起
ー桜の花が舞い散る夜
僕は一人の生徒に告白された。
「先生のことが好きです。 一緒にいてください」
どれだけ鈍感な人でも分かるストレートな告白だった。
色白で、多くはっきりした目、華奢な肢体の可憐な少女であった。
しかし、立場上及び性的志向上の理由で、僕は断った。
僕は彼女の告白に隠されたコンテクストに気付くことができなかった…
半年前、僕が営む学習塾に少女が入会した。
その少女は母と思わしき人と一緒に面談に来て、すぐに入会することになった。
倉林トミノ
私立中学校に通う彼女は、高校受験に備えて早いうちから学んでいきたいと言う。
面談中、自分の考えを言う子は珍しい。
たいていは親ばかりしゃべり、子どもは、早く帰りたいとあくびをしているものだ。
おとなしそうな見かけに反して、しっかり自己主張ができる子…それがトミノさんの第一印象だった。
しかし、不自然なのは有名私立中学校に通いながら、公立高校受験を考えるということだ。
通常、めったにないパターンだ。
僕から言わせれば、私立中学校に通うメリットの7割を捨てていると言っても過言ではないくらいだ。
合格した私立中学校が満足できなくて、受験をするパターンもあるが、彼女が合格した中学校は私立トップクラス… それを手放す理由は僕には分からなかった。
だが、少なくとも高校受験までは通ってくれる…
それは塾としては非常にオイシイ。
また志望している公立高校も決して偏差値が低いわけではない。
合格実績として堂々と掲示できる。
それに学力も申し分ない。
そうすると多少の不自然には目も瞑れる。
僕は相手の気が変わらぬうちに、入会書類の記入を進め、次の週には早速授業を準備した。
入会申し込み後1週間、初授業の時
トミノさんは前の方の席についていた。
カバーのついた本を読んでいた。
僕が入るなり、しおりを挟んで本を閉じた。
チラリと見えたしおりには花弁の無い花がラミネートされていた。
変わったセンスだなと、その時は思った。
早速塾に置いていたテキストを渡し、授業を始めた。
思った通り優秀だった。
当意即妙、すぐにこちらの意図を組んでくれる。
また、語彙力も豊富で、発言も明瞭。
素晴らしい生徒が入ってくれた。と、嬉しく思った。
トミノさんが通うクラスには他に4人の生徒がいる。
僕の指導スタイルは小集団形式と個別演習。
同じテキストを配り、同様の説明をするが、演習は個々のレベルに応じて個別に進める。
演習時には個別に説明をしていく。
トミノさんは非常に良い質問をする。
例えば国語の授業では、指示語の読み取り方について聞いてきたり、文脈からの読み取り方を聞いてきたり、ささいな表現のこだわりを聞いてきたり、と非常に説明のし甲斐がある質問をしてくれる。
「先生。 ここで、主人公は顔をしかめたとありますが、その次に手で顔を覆っています。しかめるのは不満の表現ですよね。 手で顔を覆うのは、大抵泣く時の表現ですので、どうもしっくりきません。
しかめるというよりは顔をゆがめると言った方がしっくりくるのですが… どう読み取ればよいですか」
僕は待ってましたと言わんばかりに説明をする。
「いい質問ですね。 辞書的には顔をゆがめるとしかめるは同義として扱われます。どちらも不満や苦痛を表します。ですので、顔をしかめるということで、どうしようもない不満を表現し、それでもどうにもならない感情の高ぶりによって涙が出る。 そして、手で顔を覆うという表現につながるという流れはおかしくありません」
「そうなんですね。 けど、どうしてもゆがめるとしかめるが同義っぽく思えないのですが、そのまま全く同じと考えて良いですか?」
「ですね。 ちょっと、僕の解釈も交えて説明しますね。 ゆがめるという言葉は、僕的には即応的なものかなと思っています。つまり、外からの刺激に対して、反射的に『嫌だ、不快だ、イタイ』というときにゆがめるというのだと考えます。
対して、しかめるは… これは漢字で書くと「顰める」と書きます。この中には「卑」という語が入っています。これは、この場合の意味としては下に見るがよいかと思います。つまり、顰めるは『嫌だ、不快だ』といった事柄をまず、受け止め、自分の中でその事柄を整理し受け入れようとしても、尚も認められず、どうしようもない不快や不愉快を表に出さざるを得なくなった。 という感じかなと考えています… うーん、説明が難しいな… とりあえず、ゆがめるはパッパッと反射的な感じで、顰めるはよくよく考えても不快って、感じかな。 まあ、こんなことは受験にはでないので、そこまで深く考えなくてもよいかな」
他の生徒はこの時、文字通り顔を歪めていたが、トミノさんだけは、僕の長ったらしく、くどい説明をしっかりと聞いてくれていた。
僕は師弟としては、おそらくかなり彼女を好意的に見ていたと思う。
そんな彼女から告白された。
内心うれしかった。
しかし、それは好意を持っている相手から好意を貰ったことによる喜びであり、さて、それで、僕はこの娘に恋心を抱いているかと言えば、それは別の事だった。
僕はロリコンではない。
しばしば学校の先生や塾講師はロリコンの巣窟と揶揄されることがあるが、はなはだしい風評被害である。
むしろ僕は少年や少女に対するそのような趣向には否定的で、まあ、個人の趣味の範疇で楽しむ分にはまだよいが、それを行動に移すのは絶許で、まして、少年や少女がそのような大人たちの被害にあうことは、たとえそれが創作物であったとしても嫌悪感を抑えられない。
しかしながら、このような仕事をしていると、時折教え子の方から好意を向けられることもある。
自慢ではないが、僕はそこそこ好かれる方らしい。
これまでも何度か、告白じみたことをされることはあった。
そのたびに、冗談交じりに、それを躱してきた。
大抵の子は、そのうち諦めてくれた。
そういう子は大概、ムードメーカー的な子で、悪く言えば少しませていて不真面目な子が多かった。
多少の偏見はあるかもしれないが、トミノのように真面目で勤勉な子が告白してくることはレアケースだと、僕は考えている。
さて…
困ったことに、僕は悩んでいた。
どう断ればよいのか、頭を悩ませていた。
自然と眉が寄ってくる。
おそらく、この時、僕はしかめっつらをしていたと思う。
しかし、これは彼女の告白が不快ということではなく、考えても考えても、うまく答えを出すことができな僕自身への不快感…あるいは生みの苦しみとでもいうのか、言葉を生み出すことの苦悩によるしかめっつらであった。
言葉が出ない。
もしかすると、僕は内心のさらに奥では、断りたくないのかもしれなかった。
繰り返すが、僕はロリコンではない。
彼女と付き合って、どうこうしたいなどとは思えなかった。
確かに、トミノさんは可憐で、可愛い。
おそらく、同年代なら、即座にOKと言っていただろう。
まあ、彼女ぐらいの時の僕は、お世辞にも魅力的とは言えないので、このような美少女には見向きもされなかったけど…
そのような想いが錯綜したが、結局僕はシンプルに答えた。
「気持ちは嬉しいし、生徒として君のことは好意的に見ているが、恋愛はできない。 ただ、これからも教師と教え子としては一緒にいたいと思う。」
我ながら、気持ちの悪い返答をしたものだと思う。
この時、卑しくも、僕にはもう一つ打算的な想いもあった。
この返答次第で、一人生徒が辞めてしまう可能性があった。
せっかくの優秀な生徒が辞めてしまうのは、食い止めなければいけなかった。
僕はまるで自分が告白をした立場であるかのように、彼女の返答をかたずを飲んで待った。
彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「ありがとうございます。 じゃあ、なるべく、これからも一緒にいてくださいね」
この時、自分がどのように答えるかということではなく、彼女がどのようになりたくて告白してきたかについてよくよく考えるべきだった。