蜘蛛
マユリがこの世界にやってきて、1か月程が経った。
フィルとの生活にも慣れてきた。
最初は毎晩夜中に飛び起きていた。
その度にフィルが、「大丈夫。そばに居るよ」と言ってくれる。
その手と声に安心して、瞼が重くなる。
そして、朝になる。
マユリの作る料理は、毎回笑顔と共に褒められる。
オムレツもそうだが、フワフワのパンケーキもフィルの大のお気に入りで、2~3日に1回はリクエストが来る。
(大人なのに、お子様舌だ。)なんてこっそり思う。
恥ずかしくて慣れないが、毎晩暖炉の前で膝枕をしながら話す。
「フィル様の好きな物は何ですか?」
「肉とマユリの食事全部。マユリは?」
「甘い物と綺麗な物です」
「綺麗って何?」
「花でも空でも。暖炉の火も大好きです」
「嫌いな物は?」
「足の多い虫はだめです。体が固まってしまいます」
「じゃ、私が追い払わないといけないね。私は苦い物が苦手だな。それとマユリが可愛い」
(フィル様の最後の言葉は……。無意識であざとい。甘過ぎるけど、嬉しい)
「フィル様。髪の毛どうしてます?」
背中まである長い毛先がぼさぼさしてしているため聞いてみた。
「伸びたら前に持って来て、鋏で切るだけ」
それから、マユリが髪を切るようになったが、前髪を切る時、非常に困ることになった。目の前に美麗な顔があるのだ、手は震えるが頑張った。
「フィル様。嬉しいことは何ですか?」
「美味しい物を食べる事。マユリのエクボをつつくこと」
「何ですか、それ。止めて下さい」
「減るもんじゃなし。マユリの頬はフワフワで、気持ちいいんだ」
「美味しい物だけにして下さい」
「やだ」
(子供ですか。口も手も子供なんですね。その上、鈍感)
「マユリの髪長いね。どの位あるの?」
「腰よりは長いです」
「いつも三つ編みだから分からなかった」
「洗うの大変なんですけど……。 おばあちゃんが切ったらダメって。許してくれなくて」
「ふうん。黒くて、キレイだからだね」
(無意識で甘い。天然であざとい。もう、何なんだろう)
毎日他愛もない話をして笑って毎日を過ごす。
森の家は、いつも温かった。
ある晴れた日に小さな川に出かけた。クレソンが沢山生えているのを先日見つけていたからだ。フィルと一緒に収穫して、今日の夕食に使うつもりだった。
「沢山取れましたね」
「私は青いこれは…… あまり好きじゃないんだけど」
「血をきれいにするのに。好き嫌いは止めましょう」
「苦いんだ。これ…… 私はあまり好きではないよ」
クレソンをつまんで言ったが、知らん顔のマユリに、フィルは小さくため息をついた。
「あ、フィル様、あんな所に、白い花が咲いていますよ」
少し離れた大きな木の周りに白い花が咲いていた。
「あ、あれ、百合みたい。私の名前のお花なんです。ちょっと待ってて下さい。見てきますから」 と言うと、木のそばに確認をしに行った。
そこに、咲いていたのはやはり百合だった。
香りの高い白い百合が、木を取り囲むように咲き乱れていた。
その沢山の花の中央に立って、周囲を眺めた。
(この世界にも百合が咲くんだ)
久しぶりに見た百合は、懐かしさとどこかほろ苦い感情を呼び起こす。本当にキレイで、少し泣きたくなるほどだった。
その時、森の奥で何かがチカリと小さく赤く光った。
赤い光が気になって、誘われる様に森の中に足を踏み入れた。
近付くにつれて赤い光が徐々に大きくなる。
よく分からないが、気になって仕方がない。その内に、何とも言えない違和感が強くなってきた。
これ以上行ったらだめだ。
不思議だがそう感じて足が止まった時、赤い光が急に高く上昇した。樹上10m位に赤い光が8個になって怪しく光った。
(蜘蛛だ! 大きい! こんな、こんな、嘘。嘘だと言って)
目の前に赤い目の巨大な蜘蛛が迫っていた。
マユリを獲物として、じりじりと近付いてくる。毛の生えた黒い大きな8本の脚。足の先の巨大な鋭い爪も見えてくる。
逃げなければ危ない、分かってはいても体は凍り付いた様に一寸も動かない。心の中は悲鳴で一杯だが、実際には恐怖で声も出せず、巨大な蜘蛛から目を離せなかった。
(助けて! フィル様。 助けて!)心の中で必死に助けを求めた。
「マユリ。伏せて!」
緊張を破る鋭い声が響いた。
その声に呪縛が解けたようにマユリは反射的に身を伏せた。
マユリの体の少し上を、巨大な冷気が駆け抜けた。
次の瞬間、そばに居た巨大な蜘蛛に大きな氷の矢が無数に刺さって、後ろに吹き飛んだ。
驚いて後ろを振り向いたマユリの目に映ったのは、糸の切れた操り人形のように、地面に倒れて行くフィルだった。
声にならない悲鳴を上げてマユリはフィルに駆け寄った。
倒れたフィルの体はピクリとも動かず、右手の指先から黒色のツタが巻き付くように体中に黒い色が広がっていく。
あっという間に腕から首まで、帯に巻かれたように黒く染まる。
フィルは苦しげに浅い息をして、眉を顰め苦悶の表情になる。
「ダメ!ダメ!ダメです! フィル様、こんなの駄目です! 誰か。誰か助けて!フィル様を助けて!」
右腕に縋りついて悲鳴のように叫ぶ。
涙が溢れて、声が詰まる。フィルの腕がどんどん冷たくなる。
その時、そばの地面に黒い蜘蛛の脚の爪が、深々と突き刺さった。
蜘蛛はまだ生きていた。フィルの攻撃に怒って再び襲って来たのだった。
マユリは蜘蛛からフィルを守ろうと、その体に覆いかぶさった。
次に来るであろう衝撃を覚悟して体を固くした時、背中の上を熱い大きな炎が風を巻き込んで飛んだ。
そばで脚を振り上げていた蜘蛛が、体全体を大きな炎に包まれて20m位後ろに弾き飛ばされた。
しかし、マユリはそれに気が付きもせず、体が黒く変色していく、フィルに縋りついてその名前を呼び続ける。
首にしがみつき泣きじゃくるマユリの涙が止めどなく零れ落ちる。
(魔法は使ったらダメって言ってたのに、使わないって約束したのに。魔法はダメって死んじゃうって。言ってたのに)
頬を寄せて泣くマユリの唇がフィルに触れた時、体中に広がっていた黒い物が急に、背中の方にスルスルと集まっていった。
黒い紐のようになったそれはあっという間に寄り集まり、フィルの頭の上にコブラの様に鎌首をもたげた。
こちらを睨むように止まったそれは、一瞬後ろに頭を引いた後にフィルに噛みつこうとするように、襲い掛かった。
黒い蛇の様な物がフィルを攻撃しようとした時、マユリの長い黒髪が背中を覆うマントのように一気に広がった。
黒い蛇が何度も襲い掛かるが、その度に何故か黒髪が生き物のように広がって、弾いて邪魔をした。
「動くな!」
大きな鋭い声が後ろから響き、炎をまとった剣がマユリの頭の上に鎌首をもたげた黒い蛇を切り裂いた。
黒い蛇は2つに切り裂かれ、「ギィーッ!!」と悲鳴のような声を上げてのたうち回り、程なく真っ赤に輝く炎が黒い蛇の全身を焼き尽くした。
マユリには周囲で何が起こっているのか、分からなかった。
「おい。大丈夫か?」
突然、フィルの声が頭上から聞こえた。
驚いて顔を起こして見上げると、そこには、痣のない完璧なフィルが立っていた。
「嘘。分身?」
「馬鹿か。双子だ」
(双子。兄弟? 同じ顔。同じ声。混乱する。でも今はフィル様だ)
苦し気な表情で浅い呼吸を繰り返すフィルは真っ青で、体は氷の様に冷たい。
「家に運んで下さい!」
「あ、え? 分かった。」
フィルを抱き上げようとするが、フィルの手がマユリを掴んでいて離せない。面倒と思ったのか、2人ごと抱き上げるとあっという間に家に走りこんだ。
「暖炉に火を入れて下さい。」と言いながら、フィルの手を外し、ベッドに寝かせた。マユリは服を脱いで下着姿になると、ベッドに飛び込み、毛布に包んだフィルを抱きしめて体中を擦り始めた。
氷の様な冷たさのフィルを抱くと、反射的に体は離れようとする。必死に我慢して寄り添う。
「私の熱を全部あげます。一人にしないで。お願い。フィル様。フィル様。ダメです」と言いながら擦り続ける。
双子の男は、服を脱いでベッドに飛び込んだマユリに驚いたが、今は他に何もできないと暖炉の火を燃やし続けた。
夜明け前、フィルが目覚めた。
(何だ。私は死んだはずなのに、魔法を使ったよね。何故? 生きてるのかな? あれ、体が全然動かない。指1本動かせない。体がしびれて冷たいけど、右側が何だかあったかい。)何とか頭を動かして見ると、疲れ切った顔のマユリが横に寝ていた。
ぎょっとしたが、ほこほこと温かいその体温に急に嬉しくなった。
マユリの額に自分の額をくっつけるとまた眠ってしまった。