第5話
「ああ、嫌がらせ。あの嫌がらせは、浅野さんにとっては嫌がらせの意味を持っていないだろうし、私がそれに巻き込まれた所で別に気にしないし」
見た目が小学生で表情が純真無垢だからと言って侮っていたのかもしれない。キョトンとした目で問いかけられた時、もしかしたら、彼女はそんな事実さえ解らない超天然系の子だろうと勝手に勘違いしていた。
彼女は私があの嫌がらせを屁とも思っていないことを百も承知だった。そして、彼女がその嫌がらせをされたからといって傷つくことはまずないということだ。
見た目とは裏腹に鋭い洞察力を持っているのだろうか。今度は私の方がキョトンとした目をする番になった。
「別にいいならいいけど」
私がそう言うと彼女はにこりと微笑んだ。
彼女が高校生活をどんな風に暮らしているのかは知らないが、苛められるタイプじゃないような気がする。可愛らしくて愛想が良い、あんな可愛らしい表情で微笑まれたら、苛める気もなくすような気がする。彼女の嫌がらせをされるのには慣れているっといった感じの言葉のニュアンスが少し気になった。
得体の知れない子だ。
そんな彼女が何かをしきりに見ているのに気付いた。そして、何かに触れようと手を伸ばしている。その先にあるのは、私と空が写った写真立て。それは私にとっての地雷だった。触れて欲しくはないものだった。
「触んないでっ!」
北村さんが触れようとしていた写真立てを引っ手繰るように取り、胸に抱いた。
「ごめんね。気になったからつい……。本当にごめんね」
泣きそうな北村さんの声が聞こえるが、私は下を向いて北村さんを見ようとはしなかった。
「帰って……。もう、帰って! 私のことは放っておいてよ」
私の怒声を聞き付けて、母が部屋に入って来た。
「どうしたの? 大丈夫?」
「何でもない。北村さんはもう帰るから」
それだけ投げ捨てるように言って、布団を頭から被った。布団を被る瞬間のほんの一時横目でちらりと見た彼女の顔には涙が浮かんで、苦しそうに歪んでいた。彼女の鼻を啜る音が僅かに聞こえて来た。泣かせてしまった。癒しの笑顔を涙で濡らしてしまった。後味の悪さだけが心に残った。彼女は何も悪くない。彼女は何も知らないのだから。
母に促されて、北村さんが出て行くのが気配で分かった。罪悪感が私を支配していた。
翌日、学校に行くと、北村さんが私に寄って来ようとしたが、私はそれを素知らぬ感じで避けた。確かに顔を合わせづらかったというのはあるが、最大の理由はあの派手な女がイヤな目をしてこちらを窺っていたからだ。北村さんを巻き込みたくはなかった。
その日、一時間目が英語だったので、ホームルームが終わると速やかに席を立った。天気が素晴らしく良かったので、プレハブの裏手で日向ぼっこをしながら本を読み進めていた。
暫くすると本に影が落ちた。突然雲が出て来たのかと上を向くと、そこには北村さんが立っていた。
「なんで?」
……ここに?
もう一時間目はとっくに始まっている。北村さんは授業をサボるタイプの子じゃない。
「昨日、浅野さん怒らせてしまったし、今日も避けられたから、もう一度謝りたくて。ごめんなさい」
「別にもう怒ってなんかない。今朝のは派手な女が見てたから。それだけ。授業サボったの?」
え? と目を大きく開けて、自分の腕時計を見た。あっと小さな声で叫んだ。チャイムに気づいていなかったんだ。
「どうしよう……」
北村さんが急にしょんぼりとした顔をするので、私は心の中で苦笑した。
「もうどうしようもない。二時間目から出ればいい」
「うん、そうだね。そうする」
何て言うか、立ち直りが早いというか、何だか憎めない子だな。突然、土足で私の心の中に入って来たんだけど、それを嫌だと思っていない自分がいた。正直言って、空の写真を触れようとした時には反射的に怒鳴ってしまったが、本当のところ私はそんなに怒っていなかった。寧ろ、彼女になら空のことを話してしまいたいと感じた。
本当に変な子。だけど、憎めない。
そして彼女の中には、私には知りえないような闇があるような気がする。
「浅野さん。私、浅野さんと友達になりたいの、いいかな?」
私は目を丸くして北村さんの顔を眺めていた。
「取り敢えず、座ったら?」
にこりと頷いて私の隣りに腰をおろした。
「で、何で私と何か?」
友達になりたいなんて思ったの? 普通なら私みたいなのは避けるんじゃないのかな。
「あのね、また怒らせちゃったらごめんね。私、浅野さんを見ていて思ったの。この人は何かとっても重い物を抱えていて、他人を寄せ付けないようにつんけんしているけど、本当の本質は、とっても優しくて可愛い、そして明るい女の子なんじゃないかなって」
北村さんは一体何を見てそう思ったんだろうか?
普通は私の上辺しか見ない。今のクラスメートはみんな私をイヤな女だと思っている。普通ならみんなそう思うんだ。誰も私の内面まで見ようなんて考えない。私に何かあるなんて考えない。もしかしたら、クラスメート達は自分の友達だと思っている子に対してでさえも上辺でしか付き合っていないのかもしれない。
今の私も誰の内面も見ようとはしない。空を亡くしてからずっと……。
私は空と同じ名前を持つ、真っ青な空を見上げた。あの青い空の中に空がいるような気がした。あの青い空の上から私を見ていてくれる気がした。
私が空に手が届くなら、迷わずキスをするのに……。
「怒らない、別に。確かに今の私は本当の私、というより以前の私じゃない。だけど今はこうでもしなきゃ……」
こうでもしなきゃ、暮らせない。一日だって、多分無理なんだ。一日だって生きていけない。騙し騙し一日一日を何とか生きている。
人一人が死ぬってことは、こんなにもずっしりと重い。それが、大切な人なら尚更に重い。重さで潰されそうになりながら、私は今日も何とか生きて行かないといけない。
「友達になってもいい?」
再度北村さんが私に問いかけた。
「勝手にしたら」
ついこの間までの私だったら、容赦なく切り捨てていただろうと思う。冗談じゃない、と。どの時点で、どんな風に気持ちの変化が起きたのか私には解らない。ただ、北村さんなら、いいのかもしれない、とそう思ったのだ。空もきっと、北村さんなら喜んでくれるんじゃないか。そう思った。
「本当? 嬉しい」
純粋に嬉しさを表情に浮かべていた。私と友達になったくらいで、こんなに嬉しそうにして、変な子。
「他に友達いないの?」
「うん、いないよ。私、変な子だと思われてるから誰も私のことなんて相手にしないの。昔からだから、気にしてないけどね」
まるで何でもないことのように、微笑を湛えて淡々とそう言った。
北村さんもまた何か重い物を抱えているのだろうか。
「似た者同士……」
ぼそりと口の中で呟いた。私達はクラスのはみ出し者なんだ。でも、そんなのどうでもいい気がした。誰になんて思われようがなんとも思わない。
「昨日……。怒鳴ってごめん。あの写真の彼……ね。私の……」
私の言葉の途中で、北村さんは人差指を立てて、しっーと唇を尖らせた。そして、静かに首を横に振った。
その話は、まだする時じゃない。だから、今は黙って。
そう言われた様な気がした。確かに、私の口から直接誰かに空の話をするのは早いのかもしれない。まだ、上手く話せないかもしれない。そんな私の気持ちを北村さんは知っているようだった。
私が口を噤むと、こくっこくっと二度頷いて、微笑んだ。
北村さんの笑顔はやっぱり凄い。見ると心が和む。人に優しい言葉が掛けられるような気さえしてくる。こんな私でさえも。
北村さんと一緒にいたなら、笑顔を失った私にもいつか再び笑顔が戻って来る日が来るような気がする。そんな微かな希望の光が芽生えたように思えた。
「浅野さんのこと名前で呼んでもいい?」
うん、と無愛想に頷いた。照れ隠しにすぎないけど。
「雫石ちゃん。可愛い名前だよね。私のことも藍って呼んでね」
解った、とこれまた無愛想に言った。
そして、空を見上げた。
ねぇ、空。私、友達が出来たみたい。高校入って初めての友達、上手くやっていけるかなんて解んないけど、見守っててよね。
その時、一時間目の終りのチャイムが鳴った。そのチャイムが空の返事のような気がして驚いた。
良かったな。頑張れよ、雫石。