第3話
「先生に、私の気持ちなんて解るわけないよ……。大っ嫌い、馬鹿っ」
力一杯怒鳴り散らしてプレハブを後にした。
先生が追って来る気配はない。私は鞄を教室に取りに行くのも億劫で、そのまま学校を出た。傘をさすのも面倒で濡れたまま家に帰った。
家に帰って、母に何故びしょ濡れなのかと怒られたが、私の顔を見たら、何も言わなくなった。代わりに優しくシャワーを浴びてらっしゃい、と言われただけだった。
父も母も腫れものに触れるみたいに私に接する。母なんか私の目を怯えたような目で見ている。そんな母の目がウザい。父の妙に優しい声がウザくて仕方ない。
普通にしていて欲しいのに。前みたいに普通に……。
だが、それも無理な相談なのかもしれない。この私がそもそもの原因なんだから。
翌日の放課後、私は高遠先生に職員室に呼び出された。
「何でしょうか?」
自分のデスクで日誌を見ていた先生が私の声に振り向いた。
「お前、英語の授業にはずっと出ないつもりか?」
私はそれには答えずに先生から目を逸らした。
「そうか。出ないつもりなんだな。じゃあ、お前には英語の補習を受けて貰おう」
「補習?」
私は逸らしていた目を先生に戻しそう問いかけた。先生はにやりと笑って頷いた。
「そうだ。授業も受けないで、テストはどうする?」
「勉強なら家で出来る」
「自分で出来て、テストもそれなりにいい点を取れたとしても、俺は授業に出ない奴に成績は付けられない。だが、補習を受けるなら授業に出たとみなそう」
これじゃまるで脅迫だ。横暴な提案に私は腹を立てた。それでも、いつまでも逃げ回っているわけにはいかないのも解っていた。
元来、私は至極真面目な人間なのだ。中学時代に授業をサボった経験は一度たりともない。空を失って気持ちが愕然としていて、学校なんて、授業なんて、勉強なんてといくら思っていても、結局授業には出ていた。英語を除いては。
「読まない?」
ん? と先生は聞いた。
「英語……、読んだりしない?」
一瞬、何が言いたいのか解らないといった顔をしたが、すぐにそれも笑顔に変わった。
「授業じゃないからな、読まないよ。俺が英語を読むのがイヤなのか?」
私は黙って頷いた。
「じゃあ、やる」
小さく私は呟くと、先生は嬉しそうに笑った。その笑顔はとても幼く見えて、私を戸惑わせた。こんなに無邪気に笑う大人を私は知らない。
「それじゃあ、明日からやるからな。英語準備室に放課後来いな。くれぐれも逃げないように」
「はい」
消え入るような返事をして、私はその場から辞した。
正直、英語を見ること自体まだしんどい。だが、今は、従っておいた方がいいような気がした。間違っても留年なんてことにならないにしても。
先生の宣言通り、その補習は翌日から始められた。
逃げたくて仕方なかったが、取り敢えず重い足を引き摺って英語準備室のドアをノックした。
「はい、どうぞ」
という先生の声を聞いて、観念してドアを開けた。
中に入るのを一瞬躊躇したが、先生の、どうした?、という声に引き込まれるように準備室の中に足を踏み入れた。
「失礼します」
口の中でごにょごにょとそれだけ言った。
英語準備室。一言で言って狭い。先生のデスクが一つ、いや奥にもう一つあるだろうか。それから、先生のデスクの手前に生徒用の机が一つ置かれていた。恐らくどこかから調達して来たであろうその机があるが為に殆ど足場がない状態になっていた。
「狭っ」
思わず本音がぽろりと零れ落ちた。
「贅沢言うなよ。とにかく座れ。取り敢えずお前がどのくらい理解しているのか知りたいから、この問題を解いてみろ」
私は黙って頷き、机に着くと、筆記用具を出して問題を解き始めた。
「制限時間は30分な」
先生の声が半ば遠い所から聞こえてくるような気がした。
まともに英語を見るのは随分久しぶりな気がした。英語には、空との思い出が多すぎた。放課後のみんなが帰った後の教室で、私達はいつも一緒に英語の勉強をしていた。空は中学に上がるまでアメリカに住んでいた。帰国子女で英語がペラペラな空は会話には何の問題もないのだが、英語のテストの点数は予想以上に悪かった。
「日本の文法は難しすぎるんだよ。アメリカ人はこんなこといちいち考えて話してなんかいないんだ。こんなの出来ても話せないんじゃ意味ないよな」
これが空の口癖だった。少し膨れた顔をして、いつもそう言っていた。私はいつもその顔を見るのが好きで、笑って見ていた。私が笑うと膨れていた空も結局笑顔に変わって行く。その膨れ顔から笑顔に変わって行く様を見るのが堪らなく好きだった。
空は文句を言っていたけれど、文法をやらないことには点数が取れないので、私が文法を教え、空は私に会話を教えてくれた。
文法の一つ一つに空の膨れ顔が浮かんでくる。鮮やかに浮かんでくる空の表情。まだ、英文を見ているだけでこんなにも苦しい。
想い出があり過ぎた。
私は回らない頭で問題を解きながら、空のことばかり考えていた。
「……終わりました」
シャーペンを置いて、先生に声をかけた。
私の呼びかけに振り向いた先生が私を見て、驚いたように一瞬目を見開いた。
「拭いたらどうだ?」
「は?」
「……涙」
えっ?
自分の頬に触れると、生暖かい水が手を濡らした。
まただ……。空が死んでから、こうやって無意識に涙が零れている。流石に先生の前でこんなに無防備に泣いてしまうなんて思いもしなかった。
「あっ、すみません。欠伸したから」
「そうか。ほらっ」
先生は私のしょうもない言い訳を信じたふりをして、ティッシュの箱を渡してくれた。
「丸付けるからちょっと待ってろ」
そう言って先生は再び背中を向ける。
「ありがと……ございます」
先生がその涙について突っ込んで聞いてこないのには助かった。先生が背中を向けてくれているのにも助かった。
5分後、先生が丸付けを終えて振り向くまでに、私の涙が乾くのに十分な時間だった。
先生に手渡された問題用紙を受け取った。点数は98点だった。あまりに朦朧としていて、自分で問題を解いた記憶がない。
「入試試験で、英語のテストが満点だったのが二人いたそうだ。その一人がお前だった。こんなに出来るから授業に出る必要はないだろうって思っているのか?」
私は返事をせずに俯いていた。
別にそんな風に思ってなんかいない。英語は寧ろ大好きで、だからこそ私と空と英語との関係が強すぎたんだ。好きだけど、苦しい。英語と空は言わばイコールで繋がれている関係なのだから。よく空と話していた。いつか英語関係の仕事に就きたいねって。空は通訳家に、私は翻訳家になるのが夢だった。それも無理な夢なのかもしれない。空は通訳家には絶対になれないし、恐らく私も……。
「まあ、いいだろう。今日はこれとこのプリントをやって。終わったらチェックするからな」
先生に渡されたプリントを解き始めた。
私は英語に関して、どうにかすべきなんだと思う。流石にこのままじゃいけない。英語を見ても涙を流さない努力が必要だと思う。この先、授業をいつまでもサボるわけにはいかない。高遠先生は補習を受けることでなんとか許してくれたかもしれない、それだっていつまで補習だけで許してくれるかも解らない。進級して英語の担当の先生が変わってしまったなら、高遠先生のようには甘くないだろう。成績をつけて貰えないかもしれない。私は、それが怖い。私は翻訳家になれないかもしれない。そう思っているのに、現実的な私は大学に行く為には英語は頑張らないといけないと思っている。空を亡くして、希望を失っている私なのに、どこか別の所に現実的な私がいて、それじゃ駄目だって常に言ってる。そんな自分がイヤになる。深い闇の中にいて、それでも希望を持とうとする自分が。自分の人生なんてどうでもいいと言いながら、きちんと大学を受ける為に授業に出ようとしている私が。空を蔑ろにしているような気がして。薄情な自分に吐き気がする。