第6話
私達が二人連れだって教室に戻っても、誰も気に留めなかった。はみ出し者が二人仲良くなった所で誰も気にはしない。興味もないといったところだろう。
その日の放課後、私は3日ぶりに英語準備室に足を向けた。
ノックをして教室に入ると、高遠先生がこちらを振り向いた。
「やっと来たな、待ってたぞ」
明るい声でそう言った。私は無言で席に着いた。
「今日はこれな」
「長文ばっかり……」
長文の問題ばかりのプリントだった。先生は何も言わずに自分の机に戻ってしまった。
私は仕方なくいつもように英文を口に出して読み始めた。長文の問題はわりかし好きだったりする。長文にはしっかりとした内容があるからだ。文法や和訳の問題にはあまりに馬鹿らしい英文を使っている事が多い。なんだこりゃっといったものが。こんな文が日常で使うとはとても考えられないようなもの。
私は長文をもくもくと読みながら、また空の事を考えていた。
「雫石の英語は耳に心地いい。温かい気持ちになるよ。ずっと聞いていたい」
そうやって私が読むのをニコニコしながら頬杖をついて見ていた。そう言われるのが嬉しくて、どんどん読んでいた。今考えれば空におだてられていただけなのかもしれない。
「お前の英語は聞いてて温かい気持ちになるな。ずっと聞いていたいと思わせる何かがある」
空が言った言葉とほぼ同じものだった。ただ、違うのは、それを発したのが高遠先生だったということ。
私は驚きに口をぽかんと開けて先生を見た
「何で……?」
「何でって、お前の英語への感想を述べたんだよ。何かおかしな事でも言ったか?」
驚く私をこれまた驚いた顔をして先生が見ていた。あの言葉を口にしている先生が一瞬空に見えた。私はそれに途惑いを感じていた。この間から度々思っていた事だが、先生は空にどことなく似ている。顔や体型といったものじゃなく、全体の雰囲気、醸し出すオーラ、恐らく根本的な考え方といったもの。たまにどきりと、若しくはぎくりとさせられる。そして、英語。英語に関する接し方や、発音の仕方、知識、教え方といったもの。
私は、先生といるとなんとなく息苦しさを感じる。出来れば近付きたくない。
「どうかしたか?」
深く考え込んでしまった私を不振げに見ていた。
「いえ、何でもない……です」
先生の更にもの問いたげな目から逃れ、再び英文を読み始めた。
本日渡されたプリントをやり終えると、チェックをしてもらった。
「よし、これだけ出来ていれば何の問題もないだろう。今日は帰っていいぞ」
先生の言葉に頷くと、帰る支度をした。
先生の視線を感じて顔を上げる。よく解らない、強いて言えば悲しそうな顔をしていた。どうしてそんな顔をしているんだろう。もしかして、先生は私が恋人を亡くしたことを知っているんじゃないだろうか。私の担任の先生なんだから、私の様子を不思議に思って、中学の時の担任と連絡を取っていたとしても驚きはしない。中学3年の時の担任の先生はお喋り好きな年配の陽気な女性の先生だった。その先生が私はとても好きだったけれど、もし高遠先生がその先生と連絡を取っていたとしたら、空のことは勿論、中学時代の私のことを洗い浚い話してしまうに違いない。
「先生は……何か知ってるの?」
「何かって?」
「……空、のこととか」
「空? 前にもそんなことを言っていたな。空ってあの空のことか?」
先生は天井を指差しそう言った。
「ううん。知らないならいい」
先生はどうやらまだ知らないみたい。でも、いつかは知られるときが来る。それも近い将来に必ず。中学の時に友達だった子はこの学校には来ていない。顔だけは知っているって子が何人かいるだけだ。彼らは私と空が付き合っていたことを当然知っていただろうし、空が死んでしまったことも知っている。その辺から洩れるのも時間の問題だ。
「先生、さようなら」
鞄を持って立ち上がり、先生に背を向けた
がらりとドアを開けたその時千背の微かな呟きを聞いた。
「お前は忘れたいのか?」
え? 振り返り先生を見たが、すでに机に向かっていた。
今のは私の空耳だったんだろうか? 確かに先生の声だったと思ったんだけど……。
もし先生が言った言葉だとしたなら、どういう意味だったのかな。
『お前は忘れたいのか?』
空のことを言っているようにもとれる。空を忘れたいのか? と言われたのだろうか。
先生はやはり何か知っているのかもしれない。知っていて知らないふりをしているのか。
先生に問いかけようと口を開くが、何も言えないまま口を噤んだ。怖かった。先生に同情のこもった目で見られるのは。先生だけじゃない。クラスメートにも、藍にも、両親にも、誰にもそんな目で見て欲しくない。
私は何も言えないまま英語準備室を後にした。
5月に入って、クラスの親睦を深めるっという名目のもと、遠足が催された。
たいして遠くもなく、大して高くもない山を登る。
バスに乗って揺られる事約1時間。バスを降りて大きく深呼吸をした。山はほんの少しひんやりとした空気を吐き出していた。
一応2列に並んで出発したのだが、5分もたたずにその列は見事に崩れていった。気付けば私の隣には藍が歩いていた。
「いつ来た? 気付かなかった」
「今だよ」
にこりと微笑んで見せた。
うちのクラスの最後尾には高遠先生があの派手女達に囲まれていた。
「高遠先生って本当にモテるんだね」
私の視線の先を見て、藍が感心したようにそう言った。
「オジサンなのにね」
私がそう言った瞬間、先生と目が合ってぎくりとした。流石に聞こえていないとは思うけど、その目はじろりとしていて、かなり焦った。
「聞こえたのかな」
「聞こえたのかもしれないよ」
くすくすと小気味良く藍が笑う。藍とだけは、普通に喋れる様になってきていた。ただ、笑わない私を寂しそうに藍が眺めているのを私は知っている。いつの間にか笑い方を忘れてしまったようだった。空の前で、友達の前で、両親の前で、いったい私はどんな風に笑っていたんだろう。何も思い出せなかった。
「雫石? 今日、ちょっと具合悪いんじゃない? 顔色が悪いよ、大丈夫?」
「うん、平気」
笑い方を忘れた私は、こんな時どうしたら友を心配させずに済むか解らない。
本当は平気じゃなかった。眠れない日が続いていた。やっと眠れても空の夢を見て、目が覚める。夢はこれ以上ないほどに幸福で、このまま目覚めなければいいと毎度ながら思う。だが、夢は非情にもそう思った途端に覚める。一度目が覚めたら最後、もう眠れない。私には夜が恐怖でしかない。夢は空に会える唯一の場所であると共に、私を奈落に底に貶めるイヤな場所でもあった。目が覚めた後の苦しみを何度経験しても、私はいつも空に会いに行かずにはいられない。もしかしたら私は一歩一歩死に近付いていっているのかもしれない。それならそれでもいいと私は思っている。寧ろそう願っているのかもしれない。
「私ね、少し霊感があるの」
そんな私の暗い思考を知ってか知らずか、突然そんなことを言った。
え? とぼっとしていた私は素っ頓狂な声を上げた。
「霊感がね、あるの。霊が見える時もあるけど、それよりも人のオーラみたいなものが見えるの」
「オーラ?」
覚悟を決めたように、藍は私の瞳を覗き込んで強く頷いた。