじゃあ、さっそく行きましょうよ!」
「うん!いこー!!」
「あ!ねぇ、レンカちゃんって珍しい名前してるけど、ひょっとすると彩雅京から遊びに来たの?あそこの人の名前とよく似てるけど」
「ううん、おしいけど違う。京は京でも、わたしの出身は東の京だから━━━━」
きゃっきゃと楽しそうに並んで、はしゃぐ女子二名。
会話に花を咲かせながら、とんとん拍子に話が進んでいく。
あれよあれよという間に……。
あっという間に、二人は街の人込みへと消えて行ってしまった。
「━━━━━━━━。」
なんだろう、この寂しさ……。
一人残されるというのはここまで寂しいものなのか…。
━━━━ごめんよ、ツェド…。
あの時、置いて行かれたお前の気持ち。いま初めて理解できたよ…。
切なさに唇を噛み締め、不貞腐れつつも、設営準備のために俺は店へと戻るのであった。
「あ…。レンカにお金持たせるの忘れてたな…。まあ大丈夫か。あの子、お嬢様だもんな…」
デートから帰って来たレンカは、この後スティアの素性を知ることになるのだが…。
これは次回に話をするとしよう…。俺もテントの設営で午後は忙しいからな…。
「ただいま父さん。テントの設営の件なんだけど」
てなわけで、店に戻って来たんだが…。
まだまだ店内は賑わってるな……。あれ、これ大丈夫か?
「━━━━おう、おかえりルシェ!悪いけど、父さんちょっといま手が離せなくてな?」
「━━━━えぇ?」
人でごった返し、混雑する店内。
スタッフの数も足りない程の盛況っぷり。
父がこれから言うであろう、その言葉…。
この雰囲気、とんでもなく悪い流れを感じるんだが……。
「作業内容も、そこまで難しいことはないだろうし…」
まて、まってくれ!もしかして俺一人で設営をする…。なんてことはない…よな…?
きっと他の従業員にも声かけてるよな!?
なぁ!そうだろ、父さん!?
父は、俺の肩にポンっと手を置くと、頼もしいほどの笑顔で…告げた。
「ルシェ。━━━━━ま か せ た !」
「━━━━━━。」
うん、だろうと思った。
━━━━━━レンカぁぁぁぁ、カーームバーーーック…!!!
後輩と遊びに行ってしまった、彼女の名を俺は心の中で叫んだ…。
拝啓、レンカさん。
あなたは、今どこで、どうお過ごしなのでしょうか?
こちらは……はい。
割と、ピンチだと思います。
お早いお戻りを、お早い御帰宅を、何卒……。
かしこ。
「━━━━くっしゅん!……あれ?わたし、誰かにウワサされてる?それとも花粉?」
「んー、なにかに憑りつかれてるんじゃないの?例えば、気持ちの悪い先輩の生霊…とかね?」
➡Continue on Next……
◇◇◇◇
「ただいま~。ごめん少し遅くなった」
ようやく本日の業務が終わり、月明かりなき夜道の中、私は帰宅した。
今朝も、カフェ ミストで燃料補給を行い出社をしたが、いつも以上に良い仕事が行えたように思える。
それも、あのメイドさんのおかげなのだろうか。
まだ二回しか彼女に遭ってはいないが、彼女の人柄のせいか、旧知の仲のように談笑できる間柄となっていた。
客と店員ということは理解しているが、世代を越えた友人というのも悪くはない。
「ん、まだ帰っていないのか?」
時刻は、すでに22時を回っている。
妻は、まだしも、娘はとっくに学校から帰宅していると思うが…。
なぜか今夜は、不自然なほどに家の中から人の気配が感じられなかった。
二人で出かけているのなら良いのだが、どうも妙だ。
寝ているにしても就寝時間には少し早いし、玄関や廊下など電気も点けっぱなしだった。
家族で誰よりも節電を心がけている妻のことだ。
電気を消さずに外出…なんてことはありえないだろう。
何か得体の知れない気持ち悪さがあった。
抱えた気持ちを胸に、とりあえずリビングの扉を開いた。
「いない…か。…ん、料理の匂いはするな…」
リビングには誰もいなかったが、キッチンの方から美味しそうな匂いが漂って来ていた。
今晩は、ビーフシチューとパンを焼く…と言っていたが。
「これは…カレーだな…。うっかりして間違えたのか?」
間違えたから食材を買いに、こんな夜遅くに出て行った?
いや、妻の性格からして、間違えたのなら素直に告げて作り直したりはしないはずだ。
ではなぜどこにも……。
━━━━━━ガタガタンッ…!
「!?」
びくりと身体が反応する。
重たい何かが倒れるような、崩れ落ちるような音が、二階の方から聞こえた。
よく娘が自室で物を落としたりはしているが、そんな軽い音ではなかった。
━━━━━━とても嫌な汗が、背中を伝う…。
「━━━━ッ!!」
良くないことが起きた、いや、既に起きている。
そんな悪い考えが濁流のように押し寄せ、心を飲み込んでいく。
ごくりと、生唾を喉の奥へ押し込む。
震えて硬直する足を何とか動かし、もたつきながらも廊下へ駆け出した。
「上、だったな…」
二階へと続く階段を見上げ、悪寒が走った。
再び足は、その場に根を張ろうと企てる。
初めての感覚だった。
階段に恐怖を覚える。この感覚が…。
深呼吸、続いて目を閉じる。
瞼の裏には、愛する家族の顔が浮かぶ。
その浮かんだ表情。笑った笑顔を思い出し。
覚悟が決まった。
「行こう…」
勢いに任せて、二階への階段を駆け上がる。
深呼吸をしたはずなのに、階段を上がる前から私の息は切れていた。
呼吸が荒いのは不気味に感じ始めたからでも、運動不足なんかでもない。
本来、心を休めるための憩いの我が家。
それが、今は心をすり減らしてくるだけの、魔の空間になり果てている現実。
このことに、脳が適応できていない為であった。
「はぁ、はっ……。━━━━━あそこは…」
呼吸が浅くなりながらも二階へ登ると、奇妙な状態で娘の部屋が開いていた。
開き方が通常とは、どう見ても異なっている。
部屋を、部屋たら占めるための仕切り、開閉するためのドア。
それが綺麗に、消えていたのだ。
おかしい。なにかがおかしい。
拭えない不安感と恐怖心を煽るように、私の鼓動が高鳴っていく。
だが、確かめねばならない。
音の原因を。
そこで何が起きているのかを。……そして、家族の安否を。
「すぅ……はぁ……」
もう一度、深呼吸を行い自身をなだめる。
おかげで、考える余裕が生まれた。
何かあったとしても、私に取れる行動は限られる。
だが、家族を守るのが一家の大黒柱としての、父親としての使命だ。
「愛情……だな」
メイドさんからの言葉を思い出す。
愛情は最高のスパイスだと、彼女はそう言った。
それは言い換えるなら、最高のスパイスは愛情なのだ。
家族への愛情、私の武器はこれだけで十分だった。
「━━━━━━ッ!!」
勇気と愛情を振り絞り、私は勢いよく娘の部屋へと駆け込んだ。
━━━━━━失敗だった。
「あ、あああ、はぁ…あ、あ…」
入らなければよかった。
勇気なんて出さなければよかった。
「━━━━━━━━━━。」
言葉は出なかった。
声をかけられる距離に、手の届く距離に、彼女たちは居た。
だが、妻の名前はおろか、娘の名前すらも口にできなかった。
あまりに非情であり、あまりに現実味のない光景。
しかしながら、眼前に現れたそれを私は無視できなかった。
これは愛情であり、同時に、守り切れなかった家族への懺悔でもあったのかもしれない。
「ごめんなぁ……お父さんも、お父さんもそっち、行くからぁ……」
━━━━━━私は、ここで自分がわからなくなった。
◆
■
◆
■
「本日未明、シンフェミア第九地区の民家二階にて、一家三人が首を吊って亡くなっているのが発見されました。警察は、一家心中の疑いを強めて捜査に当たっていますが、近隣住民の話によると家族間のトラブルとは無縁な仲睦まじい様子が語られており、当時の状況と詳しい事件経緯の解明が求められています。なお、遺体の肌には共通して不自然な光沢感があり……」
━━━━ブツンッ!
テレビを切ったのは私ではなかった。
メイドのジェシカでもなければ、執事のロベルトでもない。
ならば、答えは出ている。
「父上、また…ですか?」
私はソファの上で、不服そうな表情を浮かべる実の父に問うた。
「また…だと?……おい、なんだその顔は。父親に向かってなんて顔をしているッ!……聞こえているのなら早くその顔を止めろッ!トゥエルノォッ!!」
どうやら父の逆鱗に触れたらしい。
しかし、私の限界も臨界点に達しようとしていた。
「失礼ですが父上。幻燈祭が近づくたびに無辜の民たちに、あのような行いをするのは、どうか控えて頂きたい。それでも、貴方はシンフェミアの市長なのですか?」
「舐めた口の利き方だな!トゥエルノッ!!……ああ、思い出した。聞いたぞ、トゥエルノ。お前、次の当主が自分だからと最近は調子づいているそうじゃないか……んん?先日のボヤ騒ぎでは一躍買ったんだってな…」
「━━━━━━。」
父は足元に敷かれた白い絨毯の上に、手にしていた赤ワインをわざとこぼし始めた。
ワインは絨毯の上で飛び跳ね、父の服やソファにも飛び散りかかる。
それを目にしたメイドたちは、ワインが零れ落ちるや否や掃除の用意を開始する。
一人のメイドは床を拭き、一人のメイドは絨毯のシミを取り始める。
また一人のメイドは父の服を拭き始めた。
「拭き方がなってないな…。おいメイド。ここだ。ここを拭け」
父の発言の後、服を拭いていたメイドがビクリと身を震わせた。
叱責よりも恐ろしい地獄が、この先に待っているのを予見したからだろう。
「で、ですが、旦那様……そこは…」
メイドは、なけなしの勇気を使い、声を絞り出す。
その言葉からは、拒否の意思を感じ取れる。しかし…。
「なんだ?拭けんのか?わしの服が拭けんとそう言ったのか!?メイドの分際で、わしに意見したのか!?…………拭け。拭けと言っている」
この男には感じ取れない。
人の気持ちや想いは、何一つ感じ取れないのだ。
「……あぁ、あ…」
「拭けば今の発言は、聞かなかったことにしてやる。だが拭けんのであれば………わかるな?」
父は彼女に、それを拭く以外の選択肢を与えなかった。
メイドは顔を曇らせながらも、言われるがままに父の下腹部を拭く。
服の上からではあるが、それは女性にとっては屈辱的な経験のはずだ。
「ぐすっ、ぐすっ……」
顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、光を失ったメイドの瞳には大粒の涙があふれ出ていた。
それでも手を止めることは出来ない。
止めればそこで彼女は消される…。
「げはは…げはははは!見えるか息子よ。これが市長の権限。わしだけの肩書きである!!当主なんて肩書きなんぞ、お前にくれてやるわい!…ただし、こんな便利な肩書だけは絶対に渡すつもりはない!……げははは、わしはこの都市の神なのだからなぁ!!げーははははっは!」
「━━━━━━。」
市長。
なぜ、その地位にこんな男がいるのかは知らない。
市民にも良い顔ばかり見せている為、この男の本性を知る者は数少ない。
私利私欲のため、職権を乱用するこの男の行いは年々エスカレートしている。
最近では、こうして付き人にすら手を出すようになっている。
身内が蒔いた種は、身内で片づけなければならない。
あるいは、そろそろ熟しすぎた果実の収穫の時なのかもしれない。
━━━━━━そこに、良い実がなっていることは、なさそうだが。
「ああ…、いいぞ、気に入った…!……メイドよ。ついてこい!これは命令だ」
男は興奮気味に、ソファから立ち上がる。
「えぇ……い、いや!やめて、いやだ!ごめんなさい、ごめんなさい!」
謝り続けるメイドの腹部に手を回しながら、男は本当に不思議そうな顔をして彼女に聞く。
「なにを謝る?わしの精を注がれる名誉なぞ、名誉市民に他あるまい!!」
男は脇にメイドを抱え、自身の寝室へと向かう。
これは、もはや見慣れた光景であり、この男の悪癖だ。
抗う姿勢を見せない、従順なメイドならそこに介入の余地はない。
しかしだ、拒否の姿勢を終始取り続けていた彼女なら━━━━━救える。
「暴れるな、暴れるな。げはは、活きがよくて結構だ!今日のメイドは、マグロではないみたいだな!げははは、たーっぷり楽しめそうだぁ…!」
じゅるりと口を拭い、メイドに欲情する男。
がっちりと掴まれた彼女は、もう逃げることが出来ない。
これから始まるのは悪夢。
覚めることのない、永遠の地獄。
地獄のような悪夢に堕ちる、その前に。
「いやぁあ!!たすけてぇ!!だれか、おねがい…!おねがいよ……。━━━━たすけてよっ……」
戻れなくなる、その前に……。
「━━━━━━じゃあ。私が助けるよ」
「え…?」
━━━そのとき、焔を纏った一羽の鳥が室内を舞った。
その鳥の翼毛に触れたものからは熱を奪い、その鳥の息吹を浴びた者は熱を帯びる。
今回のケースは、もちろん後者だ。
「は、あぁあ!あぁああ!?わしのぉ!わしの身体がぁ!!??」
燃える。
頭から始まり、肩、胸、腰と。順に発火していく。
燃えているのは男だけ。
小脇に抱えられたメイドには、火の粉の一つとして降りかかりはしない。
「リリース…」
「ぁぁあ、ああっぁあ、ぐぁぁああああッッ!!!???ッ!!!トゥエルノォォォオッッ!!お前ェ!ヨクモォッッ!!!」
父だった男の身体は、勢いを増し燃え盛る。
その傍らに抱えられていたメイドは、男から放り投げられて床に尻もちをつく。
何が起きたのか、状況を飲み込めていないメイドは、男と私を交互に見た。
そんな彼女を手招きし、私はこちらに呼び寄せる。
「━━━━━!!」
私が出した合図の意図を、理解したのだろう。
メイドは、腰を下ろしたままぎこちなく頷くと、四つん這いの状態から徐々に立ち上がり、私の胸元に勢いよく飛び込んできた。
「坊ちゃま……坊ちゃま…!!わたしぃ、わたしぃ……!」
「怖かったね……。助けるのが遅くなって、申し訳ない。君に辛い思いをさせてしまったことについては、あの男に代わり、私から詫びさせてほしい。本当にすまなかった」
「いえ、いえ……!坊ちゃまが助けてくれなければ、私は、旦那様に……!」
張りつめていた緊張が解けたのか、メイドは、わんわんと咽び泣く。
「もう旦那様なんて、あの男に言わなくていい。それと、私のことを坊ちゃま…というのも無しだ」
「で、では、これからなんと、坊ちゃまのことをお呼びすれば、よろしいのでしょうか?」
すすり泣き程度にまで落ち着いたメイドは、きょとん…とした様子で私に問う。
すぐさまこの問いに答えてあげたいが、どうも先に先約が入っているらしい。
「トゥエルノォォォオ!!ユルサンンンンンッ!ユルサンゾォォォオォォッ!!ワシハ!マダァ……!」
火炎に身を焼かれ、すでに皮膚がただれ落ちた男は、筋肉の繊維がむき出しになった腕を前に、前にと伸ばして叫び喘ぐ。
身体が朽ちていく中でも、決して助けを仰がないのは自身のプライドの高さからなのか、それとも私が止めるのを待っているからなのか。
あの男が何をどう期待しているのかは不明だが、残念ながら彼の期待には沿えない結果となりそうだ。
(━━━━シャウト…)
私が右手を広げ、閉じる動作をすると、頭上を旋回していた赤翼の鳥は消失し、火炎に身を包んでいた男も、命の灯を消灯させた。
「━━━━━━━━。」
焼け焦げた男からは、パチパチと残り火が火花となって、塵と共に空気中へ散って逝く。
男は灰になった。
これで今まで虐げられてきた者達の魂が、浄化されたとは言い切れない。
それでも、火花奏でるこの音色が、僅かながらの鎮魂歌になっていると幸いだ。
「坊ちゃま、ありがとうございます。わたくし共一同、心より貴方さまに感謝を…」
室内のメイド、執事が一斉に私を囲うようにして傅いた。
「皆、どうかやめてくれ。頭を上げてくれて問題ない。もう私は坊ちゃまじゃないんだから」
「それでは、なんとお呼びいたしましょう?」
執事のロベルトが目を閉じたまま私に質問をする。
瞼は、開くべき、その時を待っていた。
私がこれから紡ぐ言葉を聞き届けるため。
次に瞼を開けた時、仕えるべき相手を瞼に焼き付けるために。
「坊ちゃま…?」
胸の中のメイドが不思議そうに、顔を見上げて私を呼ぶ。
ああ、彼女を先に待たせていたんだった。
ならば、彼女の……いや、彼女らの言葉と意志に私は応えよう。
「━━━━━━私は、十八代目当主でも、シンフェミア市長でもない。……私はトゥエルノ・ランス。君たちを……。シンフェミアの市民を誰よりも愛する……ただの貴族崩れだよ」
➡Continue on Next Page
今月も、ご一読頂きありがとうございます。
今回から新しい章に入ります。
幻燈祭というお祭りに参加をするお話にはなりますが、主軸としては『想い』をテーマに描いていきます。
さて、まだ祭前日にはなりますが、新たな登場人物も何名か出てきましたね。
さあて、祭最終日までに生き残れるのは一体何人なんでしょうか?
お父上さまも本当に、くたばったのなら幸せですね。
そのあたりもモヤモヤさせながら、あらたな物語を楽しんでいただけますと幸いです。
では、今回の後書きはここまでです。
次の更新は、次月となりますのでよろしくお願いします。
それでは、またご縁がありましたらお会いしましょう。