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雨の雫  作者: 海堂莉子
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第4話

 ちらりと先生の背中を見た。

 広くて大きな背中は、空にはなかったものだ。空もけして小さいわけではなかったが、まだ成長過程だった。もし、生きていたら先生よりも大きな背中になっていたかもしれない。

「どうかしたか?」

 私のシャーペンを動かす音がしばらく止まったので、解らない所でもあったと思われたみたいだった。

「いえ」

 慌ててプリントに目を落とした。

 プリントをやっていて、久しぶりに英語の勉強をしていて解ったことがある。確かに、空を思い出して胸が潰れるほどに苦しい。だけど、やっぱり私は英語が好きなんだ。苦しいのに、嬉しくて、悲しいのに、ワクワクした。英語の新しい知識を身につける度に私の胸は躍った。

 気付いたらプリントに載っていた長文問題の文章を読んでいた。空と勉強していた時は、こうやって文章を口に出して読んでいた。口に出した方がより英文を理解出来た。テストの時は心の中で読んでいたけれど。

 ちょっと詰まった。知らない単語が出て来て、発音が解らなかった。こんな時は、空がそっと教えてくれていた。

 その空はもういない……。

 急に現実を突き付けられた気がして、呼吸をするのも困難なほど苦しくなった。

「establish だ」

 顔を上げると、先生がこちらを見ていた。

「続けて」

 私はその単語を先生が発音したとおりに発音して、先を続けた。所々解らない単語があったが、全体の文章の意味は解った。

「奇麗な発音だ。留学経験があるのか?」

「いえ」

「お前はいつも秘密主義だな」

「別に」

 先生と慣れ合いになるのは真っ平ごめんだ。自分のことを誰に知ってもらわなくても構わない。私だって誰のことも知りたいなんて思わない。

 秘密主義なつもりはない。

 だが、答えたくないのは秘密主義になるのか。私が知られたくないのは、空のこと。間違っても恋人を亡くした哀れな子だなんて思われたくはない。自分自身を哀れだと感じたとしても、他人からは思われたくはない。ならば、友達を作って、笑って、何もなかったように生活するべきなのだ。空を亡くした事実がまるでなかったように。それは頭の中で理解していても、今の私には出来そうになかった。私は弱くて、我儘で、自分勝手で、情けない人間なのだ。何も出来ない。立ち上がることも、どん底まで落ち着ることすら出来ない。どこまでも宙ぶらりんな私。どうしたいのか、どうすべきなのか、それすら解らない。

「何をそんなに怖がっているんだ? 何をそんなに悲しんでる? 俺で良かったら話してみないか。少しは楽になるかもしれないぞ」

 楽になる? この苦しみが誰かに話しただけで、楽になると言ってるの? 馬鹿言わないでよっ! そんなのあるわけないじゃない。楽になんてならない。絶対に……。

「話して楽になることならとっくに誰かに話してる。楽になんかならない。そんなことしても空は帰って来ない!」

「空?」

 思わず余計なことまで話してしまったと口を噤んだ。そして、私は鞄も何も持たずに英語準備室から逃げ出した。先生から逃げ出すのは、これで二度目だ。

 もう学校には来たくない。辞めてしまおうか、いっそ不登校になってしまおうか。

 甘くて苦い誘惑が頭を過ぎる。何もかもから逃げ出してしまおうか。それが出来たらどんなにか楽だろう。だけど、結局それをしないことを私は知っている。

 汗を流しながら学校を出て、擦れ違う同学年くらいの男の子を見ては振り返る。

 空に髪型が似ていた……。後姿が似ていた……。仕草が似ていた……。

 敏感にそれを見つけるのにその中に本物はいない。そんな事は解りきっているのに、探さずにはいられない。


 私は翌日から3日休んだ。別にずる休みではない。熱が出た。知恵熱かもしれない。

「雫石。学校のお友達が来てくれているの。通してもいい? 北村 藍さんって子だけど」

 部屋で寝ていたら、母に声をかけられた。

「誰にも会いたくない」

 そう、と母の少しがっかりした声が聞こえてくる。私に出来た初めての友達だとか思ったのだろう。だが、残念ながら私に友達などいない。恐らく高遠先生に無理矢理頼まれて厭々来たに違いない。そんな人に会った所で楽しいわけがない。お互いに。しかも、北村藍って誰? 同じクラスなんだろうけど、初めて聞く名前だ。一度断ればもう来ないだろう。

 そう思っていたのだが、次の日もその子は訪ねて来た。同じ子だったらしい。

 一体誰が私に会いに来る。いや、会いに来るというよりも、来させられているのだろうが。先生に逆らえない気弱な子なのかもしれない。ドジな子。私は顔も知らないその子に同情した。私はクラスメートの顔を誰一人として覚えていない。勿論、名前も。いや、でも初日に話し掛けて来た派手な女の顔だけは覚えている。残念なことに、名前はすっかり忘れてしまった。

 その日も私はその子とは会わなかった。

 そして、3日目もその子は現れた、私の前に。その子が来た時、私は眠っていた、ぐっすりと。母が声をかけたことも、その子が部屋に入って来た事すら気付かなかった。その子が私の寝顔をどのくらい見ていたのかは知らない。

 私が目を覚ました時、私の顔を覗き込む幼い顔を持つ少女が立っていた。私は驚いてがばりと起き上がった。

「誰?」

「あっ、ごめんね。私、同じクラスの北村藍。おばさんに無理言って入れて貰ったの。どうしても顔が見たかったから」

「先生に無理矢理頼まれたんでしょ?」

 乱れた髪を手ぐしで撫でながら、興味無さそうに言った。

「ううん。私が先生に頼んだの。行かせてくださいって」

「何で?」

「私ね、御礼が言いたかったの。浅野さんが初めて登校した日の朝、私男の人に絡まれたの。そこを浅野さんが助けてくれた。颯爽と現れて、『ほら、何してんの、行くよ』って私の手を引いて逃げてくれた。男の人たちから逃げられたら『もう、危ないから早く学校に行きな』って言ってくれた。あの時、足が竦むほど怖かったの。自分の足で逃げることも出来なかった。横を通り過ぎる人たちは、忙しいのと巻き込まれたくないのとで誰も私を助けてくれようとはしてくれなかった。だから、手を引いてくれて本当に嬉しかった。中々御礼を言うチャンスがなくて、遅くなってしまったけど、あの時、助けてくれてありがとう」

 確かにそんな事があった。がらの悪そうな男たちが女の子に絡んでいて、私はその子の手を引いて逃げた。別に助けるつもりじゃなくて、体が勝手に動いていたのだ。私はあの時、助けた少女は小学生なんだと思っていた。制服すら目に入っていなかった。彼女は制服を着ていなければ、小学生に見える。いや、制服を着ていても尚小学生に見えてしまう。

「別に御礼なんていらない」

「そう? でも、本当にありがとう。それで、これ。宿題とかノートのコピーとか持って来たよ」

 ベッドの上に渡されたプリントが重なって行く。

「ありがと」

 蚊の鳴くような小さな声でごにょごにょと呟いた。彼女はとても嬉しそうに微笑んだ。その笑顔には癒しの力があるのかも知れない。一瞬、胸のあたりがふんわりと暖かくなった。とても同い年には見えない超童顔な少女だった。

「北村さんだっけ?」 

 私が口を開くと嬉しそうに頷いた。そのさまは本当に小学生のように純粋で無垢な感じがした。

「学校では私に話し掛けない方がいい」

「どうして?」

 キョトンとした目をして、首を傾げた。本当に解らないっといった表情をしていた。

「どうしてって、あの名前忘れたけど派手な女が私と係るとあなたにも嫌がらせをしてくるかもしれない」

「ああ、嫌がらせ。あの嫌がらせは、浅野さんにとっては嫌がらせの意味を持っていないだろうし、私がそれに巻き込まれた所で何の意味を持たないよ」

 

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