Page:01 天使か、女神か?いいや…オタクだッ!?
家業のカフェを手伝う青年『ルシェード・ニクロフ』は仕入先のオルマナ農園へ向けて馬車を走らせていた。その後、取引を終えた彼は帰路へと着くさなか、突然の魔物の襲撃に出くわしてしまう。命からがらその場から逃げ延びた彼を待ち受けていたのは更なる災害と異世界からやって来たと言い張るコスプレ姿のオタク少女で━━━━!?
■当時、彼女と初めてお会いした際の印象は?
「そうですね。あの時は状況が状況でしたので、まるで天使のように思えましたし、実際神々しさ的には女神でしたよ。うん、あれは紛れもなく神…。あ、いや、あの場合は彼女風に言うと竜騎兵って言葉の方が場面として合っているとのことですが。まあ、僕ら一般人にはあまり馴染みのない言葉ですし、真偽のほどはわかりませんけどね…?」
■はぁ、女神……ですか?
では、初対面の時と比べて、現在では何か印象の変化などはありましたか?
「あぁ…うん。そうですね…。なんと言うか、上手くは言えないんですが…」
「━━━命を救ってくれた“キモオタ”って辺りじゃないですかね?」
***
【神廻歴4201年3月8日】
【AM 9:26 ヒカゲ小路 南東】
━━━━どうやら聞いた話によれば、小鳥達が毎朝一生懸命に声を張り上げ、あちらこちらで囀り散らかしているのは、自身の縄張りを早朝から確保するためなんだとか…。
そんな雑学を思い出しながら、まっすぐ視線の先。
まるまるとした容姿で枝をしならせ、自分の存在を大声で主張し合う頭上の小動物たちに、俺は目を留めていた。
(そうか、彼ら鳥にもカースト制度や社会性のようなものが存在しているのか…)
ふと頭に浮かんだ心の呟き。
そいつは、できるだけ普段からあまり考えないようにしていた、目を背けたくなる現実とこれからの将来を俺にリマインドさせるには十分すぎる要因だった。
まさに墓穴。自身で自分の首を絞めるなんて、愚かにもほどがある。
「はぁ、俺は小鳥に何を重ねてるんだよ…まったく」
あれは、あくまでも彼らの生きている社会。
俺たちが生きている環境とは前提として異なる。
しかし、あんな小さな彼らでさえ自分たちの意志で発言し合い、自由に行動を取り、野生という厳しい環境を日々生き抜いている。
そんな彼らを見ていると、どうしても俺自身の方が矮小でちっぽけな存在に感じずにはいられなかった。
かつて叶えたい望みは、確かにあった。
それも叶わぬ願いだと。挫折し、いつしか諦めた今の俺には、夢や目指すものも特になく、ただ惰性に毎日を同じように繰り返すだけの暮らしを送っていた。
そんな怠惰な生活を過ごす、自分の真上にある小さな世界。
絶賛、場所取り合戦を繰り広げている勇敢な彼らには、どうあがいても俺という人間は敵わないだろう。…と、感傷的になりつつある俺の心に突如として、それは訪れた。
「クゥイイィーン!」
「ぅえぇっ!?あっ…ぶなっ!!」
天に目を奪われ、意識も心も小鳥たちに持って行かれていた、前方不注意状態極まりない俺に、大きな振動と衝撃が何処からともなく降りかかる。
その小さな災害は、俺の駆る芦毛の荷馬が前方に出現した障害物…もとい、立て札をギリギリで回避した際に起こってしまった余波のようなものだった。
街道を行く者へ向けた周辺案内の立て札。ようするに、周辺地図。
見るところ、欠けや破損など破壊してしまった様子も特別なく、馬の機転のおかげで直接的な衝突は何とか免れたようだ。
「た、助かったよ馬ぁ~」
「ブルルアァ!」
俺の感謝に応えるように名も知らない馬は誇らしげに鼻息混じりの鳴き声を上げる。
その嘶きには、何となく注意力散漫だった御者へのお叱り言葉も含まれている気がしないこともない。
(単にお腹が減ってるだけかもしれないが…)
「そ、そうだよな。今は仕事に集中…だよな」
鳥に影響され、今度は馬から促されて、もはや精神衛生上的には十分問題を来たしてはいるが、今は優先すべきことが他にもあったことをようやく思い出す。
そう、俺はここに仕事で来ているのだった。
「確か、住所はこの辺りだったような…。えーと、白い屋根の……あれか!」
春の穏やかな風が馬車を駆る俺の肌を優しく撫でる。
緩やかな傾斜に舗装された道を駆け上がり、俺は目的地の到来に心を躍らせた。
随分と久しく訪れていなかったためか、道中の装いは変わりはしたが、この香りと気持ちはあの頃のままだった。
小道の所々で差し込む木漏れ日に影を落とし、街道沿いからはみ出した青々と生い茂る林を抜けると、そこには目指していた懐かしき光景が広がっていた。
「━━━━着いた。オルマナさんのコーヒー農園!……何度見ても圧巻だよなぁ」
赤く熟れたコーヒーの実が、所狭しと、辺り一面に実った今回の目的地。
“オルディマーナ農園”が250万ヘクタールという驚異の敷地面積ぎっしりに植えられた、コーヒーの木々と共にその広大さを覗かせ、俺たちを盛大に出迎えた。
「━━━━さて、仕事だ…仕事…!」
大きく深呼吸をして気合いを入れ直し、観光気分から仕事モードへと気持ちを切り替える。
同時に馬の手綱を握る手にも自然と力がこもった。
その気持ちが手綱越しに馬へと伝わったのか、彼女も木々に覆われた道を軽快な足取りで駆け抜ける。
コーヒーの木々とすれ違う度、咲いた花から香る甘く爽やかな匂いに、父と昔ここへやってきた時のことを思い起こさせる。
この華やかな香りは花の咲く短い時期にしか楽しむことは出来ない。
それを知らなかった幼き日の俺は、同じ木なのに、花と生成されたコーヒーの香りが違うのは何故なんだろう…と、ここに来るたびに疑問に感じていたっけか…。
ま、何はともあれ。俺が今回、このコーヒー農園へとやって来たのは、とある仕事の為に他ならない…って、あれ。今どこか見覚えのある人いなかったか?
鼻孔を幸せにする花の香りに、うっとりと。うつつを抜かしているところに、視界で誰かを抜かしたことに気づいた。
「あら、ルシェード君じゃなっ…」
「!?いまの……オルマナさん!?」
馬と共に…そう!
正しく、人馬一体となり。気持ちよく風を切って駆け抜けていた俺は、農園の片隅でコーヒーの実を収穫している最中だった婦人。
今回の旅における探し人、オルマナさんの横を、勢いよく、全速力で通り過ぎたのだった。
「………。まって、まって!止まってくれ、馬ぁ!!通り過ぎてるって!いたからっ!そこにオルマナさん、いたから…!」
直ぐに引き返すようにと、馬へ体全体を使い説得を試みる。
だが、身振り手振りを入れてアピールした所で、彼女には当然見えていない。
実際は、するだけ無駄な行動で意味が無いんだろうけれど、自然と身体も言葉と連動して動いてしまっていた。
それだけ必死に伝えたんですよね。
でも…。
━━━━━━━あ、とまんないわ……これ。
アイヤー!?だめです!止まりませんっっ!!これ、止まらないやつです!!
(え、なんで急に言うこと聞いてくんないの!?さっきまで良い感じに仲良くしてたじゃん?あれ、反抗期来ちゃった?確かに、君の名前も知らないし、何なら今日の朝に初めて会ったし?そりゃあ、初見の男と遠征に行くのは無理やりデートさせられた感があって嫌だったのかもしれないけどさ!でもでも!絆は生まれつつあったって、心は通い始めていたんだって、確かに感じ始めていたよ俺!?まったく、ひどいじゃないか!!思わせぶりな態度して、ずっと一方的な片思いをさせられていただけだったってことなのね!?)
━━━━━━その瞬間。感情が昂る俺の脳内には、彼女と出会った馴れ初めの記憶が鮮明に蘇った…。
そう、あれは荷車を引くために、近くの馬小屋で馬を借りた時の事だ。
実際、つい数時間前の出来事なのだが、今は何かそれっぽく語らせてほしい…。
つまりは、回想である…。
━━━━━いわゆる運命。
一目見た時から彼女には運命のようなものを感じていたんだ。
だって彼女は、馬選びの際に、じっ…と、こちらを見つめて一瞬も目を離さなかった。
その瞳は見つめているだけで、どこまでも、すぅーっと吸い込まれていくように美しく、そして魅惑的だったのだ。
彼女の真っ白な芦毛は、最高級のシルクを纏っているようであり、毛並み・毛艶も良く、それこそ夢物語に出てくる白馬にも引け劣らないものだった。
言わば、白馬の王子様とかソレ系が乗馬してるタイプのアレと遜色がないほどである。
『お客さん、そちらの牝馬にするんですかい?ただ、こいつは見た目は良いんですが、ちょいと問題も…』
『この子にします!!(食い気味)』
その雰囲気を直感的にビビッと、感じ取った俺は、彼女を即決で指名した。
特に指名料とかも取られなかったし、人間の女の子よりも遥かに良心的だ。
(別に何がとは言わないが)
指名後は荷車を馬と繋げ、料金を払い、店主から手綱を手渡された…までは良かった。
━━━今思い返すと、あれは俺が彼女の名前を聞いたことがマズかったんだろうか…。
『あ、ちなみにこの馬の名まぁ…ぅううぇーーーえぇえええぇぇぇ………!? 』
『おお、おきゃくさぁ〜ん!?どぉこ、行きますねぇ〜ん!おぉ、おつり!おつりぃ~!!』
(どこって!?いーやいやいや、知らないよ!分からねぇよ!てか、怖いよ!!??ほんとこれから、どこ連れていかれるのよ、俺!?)
おもむろに、唐突に、前触れもなく。彼女は走り出したのだ。……で、現在に至る。
とりあえず、途中で何とか進路の誘導は出来たが、ここに来て改めて彼女の性格を知ることになった。
「そっかぁ。初めから君はこういう女の子だったんだね!店主さんも何か言いかけてたし、ちゃんと聞いておけばよかったね!」
だが、セルフ回想で彼女への理解がより一層深まったことで、何かとても心の距離がグッと縮まった気がした。(一方的かもしれないけども…)
同時に脳内では不思議と嬉々とした気持ちが、止水栓の壊れた蛇口のようにドバドバと溢れ出す。
アクシデントに呑まれ、もしや俺は狂ってしまったのか…。
客観的に見れば、ネジが外れてしまっているのか…。
いいや、断じてイカれてなどいないはずだ。
この気持ちは…。このパッションは……!
━━━━━失礼だな、これは寵愛だよ。
「あっはっ!はっはははは…!」
「ヒィヒィィイーンッッ!!」
常々、崩壊と解放は、よく似ているなぁ…と思う。
あまり似ていないとの声も上がるだろうが、どちらも型という枠に縛られることなく自由な状態へ変化をすることを基準に考えれば両方とも……とても気分が良さそう。(虚ろな目)
「ふぅぅぅぅうううう!!」
不思議と春風も、ぐいぐい背中を押して……くれてはいないが。強いて言えば向かい風だが。
何かこう、俺たちさぁ?……いま最高に輝いている気がするよ!
━━━━━━━ん?
「ブッフフェウェッッ!?………は?」
「フンッ」
………あ、うん、そうだね。
おかげさまで着いたよ。
当初の目的地だった白い屋根の家までは、確かに着きました。ありがとう。
ああ、もちろん感謝しているよ。
でもさぁ。
━━━━━降ろし方ってそういうやり方しか本当に無かった?
「━━━━━。」
俺は白い屋根の家、オルマナさんの自宅の壁面に叩きつけられる形で無事…じゃなく、有事にて現着した。
つまりは、ええ。
急ブレーキをかけた我が愛馬に、ぶっ飛ばされたんです。
「え、あのぉ。骨とか折れてない俺?大丈夫?めっちゃアバラとか痛いけども…」
思いっきりぶつかった身体は驚きによるものか、または痛みからなのか、すんごい節々から悲鳴をあげていた。
それゆえ、やはり彼女にはどうしても聞きておかなければならないことがあった。
「ねぇ?…あれって、どういうことな…」
「フンッスゥ…」
鼻息で一言。されど、一言。
彼女の性格を知った今の俺には、そのやや食い気味な発言だけで十分に理解ができた。
(あ、そっか。俺、君からスゴく嫌われてるんだね…。だって、早く仕事済ませて馬小屋帰りたいって、態度と表情で訴えかけて来てるもの!馬選びの時も、気になるから見つめていたわけじゃなくて、普通に警戒してたから、凝視して観察を行っていたわけなんだね!?)
━━━━━━━えーと、何だろ、この気持ち…。
彼女の真意を本当の意味で理解した時。
俺の瞳から、ほろり…と一滴の何かが零れ落ちたことは、ここだけの話である。
◆◆◆
「━━━ルシェード君、なにを…してるんだい?」
「感じてるんです。痛みも哀しみも全てを包み込む、この母なる大自然を…」
「は、はぁ…?そ、そうかい…。」
オルマナさんは、自身の庭に仰向けで、開放的に横たわる俺を見下ろし、何とも言えない表情でそう応えた。
ああ、分かっているよ。憐れむような視線で俺を見つめるその理由も。
でも、でもね。今は少し一人にさせてくれないだろうか…。なんでだろう、心がね、さっきから痛いんだ…。
恋に破れた時のような、それでいて友を失った時のような、独特な感情に苛まれた俺は、少しだけ感傷的になっていた。
「それよりも良いのかい?さっき凄い勢いで走っていたけど、何か用事があって農園まで来たんじゃないのかい?」
話を振られた俺は、ぼーっとした頭を適度に働かせながら自身がここへ訪れた経緯を探った。
「え……あっ、そうでした。そうですよ!俺、コーヒー豆貰いに来たんでした!!」
急いで母なる大地に別れを告げると、慌てて飛び起きる。
そんな俺が面白かったのか、オルマナさんは微笑みながら口を開いた。
「そうだろうね?ほら、そんな所でいつまでも自然を感じていないで、早く家の中にお入り」
収穫を終えたばかりの真っ赤に熟したコーヒーチェリー。
それが、溢れんばかりいっぱいに詰まった籠を背負ったオルマナさんは、俺に家の中へ上がるように手招きをしながら、自宅の立派な木造扉をゆっくりと開放する。
「はい!お邪魔します」
彼女が屋内へと入っていくのを見届け、土に塗れた服を軽く叩いた俺は、オルマナさんの後を追うようにして家へと入室したのだった。
━━━━━この、朗らかな表情をした女性は、オルマナさん。
本名を“ ウエストリア・オルディマーナ ”という。
彼女は、ここ“オルディマーナ農園”でコーヒー豆の原材料となる、コーヒーの実の栽培を行っている。
そんな彼女の特徴を幾つか上げるなら、朱色の三つ編みロングヘア。
白いブラウスに紺色のベスト、下は同じく紺色のスカートに白のエプロン。いつも穏やかで優しい空気感が印象的な、少しふくよかな体型の中年女性……といった感じだろうか。
とまあ、そんな彼女が、広大な“オルディマーナ農園”を一人で管理する“ ウエストリア・オルディマーナ ”というウチの店の仕入れ先さまだ。
「焙煎させて袋にまとめておいたのは沢山あるけれど、量はいつもと同じで良かったのかい?珍しくそっちからウチに来たってことは、イレギュラーな事態でもあったんだろ?それに、親父さんじゃなくてルシェード君を寄越したくらいだしね?」
つい今しがた収穫したばかりであるコーヒーの実を、果肉を除去する機械に通しながら彼女は俺に問いかけた。
確かに普段であれば、父がやって来ているのが自然な流れではある。なんて言ったって、ウチの店の代表取締役だからな…。
━━━━我が家は、祖父の代から喫茶店を営んでいる。
かくいう俺も一応は幼少期から家業を手伝ってきており、社会人になった現在はアルバイト形態で実家の仕事をして日々を過ごしていた。
「そうなんですよ。街で近々、幻燈祭があるじゃないですか?それに必要なコーヒー豆を貰いたくて…。最後にオルマナさんのお宅にお邪魔したのが5年くらい前なんで道なんて殆ど覚えてませんでしたよ。少し道も整備されて変わってましたし…」
「あっはっは、そうだろうねぇ!ルシェード君は小さい時に親父さんと来た時以来だったかな?まあ、いつもの量は店まで配達便で送ってるけど、祭りで使うってなると送料だけでもバカにならないからねぇ?それで、今回はどのくらいの量が必要だい?」
気持ちのいいくらい豪快な笑い方をしながらも、作業の手は決して止めない辺りに、流石とも言うべき職人の技量を感じる。
…というか、コチラに顔向けているし、ほとんど手元見てないよな?オルマナさん…。
「あぁ、量は規定量の4倍ほど欲しいって父が言っていたのでそれでお願いします。それと、祭りでは客層が若い人に寄りがちなので、浅煎りが6割の中深・深煎りが4割程度の割合で頼めますか?」
「はいよ!浅煎りは、あの酸味が堪らないからねぇ…。このフルーティーさが分かってる最近の若い子は良い舌してるよ!」
「そうなんでしょうか?どちらかと言うと俺は中深煎りくらいが飲みやすくて好きなんですけど、今のトレンドはそういう風潮らしいですね…」
街の流行では、コーヒーは酸味の強い浅煎り豆が現在人気のようだ。
しかし、どうにも酸っぱいコーヒーには苦手意識があり、若者の流りに乗り遅れている気はしていた。
━━━━━あれ、何か考えが年寄り臭くないか俺…?
「まあ、親父さんも深煎り好きだし、ルシェード君もきっと似たのねぇ?…んじゃあ、待たせたね。早速商品の準備をさせるよ。━━━━出てきな!≪小さな仲間たち≫!」
彼女がパチンと指を鳴らす。
すると、彼女を取り巻くように、空中からポポンっと、5人の小人が現れた。
出現するなり、床にバラバラと散らばって着地した彼らは、みな特徴的であった。
赤い帽子を被り、落ち着きがない者。
青い帽子を被り、一定間隔で跳ねる者。
黄色い帽子を被り、その場で自身の筋肉に語り掛ける者。
カラーリングが違うように、その性格は色彩様々で実に個性豊かな顔ぶれである。
「さっそくだけど、みんなに仕事を頼みたいんだ。」
「おくさま!ごきげんよう!」「なにするの!ぼくたちにまかせて!」「まかせて!」
現れた小人たちは、一様にオルマナさんの足元にワラワラと駆け寄り、彼女の言葉を待っていた。
「ああ、みんな元気が良くて何よりだ!さて、これからルシェード君のコーヒー豆を荷車に積み込んでおくれ!詳しい指示はしなくても大丈夫だね?さあ、作業にかかってちょうだい!」
「「さーっ!いえっさぁー!」」「えっさー!」
彼女の号令に応えるように敬礼をした小人たち。
彼らはバタバタ…というか、パタパタと小さな可愛らしい足音を立てて慌ただしく外へと出ていった。
「久しぶりに見ました。オルマナさんの“神の加護”。«小さな仲間たち≫…でしたっけ?」
「そうさ、あの子達はウチには無くてはならない家族みたいなもんだよ。この農園を管理するのも私の目と身体だけでは、どうしても足りないからねぇ?」
彼女が、この広大な農園をたった一人で維持できている理由は、この能力によるものだ。
今から約700年も昔に神が地上に暮らす人間へ与えたとされる贈り物。
━━━━その名を“神の加護”。
それは人間の理解を超えた規格外の力。
まさに神の権能の一端を借り受けたようなその超能力に人々は最初こそ戸惑い、驚いたが、時が経つに連れて行使に前向きになり、今では日常生活には欠かせないといった人もいるくらいである。
━━━━━彼女が授かったのは“神の加護”≪小さな仲間たち≫。
この加護は、身長約30cm程の小人を合図とともに呼び出し自由に使役することが出来るというものである。…だが、小人といっても侮るなかれ。
彼らは、その矮小な身体からは想像ができないほどの怪力を持っており、一般成人男性の数倍以上の力を有するらしい。
それだけ聞けばとんでもない能力だが、出現後から消滅・再出現までは8時間ずつの制限付きという条件下でのみ使用できる為、常時行使が可能な訳では無い。
しかし、最大出現人数は約1000人というのだから能力の欠点を十分に補っているといっても過言ではないだろう。
というか、もはや人数が軍隊レベルであることには若干の恐怖でさえ覚えるほどだ。
それに、全てオルマナさんの考えが彼らに直接伝わるようになっているので、詳細な内容を指示しなくてもGOサインだけで勝手に仕事を執り行う。
人件費や雇用料も要らない理想の仕事術を実現させる彼女の神の加護には、同じ個人経営の家柄としては脱帽せざるを得ない。
そして極めつけは…。
「おくさま!おくさま!」「おしごとかんりょーう!したよ!」「したよ!」
「よしよし、ご苦労さま。ありがとうね?」
なんと言っても、彼らのその仕事の早さである。
扉を開け放って出て行ったかと思えば、次に閉めようとする頃にはもう終わらせて帰ってくる。
なんなら、その後ちゃんと扉も閉める。
「相変わらず、凄いですね…。ほとんど一瞬でしたよ」
「あっはっは!それがこの子達の凄いとこさ!それじゃあ外で、この子らと商品の量と質の確認をしてきてくれるかい?」
「はい、行ってきます」
「いこー!いこー!」「いっしょに!けんぴん!」
ぴょこぴょこと跳ねる小人たちに連れられて、荷馬車に積まれた商品を確認するため外へと向かう。
「━━━━━。」
中に若干一名、俺の前で己の筋肉を見せつけてくる個体がいることが、何とも気になりはするけれど…。
◆◆◆
【AM 11:14 オルディマーナ農園】
「オルマナさん、検品ありがとうございました。今回も不備なくすべて購入させて頂きますね」
「まいどありがとさん!領収書は、後日お店まで送るから親父さんによろしく伝えといておくれ!それじゃあ、帰り道も気をつけて行くんだよ?どうも最近この辺りで、よく失踪者が続出してるらしいからね?」
「はい、分かりました。それでは伝えておきま……え、今なんて言いました?失踪者って言いました?」
「そうなのよ。ここに来るまでに通ってきたヒカゲ小路あるでしょ?その辺を中心に何人か失踪してるの。それも、馬車を引く商人ばかりが被害者でね?私は一度もそういう経験がないから分からないけど“神隠し”ってやつじゃないかって噂されてるわ。だから、ルシェ―ド君も十分に気をつけるんだよ?」
「きをつけてー!つけてー!」「しぬなよー!」「なよー!」
小人たちから縁起でもない激励の言葉を頂く。
もちろん彼らに、悪気は全くないんだろうけど…。
「は…はい…。」
━━━失踪?神隠し?
(いーやいやいやいやいや!どうやって気をつけろと!?気づいた時には消されてるってことでしょ、それ!気をつけようがあるのかい、その現象!?)
出来ればそのような現象には一生関わりたくないし、なるべくなら避けて通りたい人生を歩んでいきたいが、帰路への道は行きも帰りも通ってきたヒカゲ小路しか存在しなかった。
やや不安…。いいや、かなり不安だが…。
ざわつく心に蓋をし、とりあえずオルマナさんに別れを告げる。
荷車を引く馬は比較的に落ち着いて進んでくれているが、俺の内心は気が気ではなかった。
「何も起きないでくれ、頼むから無事に家に…!」
ただただ天に祈りを捧げること、今はそれくらいしかこれといって対策の手立てはなかった。
(ちゃんと、この祈りが届けばいいのだが…)
こうして俺は、来た道を不安に駆られながら辿り始める……。
◆◆◆
【PM 12:28 ヒカゲ小路 不明】
見慣れない景観。どんよりとした周囲の空気。空は木々に覆われ、光も届かない。
俺は瞬時に理解する。
━━━━━ごめん、嘘ついた、瞬時ではない。
ずっと思ってたし、なんなら途中で『あれ?何かおかしくね?』って感じてはいた。
でも、大丈夫。大丈夫って、自分を誤魔化しながらここまで来ちゃったんですよ…。
「な、なぁ、馬ぁ…。ここってどこ?」
━━━俺は迷っていた。
現在、有り得ないくらい道に迷い、そして途方に暮れている…。
何故なんだろうか。
来た道を戻るだけだったはずなのに。
帰るだけなのに、何故迷うなんて芸当が出来たんだろうか。
これ、もう才能なんじゃないかな?って、なんかもう前向きに思い始めちゃってきてるよ。
「…………。」
馬は全然なんにも返事をしてくれないし、この絶望感を会話で紛らわすことも出来ない。
そもそも馬が言語を理解してくれているのかは、よくは知らないけれど…。
兎も角、ここを抜ける方法をいまは見つける必要があるよなぁ…。
「はぁ…進ませよう…」
こんな所で、じっとしていても悪戯に時間が経つ一方である。
この後、日が沈んでしまえばもっと移動が困難になるのは必至。
それに野宿なんて出来る道具も一切持ち込んでいない今、立ち止まる暇も取れる選択肢も一つしか存在しなかった。
「暗い…本当にまだ真昼間だよな?ここ。やっぱり、さっきまでと同じ場所とは到底思えないよなぁ」
胸元の内ポケットに入れておいた懐中時計で時間を確認してみるが、12:30頃を指し示した時計は、秒針をカチカチと鳴らし進みながら、変わらず正確に時を刻み続けていた。
辺りの暗闇は全てを飲み込んでしまいそうなくらいの漆黒。
木々は、その深淵へと招き入れているかのようにパックリと口を開けて、奥へ、奥へと誘導をかけて獲物を引き寄せる。
…とまあ、気味の悪い妄想も捗り始めた所で、俺はあることに気づいた。
「何か…声が聞こえる…」
遠くだが、微かに何らかの声のようなものが聞こえた…気がする。
俺の耳が正常であれば、これについては妄想なんかじゃなく現実の奇怪音だと思う。
「また…聞こえる」
キリキリ。キリキリ。と、もう一度やはり確かに聞き取れた。
何かを擦るような、擦り合わせるような、奇妙な音は少しずつ着実に大きく鮮明になってきている。
時間の経過と共に、1オクターブ、2オクターブと音の幅を上げていく。
奇妙な旋律、奇怪な不協和音。
そうして、その正体とそれらが次第に近づいてきていることに気づいた時には、もう既に手遅れだった。
「━━━あ…」
俺の全身は、金縛りにあった時のようにガチガチと硬直する。
それを感じ取る以前に馬車を引いていた馬も、いつの間にか歩みを止めていた。
まるで、時が過ぎ去るのをじっと待っているかのように静止しているのだ。
動物の本能的にも分かってしまったのだろう。
今、我々が置かれている環境と、これから起こり得る最悪の結末を…。
「ま…魔物…だ…」
暗闇から首を持ち上げ、その姿を現す無数のサル型の魔物たち。
前方、後方、左右、そして……頭上の木々。
周囲をぐるっと取り囲むようにして、サルの魔物“ウォンカ”が獲物を喰らうためにこの場に集結していた。
「そうか、さっきの音はエコロケーションだったんだ…」
━━━“エコロケーション”。
それは、動物が周囲の物や獲物の場所を正確に捉えるために、自ら音を発して対象から跳ね返ってきた音を元に距離を割り出す能力。
暗い洞窟に棲む、コウモリなどが音波を用いて使うことが有名ではあるが、このウォンカという魔物も同じように狩りを行うと聞いたことがあった。
つまり、ここは彼等にとっての巣であり同時に狩場でもあったのだ。
「オルマナさんが言ってた神隠しって、コイツらが襲って喰ってたから…?」
道に迷った人間を集団で襲い捕食する。それが彼等の食事だった。
この世界を生き抜くために培った技術と手段。それにまんまと嵌められてしまった獲物である俺には抗う術は無い。
━━━弱肉強食。
それは覆すことの出来ない自然の摂理。
狩られてしまった弱者は、強者の糧になる他ないのだ…。
「キィキキキィーー!!」
けたたましく泣き叫ぶ一匹の獣の声を皮切りに、彼らの食事が幕を開けた。…か、に思えたが。
「ブフォッフォーー!!」
「うえぇえ!?ちょっ、う、馬ぁー!?」
ずっと沈黙を貫いていた我が愛馬が急に馬車を駆り出し始めたのだ。
この行動に意表を突かれたウォンカたちは、僅かに怯み、まんまと白馬の逃走を許してしまう。
しかし、だからといって逃がしてくれるような相手ではない。
出遅れはしたが、ウォンカは颯爽と遠ざかっていく食事を、よだれをダラダラと垂らしながら追従する。
「馬ぁ…お前まさか、この場から逃げ出すタイミングをずっと窺っていたのかい!?」
「フンスッ!」
簡単に食われてたまるかよ!とでも言いたげに、鼻息を荒らげながら大地を蹴り進める馬。
━━━な、なんてイケメン…!(※牝馬です。)
その時は、彼女が空想上の生物ペガサスのように凛々しく、神々しく見え、彼女の勇姿に俺がメス堕ちしかけました。
見た目も白馬だしきっと背中からも羽が生えてたんじゃないかな……いや、見えないけどさ。
「キキキィィイイイ!!」
脱兎のごとく木々を薙ぎ払い、一心不乱に疾走する我が愛馬。
かたや追いしは、奇声を発しながら後部から無数に迫るウォンカの群れ。
このままの距離感を維持し続けることで、暫くは命を繋げるかもしれない。
しかし正直な話、彼らから逃げ延びるのは困難を極める。
それは、どのくらい持続可能なスタミナを馬が持ち合わせているのかという話でもあり、彼らハンター側のスペック問題にも関わることだった。
━━━━ウォンカ。
そう呼ばれる魔物は、体長約2m程のサル型の魔物だ。
基本は群れで行動をしている為、単独で狩りを行うことは、まず少ない。
だが、その習性は必ずしもウォンカが群れなければ狩りが行えないほど脆弱な生き物であるためではなかった。
自然界では、個人の乏しい戦力を補う為に群れを成すことがある。
もちろんそれは、人間も例外ではなく、時に大小は異なるが、意図的・または無意識下でコミュニティの形成を行いながら、これまで社会の発展を築き上げてきた。
しかし、彼らは単体でも十分な脅威に該当される。
ことウォンカについて最も特徴的なのは、彼らの獰猛なキバと高い知能指数であろう。
キバは、一度喰らいつかれれば簡単には抜けないネズミ返しの様な構造になっており、噛み付き所が悪ければ命の保証はないと言える。
そしてもう一つ、彼らの知能は人間と同程度と言われているほどに賢い。
ゆえに、ウォンカを相手取って戦うということは同じ人間と知恵比べをすることと大差がないのだ。
賢さに加えて、生死の決定打と成り得るキバという凶器を携えているウォンカは、生物として、もしかしたら人類より勝っていると言えなくもないだろう。
つまり、凶暴だが同時に知恵も併せ持つ危険な魔物……それが現在対峙しているウォンカという魔物である。
「スッスッスッ…」
馬の息遣いが先程よりも荒くなりはじめた。
この速度と、彼らとの距離感が乱れるのは、もはや時間の問題だろう。
(━━━このまま闇雲に走り続けてもダメだ。まずは現在地の把握をしなくては…)
現状において所詮は悪足掻き。
だが、逃げ隠れするにしても現在地の情報が全く無い状態では、無謀で無策な逃避行には変わりがない。
そいつは、例えるなら前人未到の暗い洞窟を光源無しの手探りで突き進むのと同じくらいのリスクを伴うことになる。
「なんでもいい…。なにか。なにか、印象的なランドマークは…」
周辺の景色を常時見回し、現在地を特定する手掛かりに繋がる情報を探し、俺は絶えず視界に入れ続ける。
「あっ!あれは…明かりか?正規のルートに戻ってきたのか!?」
前方、暗闇に飲み込まれた木々から、隙間を掻い潜るようにして光が溢れ出していた。
もしかしたら、この道を辿れば街に帰れるかもしれない。
光に引き寄せられる虫みたいに、その光へと近づき、次第にその正体が想像とかけ離れた異質な存在だということを俺は理解した。
「なんだ……あれ…」
━━━━それは見上げるほどの大きな巨木。
まるで、この世界を司る神樹なのではないかと、そう思わせるほどの風格と存在感。
どっしりと腰を据えているそれは、この世ならざるヒンヤリとした不思議な雰囲気を纏い、その土地に深くカラダを根差していた。
「おいおい、来ちゃマズそうなとこに出ちゃったよ…」
その巨大な大樹を中心に木々がサークル上に軒を連ねた如何にもヤバそうなその場所は、明らかに神聖を通り越して、一般人は立ち入っては行けない部類のエリアなのは間違いなかった。
「あのぉ、お馬さん?なぜ…止まってるんです?」
この場所に足を踏み入れてからというもの、大樹に視線を合わせたまま微動だにしなくなった我が愛馬。
心配になり覗き込んだ彼女の瞳は、まるで運命の相手を見つけたかのようにキラキラと黒い眼を輝かせていた。
それはもう、瞬きや呼吸すらも忘れているくらい……。
え、呼吸してなくないか?
「馬さん、呼吸忘れてませんか!?それと、ここで止まってちゃ追いつかれる━━━━って、そういえばウォンカは…?」
ここへ来て、立ち止まってからの時間は僅かだが、それでも彼らの脚力であれば十分追いついている頃合いのはずだ。…なのに後方からの追っては、一向にやって来る気配を見せなかった。
これは、つまり彼らから逃げ切ったということで判断して良いのだろうか?
(ウォンカって、こうも易々と逃がしてくれるような魔物ではなかったはずなんだが…)
考えられる可能性として、この場所に逃げ込んだことが理由なのかもしれない。
「魔の物っていうくらいだし、神聖なオーラには弱かったってことか?まあ、助かったし何でもいいか。とりあえず、拝んでおきます…」
この大樹改め、神樹(神対応してくれた大樹)様に、俺は感謝を込めた祈りを捧げる。
それと、お礼にお前の臓物を置いていけ~なんて邪神が宿っていないことも、同時に祈っておこう…。
◆◆◆
【PM 14:40 神の樹海 深奥】
「━━━━━あの、そろそろ帰りませんか?姐さん…?」
「━━━━━━━。」
あれから、もう1時間くらいは余裕で経ちました。
でも、我が愛馬は心ここに在らずってやつです。
「もうそろそろ15時になっちゃうんですよ。それで、ですね?森って暗くなると余計に迷うと思うんですよね…はい。だから移動してほしいなぁっていう相談なんですけど…」
「━━━━━━━フスッ」
「!?今、イヤって言いました!?言ったよね!?もしくは、『なにこいつ、ウザいんですけど…』って言いました!?」
(何なんだ、この馬娘!!命の恩人…もとい恩馬ではあるけど、そろそろ我慢の限界だよ!このまま夜になったら、お互いが困るから言ってんのに何でそんなに冷たいのさ!?ねぇ!俺、何かした!?)
「━━━━━━━━。」
「━━━━なにやってんだろ……」
━━━━ほんと、なんでメンヘラ化してんだろ、俺…。
付き合ったら面倒くさいメンヘラ彼氏みたいなムーブを心の中でキメたとしても、彼女は動かないし、時間は進むし、お腹は空いていくだけだ…。
(あぁ、お腹減った。学校の学食で出た温かいポトフが今は何故か無性に食べたい…)
空腹と温かさを求めて、学生時代に味わった何の脈絡もないポトフに想いを馳せ、恋焦がれ始めたのは流石に末期なんだと、俺は自身でも精神状態の危うさを感じ取っていた。
「なぁ、あの神樹様の何が、君の琴線に触れたんだ?いやまあ、確かに神々しいけども」
彼女がこんなにまで熱い視線を向けている樹を見上げる。
今思えば、ウォンカに襲われた時に走り出した彼女は、最初からこの場所を目指していたのかもしれない。
彼女が何かを感じ取った?それとも何かに彼女が導かれた…?だとして、それはいったい…。
「ん?何だあれ。丸、四角…なにかの模様…か?」
━━━そこには何かがあった。
馬車の御者台上から見えた不思議な模様。
それを見つけた俺は、好奇心に駆られて地面へと降りる。
我が愛馬の足元に敷かれた、記号の描かれた模様。それを座り込んでまじまじと眺める。
ぱっと見た感じは、様々な記号と文字が重なったサークル状の図式のようでもあり、造りは、錬金術や魔術なる際に用いられるとかいう魔法陣に近いものがあった。
「さては、この陣に囚われて馬は動けなかったのか。でも魔道具とかで見る魔法陣とはちょっと違うな」
一般流用されている魔道具が生み出す魔法陣と、目の前のそれが決定的に異なるのは、中央に記された知らない言語のような記号の存在だった。
「あー、だめだ、読めない。これどうやって解除するんだ?」
見たところ、かなり年季の入った魔法陣である。
なのに、しっかりと作動しているとするなら余程優秀な技術者の手によるものだろう。
きっと錬金術の素養がある者、または魔法の加護を授かった者が以前にもココに来ていたということだ。
とりあえず、これで彼女の足止めが内的要因ではなく外的要因による理由からの行動停止ということで把握はできた訳だけど…。さてさて、どうしたものか………ん?
「なんだ?雨か…?」
後頭部辺りに、ポツンっと雫の様な生温かい感触を覚えた。
雨が降るなんて、ついていない…。生憎、今日は雨具を未装備かつ用意もして来ていなかった。
ポツリ、ポツリと次第に雨足は強くなるが、その速度と出処には何か違和感があった…。
「………………。」
━━━振り向く。
たった、それだけの動作をここまで体感時間として長く味わい、感じたことは生まれてから一度も無かった。
この一瞬は今も時々、夢に見る。
その時は、本当に生きた心地がしないほどの鮮烈な記憶を刻まれたから。
「━━━あぁ…。あぁあ…。あぁ…!!」
━━━それは、第一頚椎から前方。
頭部を抉られ、欠損部からは決壊したダムのように止めどなく深紅の液体が溢れ出し、自慢の真っ白な躯体は、無着手のキャンバスを子供がデタラメに真っ赤で塗り潰したみたいに、べっとりと鮮血に染められていた。
かつて白馬だった命の恩馬…。
見るに堪えない程に変わり果て、血塗られた、無惨な姿の彼女がそこには居た。
「ふぅっ…ふぅっ…ふぅ…っ」
過呼吸気味になりながらも喘ぎ、口から脳へ必死に酸素を送ろうとするが起こった事態を呑み込めず、体がまともに機能をしてくれない。
何が起きている…。何が起きた…。何が起こった…。
何が…ここにいる?
((頭で状況の処理を行おうとするが、脳がそれを拒絶する。))
((足を使って立ち上がろうとするが、筋肉がそれを警告する。))
━━━━━━━何かに……誰かに、馬が殺されている。
間違いない、得体の知れない何者かに馬は殺害された。
そして、次はきっと…俺の番だ。
「に、にげないと…にげないと……!」
命令を拒み、警告を続ける脳と四肢を無理やり行使し、その場から必死に離れる。
その足取りは、産まれたばかりの子鹿の方がよっぽど歩行上手だと言えるくらいには稚劣かつ滑稽であっただろう。
「ぅぐぁっ!」
靴底に先ほど付着してしまったのであろう馬の血液が足元を狂わせ、俺は俯せに転倒した。
顔面を強打したことにより鼻血が流れる。だが、今はそんな事も、強打した痛みさえも、心底どうでもよかった。
一刻も早く、ここから離れることだけしか頭に在りはしなかったのだから。
前へ、前へと、文字通り地べたを這いずりながら移動をする俺の行く手。
そこに大きな影が立ち塞がっていたなんて、今の俺には気づく余裕すらもなかった。
「キュルルル…」
ようやく状況に気づいたのは、それが鳴き声を発した時だった。
「……え?」
ひどく重たい頭を何とか持ち上げ、目の前に佇む鳴き声の主をゆっくりと見上げた。
「クゥルキュルルルルッ…」
━━━━━真っ白な繊維に包まれた巨大な大岩。
(違う…)
━━━━━辺りの神秘的な空気に溶け込んでいく美しい音色。
(騙されるな…)
━━━━━左右の両先端から吐出する黄金に輝く金塊。
(間違いだ…)
━━━━━そして、何故か懐かしさを感じさせる柔和な芳香。
(それは■■の臭い…)
「━━━━おかえり…(クゥキュキュル)」
「おかあ…さん…?あぁ…、遅くなってごめん…ただい…」
「ギィィイイイキイイィ!」
これは、彼らの狩猟手口だった。
━━━━━その名を…“ヴァルンカ”。
ウォンカと同じくサル型の魔物ではあるが、全くの別個体。
白い毛並みと大岩のように巨大な体躯を持つ化け物。
ウォンカが集団で狩りをする習性だとしたら、ヴァルンカは単独で狩りを行う習性を持つ。
その狩猟方法とは、対象者に心地良さを与えた後、無気力……つまり、対象にとって最も都合のいい幻覚を見させて捕食を行うというシンプルな手段である。
この“心地良さを与える”とは、五感を通して相手の脳内に存在する神経伝達物質を操作し、幸福ホルモンと呼ばれる脳内ホルモンを擬似増殖させるために起こる現象と言われている。
彼らが、この脳内の仕組みを理解している上で使っているのかは定かではないが、それが防ぎ様のない手法であることは語るまでもないだろう。
早い話、彼らに出会ってしまったら殺される前に己の五感を潰すか、死を受け入れるしかないという極端な究極の選択肢しか残されていないのだ。
故に魔物の脅威度としては、魔物を危険度レベル毎に振り分けた“5段階ランク階級制度”において、4段階目の“厄災級”という災害と同程度のレベルに位置づけられている。
そうしてたった今、災害と呼ばれる階位に鎮座する魔物と俺は対峙してしまったのだった。
━━━━━━ウォンカ達が、どうりでこの場所に近づかなかったわけだ。
ここには、自分たちより格上の厄災が棲みついていたんだから。
「■ァ■アァゥ■■」
もう、よく聞こえない。視界にも何も映らない。
俺は既に、ヴァルンカの手で命を刈り取られてしまったのだ。
その証拠に、目も耳も手足の感触も…つい先程まで鼻の奥を刺激していた香りさえも感じなく…。
(…?まてよ、思考が…機能している?)
━━━それは異常だった。
通常、ヴァルンカに影響を受ければ分泌させられた過剰な脳内ホルモンにより脳は支配される。
そこには、幸福のみを満たし閉じ込めた脳内の牢獄が誕生するのだ。
だが、今は偽りの幸福に侵されることなく自由に思考を行えている…。
そして、それが意味することは2つ。
1つは身体機能損失による五感の欠損。
もしくは、使用者であるヴァルンカの消失…。
「━━━━っ!?ひ…かり…?」
閃光が差した。
目を焼かれてしまう程の眩い光が暗く影を落としていた俺の視界を切り開いた。
これを認知できているということは、どうやら幸い視力を失ってはいなかったらしい。
自身の声、眩しさで反射的に目を覆った掌の感触、ざらついた口の中に感じる鉄の味、そして辺りに漂うケモノの死臭。
五感の方も問題なく機能していることから察するに、さっきの身体異常は命の危機を感じた脳内が一種の錯乱状態のようなものを引き起こしたことが理由だろう…。
だとすると、消去法的に推論した後者の結果が訪れたということになるが…。
しかしそれならば、あの怪物をどうやって倒したというのだ…。
近づいた者を容赦なく襲う狂気の“幸福”。それを一体誰が、どのように…。
「━━━━━━━。」
光の霧散した場所に、その疑問の答えはあった。
あまりに現実離れした異質な光景。
脳の処理は到底追いつかず、俺は言葉を失った。
いや、言葉の発し方さえも、その瞬間は忘れてしまっていた。
かつて白い猿の悪魔だったものは、中央から大きく真っ二つに割かれ、頭部は消し飛び、四肢を綺麗に裁断されて、だらしなく俺の眼前に伏していた。
狩人に気づく暇もないまま殺害されたのか、防御痕もなく、切断面はまだ少し筋肉がドクドクと躍動している。
━━━━おおよそ、こんなのは人の所業とは到底思えなかった…。
まず、並の人間がヴァルンカに近づいて思考をまともに保っていられること自体が有り得ない。
あまつさえ、家畜を部位のブロックごとに切り分けるように、厄災と呼ばれた魔物のカラダを部位ごとにバラバラに分解させるなんて…。
仮に、ヴァルンカに対抗可能な神の加護が存在していたとしても、この御業は既に人の手を離れた神の所業の域に達している。
……と考えを巡らせている俺は、とあるシルエットを捉えた。
「━━━えっ、人…影…?」
ヴァルンカの死体を隔てた向こう側…。
神樹の傍で佇立する人影に思わず目が留まる。
こんなところで人に出会えるとは幸運と言っていいのか、それとも安易に関わるべきではないのか…。
「ケホッケホッ!」
「━━━━!?」
その人物は、軽い乾いた咳を伴い俺の方へと何故か歩み寄り始めていた。
「こっちに、来てる…のか?」
光による影響か、まだ視界が少しボヤけており、相手の姿を捉えることがままならない。
だが、それも束の間。次第に相手との距離が近くなるにつれて段々とその容姿が鮮明に、ハッキリと映し出され、俺は驚嘆の声を漏らした。
「あ、…えぇ?う、うそ……だろ…?」
━━━━━━この場には似つかわしくない、リボンがアホみたいにあしらわれたメイド服。
背中を伝い、自身の歩調と連動しながら。
右へ、左へと、流動を行う、腰までかかった艶のある長い黒髪。
整った小さな顔は、やや幼く見えるが。胸部や体格からして年齢は16~18歳程度の童顔といったところだろうか…。
身長は、俺よりも小柄で多分150cm~160cmくらいの間。
ここまで情報が出揃っても尚、対象の識別ができないほど俺は鈍感じゃない。
だがまあ、もしかしたら、趣向として性別をそちらに寄せて装っているだけということもあるかもしれないが、十中八九、現時点で俺の脳が結論づけようとしている答えで間違いないはずだ…。
「彼女が…殺した…?」
にわかには信じがたいが、ヴァルンカを討伐したのは今こちらに向かって歩いて来ている女性だ。
彼女は黒いヒールをカツン、カツンと響かせ、一歩また一歩と近づいてくる。
普段あまりヒールを履きなれていないのか、黒髪ロングの少女は実に危なっかしい足取りである。
(あっ、今コケかけた…。)
メイド服から覗く華奢な手足では、あの猿を倒すなんて無理だと俺の全細胞が野次を飛ばしているが、この場に居合わせているのは辺りを見回しても俺と彼女だけ。
「もーう、何なのココ〜!花粉すごいんだけど!」
と、気づけば声が聞き取れる距離にまで彼女は目を擦りながら近づいて来ていた。
(どうしよう、彼女から距離をとった方が良いのか…?どちらにしても只者じゃない様子だけど…)
すぐ隣のヴァルンカの死体には目もくれず、少女は付近の花粉状況の心配をしている。
彼女は花粉症なんだろうか…?
━━━いや、これは要らない考察だ。
しかし、その緊張感のない振る舞い方だけで、死体を日常的に見慣れている強者感は醸し出されていた。
このまま彼女に下手に関わるとマズイかもしれないが、命の恩人なのは変わらない。
この場を立ち去るにしても、感謝くらいは伝えるのが人としての最低限の常識だ。
「━━━あの、先程はありがっ……」
「助けてくれてありがとうございます」
「あ、いえ……はい?」
未だ地面に腹這いになった俺は、前傾姿勢でコチラを伺う意味不明な発言をしたメイドを見上げた。
「えっ?そこにいる怪物から私を守ってくれたんじゃないんですか?えーと、あなたが……」
俺に手を向けて、小首を傾げる仕草を取る少女。
話は見えないが、どうやら何か大きな勘違いをされておられる様子…。
俺も全く同じ質問をしようと思っていたんだけど。
いやはや、なんて奇遇なんでしょう…。
「って、ちがーーーうっ!!……あ、いやそのぉ…急に、すみません…」
━━━━━やらかした。
心の声を心の中だけで留まらせるなんて、今の精神ブレブレの疲弊した俺には無理でした。
え!?じゃあ、誰が倒したんだよ!?誰が俺と彼女の命を救ってくれたんですか!?
ていうか、こんな挙動不審な態度をとったら彼女もドン引きしてるんじゃ…。
「あ、違ったんですか!ああ、えっ、ご、ごめんなさいっ!早とちりしちゃいましたっ!周りにあなた以外誰も居なかったので…つい…」
━━━━━あれ?思ってた反応と違うな?
てっきり、冷めた態度で対応されるとばかり…。
「あ……ああ、いえいえ、お気になされないで下さい。俺も同じ事を思ってて、あなたが倒したものだとばかり…。ダメですね、気も動転してたので何か訳の分からないことも口走っちゃって、ホントすみません…」
なんとか先ほどの謝罪をすることは出来たが、彼女が倒したのではないなら本当に誰がやったというのだろうか…。などと、思考を巡らす俺に彼女が笑いかけてきた。
「ふふっ。いえいえ、こちらこそごめんなさい。それに、あなたに非はありませんよ」
(━━━ん?な、なんだ?)
彼女は前屈みな体勢から、後部のスカートを内側へと寄せ、膝を折り曲げる。
ちょこんと小さく足を閉じた彼女は、どういうわけで何を考えているのか分からないが俺の前にしゃがみ込む。
その姿勢と絶妙な位置関係は、俺の視界に奇跡を生んだ。
(み、見えっ、見えちゃいませんか!それ?━━━━━いや、見えるッッッッ!)
太ももの隙間から明らかにスカートとは異なる別の白い布地がチラリと顔を覗かせている。
間違いない。あれは……!!
俺が神秘の扉を覗いている瞬間、当の彼女も黄色い瞳をきゅるんと光らせ、コチラを覗き込んでいた。
「だって最初に急に話しかけたのは、わたしからですから」
━━━━━微笑む。
その表情が作り出す魔法は、距離が近ければ近いほど破壊力を増していく。
更に、異性であればその効果は爆発的な威力と、時には致死量をもたらす。
故に人は、それを微笑みの爆弾と呼ぶこともなくもない。
この手で触れてしまえば、簡単に壊れてしまいそうな儚さ。
返答の言葉を紡げば、もう見ることが叶わないであろう憂いさ。
そして最高級の笑顔を一身に浴びていることへの尊さ。
すぅー。……全ての理に感謝を込めて…その笑顔、頂きます。
「ありがとう…ございます…」
言葉が漏れた。涙が零れた。
俺の涙腺ダムは自然に風化が進み、気がついた時には既に決壊を決行していた。
(これは、悲しみの雨ではない。そうだ、これは微笑みの雨……)
彼女の笑顔にはヴァルンカへの恐怖心やらで傷ついていた俺の心を、暖かく包み込む天使のような優しさと安堵感があった。
「だ、だっ、大丈夫ですか!?あなたも花粉症なんですか!?」
「いえ、違うんです、とても安心しただけでっ……………ぇ?」
起こった出来事に、俺は言葉を失ってしまった。
あれは見間違いだろうか?…いや、どうか見間違いであってほしい。
そう願うが、嫌でも現実は目の前の光景を叩きつけてくる。
「ギィィイイイキイイィ!」
━━━━━奴は生きていた。
正確には、ヴァルンカは生き残っていた。
あの状態で依然、生存しているなんて有り得ないし笑えない冗談だが、現実は本当に非情極まりない。
全身をバラバラに分解され、生命維持を行うことも出来ていないはずにも関わらず、消し飛んだかに思えた血塗れのヴァルンカの頭部が彼女の背後から大きな口を広げ、今にも彼女に食らいつこうと高く飛び上がっていた。
もうそれは、意思ではなく本能のようなもの。
彼の命は、とうに燃え尽きている。…が、それならば一つでも多く自分の手により最後の最期まで命を狩り獲る。
それが、彼らヴァルンカに刻み込まれた執念とも言える血の運命なのだろう。
「━━━━っ!メイドさん!!後ろに!!」
警告を口に出しても間に合わないことは分かっている。
今のヴァルンカを死に物狂い…なんて言葉だけで表すにはとても生易しい。
死してなお命を摘む為に、自身に残された時間と遺された身体を使い潰そうというのだから。
それだけの覚悟と、同等に張り合い、釣り合うものなんて、生憎だが今の俺には何一つ持ち合わせちゃいなかった。
だけど、疲弊した俺の心にひと時の安らぎを与えてくれた彼女。
その人にたった今、怪物の牙が向けられている。
せめて……せめて、彼女ではなく俺の命で…。
奴が抱えた“憎悪”を終わらせてほしかった…。
━━━━━まったく…。本当に、いつだって神は薄情者だ…。
これまでも何度も願ったし、何度も味わったこの感情。
この世界に“神の加護”なんていう常識の通じない力があるのなら、伝説通りに神様も必ずいるはず。
だったら……いいや、実際はそうじゃないんだろう。
神頼みという概念が消え、この世界に住まう一人一人が神と同程度の力を授かり、いつしか神を必要としなくなった。
神からの贈り物、神の加護は、神が下界に手を伸ばしたこの世界への最後の干渉だ。
だから応えてくれない。神の視線も注がれない。期待をしても意味が無い……。
━━━━━━やっぱり、この世界に神様はいないんだ…。
神はいない。
世界の秩序を変える常識外の力だけを残して地上・天界のいずれからも消え去った。
まるで、それがせめてもの置き土産とでもいうように。
故に、信じ、願い、崇め奉れど、奇跡なんてものは起きない。
因果律を管理し調整する、全能たる存在が不在なんだから…。
「え、なに?」
彼女は、俺の言葉に対してビクッと身を震わせて急いで後ろを振り返った。
だが、今振り返ったとしても、もう、どうしようも……。
「……………は?」
信じられない光景……という言葉は、こういう時のためにあるのだろう。
━━━━爆ぜたのだ。
そいつは、ポンっという軽い爆発音が出ていてもおかしくない現象だった。
彼女が完全に振り向くまでの僅か数コンマの秒数。
その間で、飛びかかった首は綺麗に空中で四散した。……音も無く…だ。
(何がどうしたっていうんだ…。いまのは…)
振り返った彼女は何も無くなった虚空を『なにもないけど?』なんて言いながら、見つめている。
彼女の後ろ姿に、ヴァルンカが四散した空間部分からキラキラとした塵のようなものが上から下へと舞い降りるのが見えた。
━━━━━そのキラキラ。それが俺にとっての決定打だったのかもしれない。
命を救われ、笑顔を向けられ、再び窮地に追い込まれ、そして今度は心を救われた。不思議な力?どうやってヴァルンカを?彼女は何者?
いいや、そうじゃない、そんなことなんて、もう、どうでもいい!
今は、今は…!これだけが全てだった…。
「━━━神は……。女神はいたんだな……」
メイドでも、天使でもない。そう、キラキラと謎のエフェクトを身に纏いココに降り立った女神の存在。
夢か現か幻か、正直よく分からないが俺は今ここで神秘を目撃している。
「そうか、そうか。女神だから急に現れたし、超強いし、優しいし、訳わかんないメイド服着てるんだ…。そうだよな、こんな森の中でメイドさんがお給仕してるわけないもんな…!命の恩人で女神だもんな…」
あれ?…今の声ってひょっとして心の外に漏れてた…?
あぁ、いや、大丈夫か。きっと出てない出てない…。
もし、ダダ漏れていたとしてもだ。これだけは言わせてくれ…。
━━━━━━━神はぁ!ココにいたぁああ!!!(状態異常:精神崩壊)
「女神……?メイド……?命の恩人?さっきから、あなた一体…何を言ってるんですか…?」
「あ、えっと…どうかしましたか?そんな急に立ち上がって…。ああ、ちなみに俺もそろそろ立ち上がりたいので少し手を貸して頂けると助かるんですが…」
━━━おや。流れ、変わったか…?
彼女からは、今まで常設されていた大天使の微笑は既に消え去り。代わりに表情は曇り顔へと変貌を遂げていた。
ずっと女の子に頭のおかしい挙動を示し続けているのだ、逆にこの態度を初めから表さなかった方が不思議なくらいである。
しかし、死に直面し、助けられて、優しくなんてされれば必然的に好意は抱くし、神にだって見えてきてしまうのだから、この期に及んで言い訳なんてしませんとも!(状態異常:精神汚染)
ただ、どうも彼女の様子には少し違和感を感じていた。
「…の……なんですけど…。」
何かを呟いた。しかしあまりに、か細すぎて内容が分からない。
「え?すみません、今なんと…?ちょっと聞き取れな…」
「大橋さんちのメイドラグーンのコスプレなんですけどっ!?」
先ほどとは打って変わり、大音量の声量で彼女は告げる。
だが、聞こえてはいたのに内容がちっとも理解できなかった。
━━━━━━━なんて?
オオハシ?メイドラグーン?コスプレ…?な、なんのこと?
「そ、そのぉ…。コスプレって、メイドのコスプレのこと…ですか…?」
プルプルと震える彼女に、俺は恐る恐る尋ねる……が。
これまた、ご機嫌を損ねてしまったようだ。
「アータね……。なーに言ってるのぉおお!?これのどこがメイドに見えるんですかっ!?」
━━━━それ俺のセリフなんだけど…。
さっきから何言ってるんだよこの人。
いや、メイドだよ、メイドさん以外にそんなの私服で着用する奴なんていねぇよ!?
だが、待て待て、落ち着けよ俺。
恩人は恩人だ…。ここは、素直に聞いてみるとしようじゃないか…。
「じゃ、じゃあ、メイドじゃないん…ですか?」
「当たり前でしょーが!?メイラグのヒロイン“ミョルニル”ちゃんよっ!?ハッ!もしや、あなた……ひょんな事で天界から人間界に迷い込んだドラグーンの美少女ミョルニルちゃんが仕事終わりのやけ酒で泥酔していた社畜人間の大橋さんと出会って共に同棲をしていく過程で人の温かさに触れて成長をしていく日常系ハートフルコメディアニメのメイラグをご存知でない!?」
━━━━うん……。なんも分からん。
この、ペラペラと呪文のように捲し立てる彼女には天使の要素も女神らしさも微塵もない。
本当に先程の人物と同一人物だったのか怪しくなるほどにだ。
8割…いや9割は何の話をしてるのかよく分からないが、彼女の話を要約するとつまりはこういうことなのだろう。
「な、なるほど…。そ、それじゃあ、君は女神でもメイドでもなくて、ミョ…ミョルニル?っていう存在ってことなんだね?」
「違うわッッ!!わたしはミョルニルちゃんじゃないわよっ!!」
「━━━━━━━━。」
(え、えぇ………。じゃ、ないのかよ…)
訂正します。こちら、9割じゃなくて10割全てにおいて話を理解出来てなかったみたいです。
誰か助けてください。
翻訳を……。
この人にどうか通訳を付けてあげてくれませんか?
「そ、それじゃあ、えーと、君は………何なの?」
メイドでも、女神でも、そのミョルニルちゃんとやらでもないならこの少女は何だっていうのだろう…。
まあ、この問いであれば、順当にいってそろそろ彼女の名前を答えてくれるとは思うが…。
━━━━しかし、その期待にもしっかりと裏切られることを、数秒前の俺は考えもしていなかった。
「ただのオタクよ」
「………は?」
「いや、だからオタクよ。ほら、池袋の路上とかにたくさん転がってるでしょ?ヲタクとも発音することもあるけど。…うん?伝わんないのは、イントネーションの問題?あー、ジャンルのことを言ってるんなら基本的なオタクの嗜みは網羅してきたつもりよ?……えーとぉ?ねぇ、聞いてるの?」
「━━━━━なんだぁ、コイツぅ…?」
その瞬間、俺の中で勝手に作り上げていた幻想が自然瓦解を始め、切ない崩壊音が心に響き渡った。
そうです。
天使でも、女神でもなかった彼女は、ただのオタ活系女子だったみたいです。
━━━━━で、結局ミョルニルって何だったんだよ…?
このオタク女子との出会い。
これが、これから俺、“ルシェード・ニクロフ”が記していく備忘録の最初の1ページ目である。
故に、ここから彼女と俺のイカれた珍道中が始まる訳だが、それはまた次のページへと記すことにしよう…。
━━━━━━━情報量多すぎて全て収まりきるのか…?この物語…。
➡Continue on Next Page
ご一読頂きありがとうございます。
次回以降は、月1での更新予定です。
ご縁がありましたら、またよろしくお願いします。