風の神様
風の神様
風の声が聞こえた。何を言っているか分からないが確かに聞こえた。あの山の向こうにいる風の声が。
ここは無人駅。朝は足音の一つも聞こえなければ、夜なんかは虫が光に集るだけのとても静かな無人駅。私は毎朝ここから会社まで通っている。だけどこの駅も後3日で無くなってしまう。私はどうやって会社まで通うか悩んでいる最中だ。そんな時だった。風の声が聞こえたのは。あの山の向こう辺りから耳まで響いたのは。私は気になった。行ってみたいと思った。だけど、そんな事よりもお金が欲しいから仕事に行かなければならなかった。だから私は諦めて電車が来るのを待った。暫くしてまた風の声が聞こえた。私は我慢して時計を眺めた。後、2分で電車が来る。2分が長くて堪らなかったが私は待った。そして朝の霜に乱反射させる光を見てむず痒さは吹き飛んだ。いつも通り誰もいな1両編成の電車が止まるのを眺めて私は足を動かす。電車に足を踏み入れた時、遠くで笑い声が聞こえた。さて今日も頑張らなくては。
朝起きたら何をしようか。明日は休日だし、予定もからんどう。近くのバス停はこないだの大雨のせいで崖崩れが起こって使えないし。山ばかりのこの土地は本当につまらない。晴れる日だって滅多にない。山に囲まれていて雲ができやすいから。日差しなんて中学生になるまでずっと珍しい物だと思っていた。どうしようか。私は電車に揺られながら影も見えない暗い山道を眺める。「夏だったらな。」そう呟いてしまった。夏なんて嫌いなのに。そんなことを思っていたら寝ていたのか駅員さんに声をかけられ意識が戻った。一言謝って、私は急いで電車を降りた。こんな田舎に在る駅に夜遅くまで運転してくれる優しい人。そんな風に駅員の事を思っている。いつもありがたいと思っているけど、なかなか言えたもんじゃない。そんな素直じゃない私でも、街灯の無い夜を歩くのは億劫だ。だからこそと言うのか、それとも皆怖い物か。どうでもいいや。誘蛾灯に集う虫、白線が薄く見える道路、電車が出発する音、蛙が笑う声、家並みの光、右から車が音を立てる、ようやく小川の鳴き声が聞こえた。こういう憧憬みたいな物は私の宝物だ。全部、美しい春の名残だ。これ以上は何も言わないけど、青くて眩しい春に見た本当の芸術的な人生の話。嫌な事を思い出したな。まあ、私にも嫌な事の一つくらいはあるさ。例えば今から歩いて家に帰らなければいけない事とか。約600m。近いけど辺りは真っ暗。まあ、いいや。歩き出した時、耳に風が入り、声が聞こえた。風の声だ。きっと隣町から聞こえた。隣町は今頃、星空が輝いて見えるだろう。こことは違って美しい場所だろう。雲も無く、月は見てくれて。風はきっとそこで月夜を見ているだろう。羨ましいな。私もその横で眺めていたい。私は風の声を振り切って家に帰る為、再び歩き出した。
朝起きることも億劫、とまでは行かないが気怠さある。人生もとうの昔にエンドロールを迎えている。小説なら最後の一行の後。映画なら灯りが再び灯った後。そんな今だからか。それでも毎朝ご飯を食べて、仕事に行って、家に帰って、睡眠をする。特に意味なんてないけどこれが20代という事か。今日は休日だから朝ご飯は食べずに隣町にでも出かけようと支度をしていた。適当に街を歩いて写真にでも陽を写して今日を潰そう。支度を終え、家を出る。そうして、駅に着いたときは霧が出ていて雨が降りそうだった。珍しく駅のホームには人がいて少し嬉しかった。年を取ったおばあさんが座っていた。電車は後10分後に来る。私は何となくそう感じていたが時計を眺めた。その時だった。また風が耳に入って声が聞こえた。風の声だ。「…」何か聞き取れそうな声で言う。近い。きっとあの山の麓にいる。見てみたい。風の正体を。そうしたら新しい1ページが開くはずだ。私は走った。何もかも置き去りにして。駅を出て、スニーカーを地面に叩きながらとにかく走った。川沿いを辿って麓へ走った。いつもは透明で静かな川が、いつもより静かで透明に見えた。私は走った。そして辿り着いた山の麓。そこには神社がひとつあった。鳥居が霧で薄く見えそこから風が噴き出るような、鳥居が一つあった。ゆっくり歩きながら鳥居を潜り抜ける。霧が濃くなって階段が、足元が見えなくなる。そしてまた風の声が大きく聞こえる。そして、目の前の霧が一気に晴れて、社が見えた。階段を昇り切ったのだ。社に向かって歩いていくと風が耳元で囁いた。「…」分からない。でも、進んだ。そうして、社の目の前で足を止めて私は気が付いた。まるで人生のように戻れない事を。後ろは透けて掴めないような。後ろを見ていた私は、もう一度前を見て社の扉が勝ってに開くのを確認する。そこから風が吹く。そして、はっきりと風はいう。「春が近い。」
あれから私はあの街から引っ越し、晴れ間の綺麗な丘の上のアパートに住んでいる。天気も時々雨になるし、良く晴れにもなる。風の声は今でも聞こえる。でも、風は以前ほど苦しそうな声もしない。私の神様みたいにいつも見守ってくれている。春は来た。しっかり来た暖かくて、心地よくて。そんな当たり前の春が来た。私は時に風の声の事をこう思う。まだ温かった春の魂の守り人だと。今は新しい本となった人生だ。信頼できる人も出来て上手く行ったり行かなかったりして、でも優しくて、もう無人駅で一人凍えなくて済むのだと。一人で電車を待たなくてもいいのだと。私はあの声から初めてのお盆、またあの山に向かっている。墓石並みを超えて、一つの墓石に座り華を添える。「ありがとう。」そう言って、最後の手紙を置いて笑った。遠くで風の声が聞こえる。きっともう二度と聞こえないであろう風の最後の声。いつだってそうだ、手紙の最後も。もう忘れよう、悔やんだりもしない。人生は始まったばかりなのだから。
今回は短編でした。お読み下さりありがとうございます。