牛の首
夜風が小さな牛小屋の傍を通り抜け、不気味な悲鳴のような音を立てている。
俺はそれに背筋をゾッと撫でられたような気がして、思わず身震いをした。
「――ちゃんと来てくれたんだ」
その時、背後から声をかけられたので心臓が飛び出るほどに驚いた。
そして振り返ると、そこには全身を黒服で包んだ少女。この世のものとは思えないほど白い肌が月光に照らされ薄ぼんやり光って見えた。
「絵梨花。ここが、出るって場所か」
「そうだよ」
彼女はニコッと微笑んで頷いた。
唇を噛み締め、俺は「そうか」とため息をつく。
「本当に本物なんだな」
「うん。そのはずだよ。……ちゃんと上手くやってもらわないと困るから、お願いね」
「大丈夫だ」なんて言えなかった。なので俺は、黙って牛小屋の中へ入っていく。
絵梨花は俺の横にひっつき、ついて来たのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
土地の神社の神主の息子である俺は、こういった案件を頼まれることは多くある。
取り憑いている悪霊を祓ったり、下がっている運気を上げる手伝いをしたり。しかし、今回のような依頼は珍しかった。
俺の通う高校の同級生の女子、絵梨花。
名前しか知らなかった彼女が、ある日の放課後、話しかけてきたのである。
「あなたがお祓いしてくれる井原君で間違いないよね?」
「ああ、そうだけど」
「実はうちに『化け物』がいて、それを祓って欲しい」
唐突なお願いだったが、俺は引き受ける以外なかった。だって彼女に「これでどう?」と、高校生にしてはなかなかの大金を渡されてしまったのだから。
俺は彼女から簡単に話を聞いた。
絵梨花は、ここいらで有名な農家の娘である。
長年野菜一筋でやって来たらしいが、彼女の父親が事業拡大を目指し、肉牛の飼育を始めようと決めたのだそう。
そして何年も使われていなかった牧場を地主から安値で買い取り、少し前からそこで家畜の牛を育て出したらしいが……。
「そこは、『牛の首』っていう怪談都市伝説の発祥の場所だったんだ」
『牛の首』の都市伝説を知っているだろうか?
世にも恐ろしい怪談と呼ばれるその話は、聞き及んだ者を死に至らしめるのだという。
その題名と恐ろしさだけが伝わっており、中身を知る者は誰もいない。
そんな都市伝説が、絵梨花の父の牛小屋にあるというのだ。
「実際、牛を飼い出してすぐのこと、お父さんが牛小屋で死体で発見された。穴だらけで全身から血を流してたんだって。野犬に咬まれたに違いないって言ってたけど、近くに野犬がいるって話なんて聞いたことなかったから変に思ったの。……そんな時、アタシは死んだお父さんの日記を読んで、牧場が『曰く付き』だって前の地主が言ってたってことを知ったんだよ」
父の死の真相が知りたい。また、『牛の首』の正体を突き止め、一刻でも早く祓いたい。
そう思った彼女は、俺の噂を聞きつけて頼み込んできたわけだ。
そんな事情があるのなら、仕方あるまい。
俺は絵梨花と約束をし、次の日曜日の真夜中に例の牛小屋に集合することを決めた。
彼女の父が亡くなったのもちょうど日曜日の深夜二時であり、条件が酷似している。もしかすると本当に『出る』かも知れないなと俺は思った。
そして約束の時は訪れ、冒頭の場面に戻るわけである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
もしも本当に、聞くと死ぬという『牛の首』伝説が存在したとしたら。
それは俺たちの身にだって危険が及ぶはずだ。最悪、目にしてしまった途端に命を奪われる……なんてこともあり得る。
しかし俺はしっかり『魔除けの鈴』を持っていた。
これが本当に効く代物かどうか俺はいまいち自信がないのであるが、神主である父がよく「これを持っていれば悪いことは起こらん」と言うものだから、多分大丈夫だと思うようにしている。
「あと一時間くらいか……」
腕時計を見てみれば、午前一時すぎ。
まだ結構時間があるな……などと思いつつ、俺は牛小屋を見回した。
例のこと以来ここに立ち寄る者はいなかったらしく、そこら中に汚い虫がうじゃうじゃいる。
現在、牛はどこを見てもいないようだ。絵梨花の話によれば、悪い噂が立ったために出荷できないと判断され、殺処分されたのだとか。
哀れではあるが、仕方ないことなのかも知れない。
「君は本当に、『牛の首』なんていうものに父親が殺されたと思ってるのか」
「さあ。でもアタシはそうじゃないかと思ってる。アタシは幽霊とか信じる方だから。それにここには昼間に来たことが何回かあったけど……夜はさらに『呪われた場所』な感じがする」
確かにここには怨霊とかが溜まりそうだもんな。
俺は彼女とそうやって話しながら、気を紛らわせた。
俺は神主の息子であるだけで、ただの高校生である。
怖くないわけがない……。
でも対照的に、絵梨花はなんだか楽しげに見えた。
どうしてそんなに平気でいられるのだろう? もうすぐ父を殺した化け物が現れるかも知れないというのに。
しかし俺は首を振った。きっと彼女とて強がっているだけで本当は怖いのだろう。もしかすると俺以上に不安でいっぱいに決まっている。
時間が過ぎていき、時計の針が進んでいく。
そしてとうとう――短針が二時を差した。
午前二時から二時半のこの時間帯は丑三つ時。草木も眠る、とは言うが、風の音だけが響くこの静寂は、俺にはたまらなく恐怖であった。
そして今から襲い来るであろう『それ』に身構えをし――。
「うわぁっ」
目の前に突然現れた巨大な牛の頭部を見て、俺は情けない声を上げていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『モォ――』
咆哮するそれは、まさに『牛の首』だった。
首から血を流した黒牛が、金色の目を光らせてこちらを見下ろしている。角が突き出し、鼻や口は変な形にひんまがっていた。
「わっ、わっ」腰が抜け、思わず座り込んだ。
今、何が起こっているか俺には理解できなかった。ただただ恐怖が心を支配する。
『人間ヲ、殺ス。殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺シテヤル』
そう喚きながら、しかし『牛の首』は一向に動こうとしない。
俺はそれが一体どうしてなのか気づいた。そうか、鈴があるからだ。
ようやく我に返って俺は、立ち上がることができた。
『牛の首』はどうしても俺に近寄ることができない。俺の隣にいる絵梨花もまた同じ。
なら今のうちに成仏させるのが一番だと思った。
だから俺は念仏を唱えようと思ったのだが……。
「あなたが、『牛の首』だね?」
絵梨花がそう言って、前に進み出た。
殺意のこもった視線を向けてくる『牛の首』に、彼女は続ける。
「アタシ、あなたに会いにきたの。あなたはここの守護霊?」
『誰ダ、オ前ハ」
「アタシは絵梨花。ちょっとあなたと話をしたいと思ってるんだけど」
ん?
ちょっと待て。話が違うぞ。
俺は彼女に、『牛の首』を祓ってほしいと言われてここまでついてきたのだ。
決して、話をさせてほしいからなどという理由ではない。
けれど絵梨花は話すことをやめなかった。
「あなたはどうして人を殺すの?」
『何故ソレヲ訊ク」
「理由が知りたい。人間全てを呪ってるんでしょ? その理由がね」
俺は、なんだか怖くなってきた。
『牛の首』が怖い……というのももちろんある。
が、違う。俺が本当に恐ろしかったのは、絵梨花が平気で目の前の怪物に対峙し、話を聞き出そうとしていることだった。
一体何を考えているのかがわからず、俺は恐怖に固まるしかなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『牛の首』が話した内容は、俺が想像していたのと大方は同じだ。
『牛の首』は元々、ここの地主が飼っていた黒牛だった。
本当なら餌を与えられ育てられるはずだったその牛は、しかし、体を欠損して生まれてきた。
「こんな物では売れない」と判断された結果、首から下を切り落とされ、頭部はカラスの餌にされたのだという。
人間たちに深い恨みを持った黒牛は、死後に亡霊となって人間を襲うようになった。その正体が、『牛の首』である。
『人間ヲ殺ス。絶対ニ許サン』
「それで、丑三つ時にここへ足を踏み入れた人間を手当たり次第に殺してたってわけか」
納得したように頷く絵梨花。
彼女を見て俺は、サァーっと背中に悪寒が駆け抜ける感覚を覚えた。
そして絵梨花はとても可愛らしい笑顔で言ったのだ。
「そうだったんだね。何はともあれありがとう。……お父さんを、殺してくれて」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目の前で、少女の首が呑まれた。
それは一瞬の出来事であり、そして、すぐに信じられるものではなかった。
口から鮮血を溢れさせた『牛の首』は、それをゆっくり味わっていく。
金色の瞳は歓喜が見て取れたが、どこか悲しげにも見えた。
絵梨花の、首から上を失った体が地面に崩れ落ちる。
俺はただただそれが恐ろしくて――。
「うわあああああああああああっ」
逃げた。
逃げた。逃げるしかなかった。理解してはならないと理性が叫んでいたから。
牛小屋を飛び出し、全てを置き去りにして猛然と駆ける。
怖い。怖い怖い怖い恐ろしい考えてはいけない恐ろしい恐ろしい恐ろしい――。
結局、『牛の首』が俺を追ってくることはなかったが、俺は『恐怖』そのものに捕まってしまうような気がして、三十分ほど走り続けた。
そしてやっと見えた俺の家に無我夢中で飛び込んで、そのまま気を失うように眠ったのである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
冷静に考えてあれは夢なのではないかと思ったが、やはり現実だったらしい。
翌日、絵梨花の遺体があの牛小屋で発見されることとなったのだ。
二人の人間が同じ場所で変死したのであるから、当然ながら大問題である。
警察がすぐに駆けつけ、報道で大きく取り上げられ、あの牛小屋は取り壊しになった。俺はそれらを知りつつ、しかしあの夜あの現場にいたことを誰にも話していない。
話してはならないような気がしたからだ。
彼女からもらった大金はこの手にあったが、すぐに使って手放したのでもはや俺が行った証拠はない。誰も俺が事件を見ていただなんて思わないだろう。
あの時、絵梨花は俺から離れ、『牛の首』の方へ自ら歩み出ていった。
それは『魔除けの鈴』の効果を失うことであり、事前に鈴の話はしていたから、つまりは食われることを覚悟していたということだ。
それは一体どういう意味だったのか? 俺は、彼女が『牛の首』に己の身を捧げたのではないかと考えている。
――絵梨花は父親を恨んでいたらしい。
父親と言っても養父だったらしく、性暴力などの虐待を受けていたと後で明らかになった。
だからあの時彼女は「ありがとう」と言ったに違いなかった。そして、『牛の首』へのお礼に自分の首を食わせたのではないかと思う。
怨恨というものは、とても恐ろしい。
それは『牛の首』のような怪異であっても人間であっても同じこと。
俺は彼女の死の直前、絵梨花が浮かべたあの笑顔を思い出しては背筋が凍る。
あれは長年の恨みを晴らせたが故の歓喜の表情だった。少なくとも俺には、そう見えた。
そもそも何故絵梨花は俺などを誘ったのだろう。それも、「お祓いしてほしい」なんていう嘘まで吐いて……。
それにしても、牛小屋が取り壊しになった今、『牛の首』はどうしているのだろう。
もしかすると絵梨花を食ったおかげで成仏していたりするのかも知れないし、やはりどこかにいるのかも知れない。
俺には何もわからないままである。