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雨の雫  作者: 海堂莉子
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第8話

「いえ、歩けます」

 平静を装ってはいたが、内心は穏やかではなかった。

 先生の車に乗り込むと、私は口を閉ざした。

 まだ夕方なのに雨が降っているせいで、すでに暗い。ウインドウに写る自分が酷くやつれているのを見て、驚きを隠せずにいた。

 そういえば最近大して鏡を見ていなかった事に気付く。自分の顔を見るのは久しぶりだった。これじゃ藍が心配するのも無理はない。

「眠くなったら寝てていいぞ。着いたら起こしてやるから」

「先生、うちの場所解るの?」

「お前ん家、俺のアパートのすぐ近くなんだよ。住所見てすぐに解った。あの辺はよく知っているから任せろ」

 先生ん家と近所なんだ……。近所に先生が住んでいるなんて何か不思議。いつか、近所を歩いていたら先生と会うってこともあるかも。

 そう考えたら少し嬉しい気がした。

 何で嬉しいなんて思うんだろう……。変なの。

 私は急いでその考えを打ち消した。そして、私は無理矢理心を遮断して、目を閉じた。

 先生の運転はとても丁寧で穏やかで、殆ど揺れない。優しい運転だった。

「浅野っ、浅野。着いたぞ」

 んん? と目を開けると先生の顔が間近にあって焦った。

「ここでいいんだろ?」

 寝起きのはっきりしない目で車の外を見ると確かに家の前に止まっていた。

「うん。……有難うございました」

 そう言って、車を飛び出した。

 雨は激しく降っていて、玄関に辿り着くまでに濡れてしまった。

 チャイムを鳴らすと、お母さんが近づいてくる音がドア越しに聞こえてくる。がちゃっと鍵を開ける音の後にドアが開いた。

「ただいま」

「おかえり。あら? こちらどなた?」

 お母さんの問いかけに驚いて振り返る。そこには余所行きの笑顔を作った先生が立っていた。

「先生?」

 もうとっくに帰ったとばかり思っていた。先生は私をちらっと窺うと、にやりと笑った。

「雫石、この方先生なの?」

 私が口を開くよりも早く、先生が口を開いた。

「どうも、はじめまして。雫石さんのクラスの担任をしております、高遠伊吹です。浅野さんは入学式には出られなかったので、その後の保護者会でお母様とお会いすることもできませんでしたので、丁度機会があったので伺わせて頂きました。お電話差し上げたとおり、雫石さんが登山中に倒れまして、学校に帰った後も暫く保健室でぐっすり眠っていたので、私が送らせて頂きました。遅くなって申し訳ありません。ご心配なさったんじゃないですか?」

 先生の余所行きの話し方が何だか笑えた。いつもは自分のこと「俺」って言うくせに「私」とか言ってるし。こんな所を見ると、先生はやっぱり先生なんだなって、大人なんだなって思ったりする。普段は、生徒たちと同じ目線で話したりするので、高校生に紛れて解らなかったりする。

「まあ、先生っ。いつも娘がお世話になっております。先程はお電話頂いて、その上送って頂いて、本当有難うございます。心配だなんて、大丈夫ですよ。それにしても、先生お若いんですね?」

「ええ、教師を初めてまだ2年目でして、何かと至らない所もありますが、今後とも宜しくお願いします」

「こちらこそ娘をよろしくお願いします。先生、こちらまで送って頂いて遠回りじゃなかったんですか?」

「いえ、実はこのすぐ近くに住んでいるんですよ。ここから歩いて5分もかからないんじゃないかと思います」

「まあ、どの辺なの? 一人暮らし?」

 傍で聞いていてもつまらない、とてつもなく長くなりそうな話である。

「雫石。先に中に入っていていいわよ。頭濡れてるから拭いて、風邪引かないようにね。ほら、行く前に先生にご挨拶して」

「うん。先生、ありがとうございました。また、明日」

 ぺこりと頭を下げて家の中に入って行った。

「ああ、また明日な」

 先生の声が私の背中を追いかけて来た。それには振り返らずにそのまま2階に上がって行った。

 それからすぐにお母さんと先生の軽快な笑い声が聞こえて来た。きっとお母さんの長話に先生は付き合わされるんだ。

 お気の毒に……。


 空もよくお母さんの長話に付き合わされていた。

 私達は親公認だった。空はうちの両親に気に入られていたし、私も空のご両親に可愛がられていた。ただ、空のお姉さんにはあまり会った事がない。多分、高遠先生と同じくらいの歳だったと思う。とても奇麗な大人な女性だった。歳が離れているからか、あまり話さないと空が言っていた。空のお姉さんは、私のことを興味無さそうに見ていた。もしかしたら嫌われていたのかもしれない。

 空がうちに遊びに来ると母が喜んで、手作りお菓子なんかを嬉々として振る舞う。私は一人っ子だったので、もしかしたら母は男の子も産みたかったのかもしれない。

 空は母の退屈な話にいつもイヤな顔一つせず笑顔で答えてくれていた。あまりに母が空を独り占めするので、私が怒るなんてこともしばしばあった。

 そんな少し昔のことを思い出して、ほんの少し笑った。だが、笑ったのは心の中でだけで、表面上は何の変化もなかった。


 暫くして、先生が玄関を出た気配がした。

 私は2階の自分の部屋からこっそり窓を開けて外を見た。あんなに激しく降っていた雨は、既に止んでいた。

 見下ろすと先生が車に乗り込むところだった。不意に先生が顔を上げ、ばっちりと目が合った。暗がりの中でもよく解るまだ幼さが見える先生の笑顔がそこにあった。私はほんの少し口元を緩めた。きっと先生の所からでは、その少しの変化を肉眼で確認することは不可能だろうと思われる。だが、先生は酷く驚いた顔をしていた。

 見えたのだろうか……? 笑顔とはとてもじゃないが言えない様な微かな口元の動きを。恐らくすぐ近くにいても見すごすであろうそんな些細なことに。

 先生は、もう一度笑顔を見せ、手を振った。

 私は先生の車が去った後、小さく手を振った。

 その日、私は葵に電話するのも忘れて、眠りこけた。

 先生の手の温もりが残っているせいか、私はその日、夢を見ることもなく、どこまでも深い眠りにつくことが出来た。


 翌朝、私は空が死んでから初めて爽やかに目覚めることが出来た。

 嬉しい反面、空への苦しみが少しずつ薄れて行くようでイヤな気分がした。

 早くこの苦しみから逃れたい、解放されたいと願っていた。だが、その辛さからほんの少しでも逃れると自分が薄情だと思う。

 それでもその朝は気分が良かった。睡眠が人にとってこんなに大切なものだったのだとこの時切に感じた。

 学校に着くと、早速藍が心配そうに私に駆け寄って来た。

「雫石、大丈夫なの?」

 「おはよう」の挨拶をすることも忘れていることに藍は気付いていないようだった。

 穏やかな声ではあるけれど、その裏には心配げな表情を隠していた。

「大丈夫」

 藍と言葉を交わすだけで、とても落ち着いた気分になれた。

「昨日はたっぷり眠れた。だから、もう倒れたりしない」

 そう、そう言って藍は柔らかく微笑んだ。

 私も藍みたいに笑えたらいいのに。そんな風に思った。

「昨日はびっくりした。高遠先生がずっと雫石についていてくれていたの。雫石をおぶって、流石におぶって下山は危険だから、二人はロープウェイで下りたけどね。先生、凄く心配していて、片時も雫石から離れようとしないものだから、田邊さんが鋭い目で睨んでたよ」

 田邊さんが……? 田邊さんって誰だっけな?

 私が首を傾げていると、藍がくすりと笑って耳打ちした。

「ほら、あの派手な子だよ」

 ああ、納得。

 あの子まだ先生のことが好きなんだ。

「あんな風に自分の感情を剥き出しにして、本当に可愛らしいよね」

 ころころと笑う藍の方がよっぽど可愛らしいと思うけど。

「でも、先生は雫石が好きなのかもしれないね」

 本当につい口にしてしまったって感じに藍が呟いた。

「はぁ? それはないでしょ。先生なんだし。先生が私をなんてまずない」

 あまりに突拍子のない藍の発言に、口数の少なくなった私もこの時ばかりは饒舌になりそうだった。

「そうかなぁ……。私はそう思うんだけどね」

 藍の第一印象は無邪気で鈍感そうな子供だった。登山をしに行った時には鋭い(オーラの成せる技なのかもしれないが)のかなって思った。だけど、今のは全くの見当違いだ。

 それとも、先生のオーラから何かしら感じる所があったんだろうか。

「ない」

 私は再度きっぱりとそう切り捨てた。その話をこれ以上続けるつもりもないっといった感じに。

「ああ、でもこれだけは言わせて。田邊さん、今は可愛らしい嫉妬で納まっているかもしれないけど、気をつけてね。嫉妬に狂った女は何をするか解らないから」

「う、うん」

 藍の何とも言えない雰囲気に気圧されて私はなんとか頷くことしか出来なかった。やっぱり、無邪気で鈍感な子供ではないようだ……。


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