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雨の雫  作者: 海堂莉子
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第26話

「雫石ちゃん、ほら見て」

 美代さんが指さす方を見ると、そこには先生がいた。一階の渡り廊下の所からこちらをちらちらと窺っていた。私達が先生の存在に気づいていることなど恐らく先生は気付いていない。

「あなたのことが心配なのね。私がここで、あなたを引っ叩く真似をしたらきっと飛んで来るんじゃないかしら」

 そして、私ににやりと何か悪巧みを企んでいるような笑みを向けると、私にウィンクして、右手を振り上げた。そのウィンクは、打たれた振りに付き合ってと言っているのだった。私が小さく頷くと、右手が一気に下りて来て、本当に打たれそうな気がして身構え、そして少しよろけた。その後、右の頬を押さえた。

「上出来っ」

 美代さんが鼻歌交じりにそう言った。

 私は振りをしたわけではなかった。打たれると思った瞬間、本気で体が硬直してよろめいた。そして、美代さんの右手が振り下ろされた後、私は本当に打たれた様な気がして、右の頬を押さえた。実際には打たれてはいないのだけれど、本当に打たれたみたいだった。美代さんは、本当は私を思いっきり打ちたいと思っているのかもしれない。その想いが私の頬に衝撃を与えたのかもしれない。痛みなんかない。だけど、衝撃があったように思う。

「さて、何分でここまで辿り着けるか計ってみようかな。雫石ちゃんは何分くらいかかると思う?」

 その声に、漸く衝撃から立ち直った私は、フェンス越しから先生の姿を探したが、既にそこには先生の姿はなかった。本当に先生は屋上に駆けつけるんだろうか。今の二人のやり取りを見ていなかったんじゃないだろうか。

「ねぇ、雫石ちゃん。何分だと思う?」

 再び問いかけられて、え?としか答えられない私を、美代さんは、クスクスと笑いながら見ていた。

「私はね、5分くらいで来るんじゃないかと思うのよね」

 美代さんは、楽しそうに先生が来るのを待ちわびていた。

 私は、先生がそんな早く来るとは思えなかったし、下手すれば(見ていなかったら)来ないんじゃないかと思った。だけど、心のどこかでは先生の慌てる姿を見たいというちょっとした期待が胸の中にあったのは否定出来なかった。


 暫くして、バタバタと階段を駆け上がって来る足音が聞こえて来た。

「おっ、来たみたいね」

 美代さんがそう言った瞬間、凄まじい音を立てて、扉が乱暴に開き、先生が息せき切って駆け込んで来た。

 先生は私のもとに駆け寄ると、私の頬を優しく撫でた。

「痛くないか?」

 先生の勢いに気圧されてどう答えていいか解らず、美代さんを見た。その視線を辿り先生も美代さんに目を向ける。先生の目が、心配そうな目から、怒りの目へと変貌していく様を私は瞬きも忘れて見ていた。

「美代、お前何してんだ。やっていいことと悪いことの区別もつかないのか、お前は?」

 言葉は普段と変わらないようにも思えるが、その中に隠されている静かな怒りは怒鳴り散らすよりもさらにその度合いの強さを感じさせるものだった。いつ先生が美代さんを叩いてもおかしくないようなそんな張りつめた空気が流れていた。そして、美代さんの方はというと、その挑戦的な笑みから先生の感情を逆なでするような何かを言い出しそうなイヤな気配を感じた。

「先生っ! 違うのっ。違うんだってばっ」

 先生の左手をグイッと引っ張り強引にこちらに向かせた。

「美代さんは私を叩いてなんかいないよ。ほらっ、頬っぺた腫れてないでしょ? よく見てっ」

 私は先生の顔を両手で挟み、自分の顔の目まで強引に引き寄せた。目を丸くした先生の瞳をじっと見つめる。

「解った? 美代さんは何にもしていないの」

 私がそう言うと、隣から美代さんの軽快な笑い声が聞こえて来た。

「ごめんごめん、伊吹。私は雫石ちゃんを叩いてないよ。これは誓って言える。あなたがこっそり下から覗いているから悪戯してみたのよ」

 本当か? という目を先生が私に向ける。私は大きく頷いて見せた。やっとほっとしたのか先生は肩の力を抜いた。私は先生の顔から手を放すと先生に微笑んだ。

「だが、美代。悪い冗談が過ぎるぞ」

「悪かったわよ。もう、しないわ」

 当たり前だ、と先生は美代さんに言ったが、そこにはさっきのような怒気は含まれていなかった。

「それにしても速かったわね。あなた下からたったの3分で来たわよ。よっぽど雫石ちゃんが大切なのね」

「当たり前だ」

 照れも恥ずかしめもなく先生は当然のようにそう言った。言われたこちらが赤面してしまったのは言うまでもない。

「イヤあね。私の前で堂々と惚気ないでよっ、鬱陶しい。もう、私帰るわ。雫石ちゃん、またね」

 美代さんは手をひらひらと振って、颯爽と歩いて行った。その背中は奇麗に伸びて美しかった。

「先生っ! さようなら」

 私は咄嗟にそれだけ言うと美代さんは再び右手をひらひらとさせたが、振り返ることはなかった。

「行っちゃった」

 その言葉はひゅぅっと吹いて来た風に吹き飛ばされるように消えて行った。

「ああ」

 先生の低い声が風に運ばれて耳に届いた。

「先生。私、美代さんと初めて向き合えたんだと思う」

「ああ、そうだな」

 私はこっそり先生の横顔を窺った。そして、くすりと笑った。

「先生。心配してくれてありがとう。疲れたでしょ?」

「ああ」

 さっきから「ああ」しか言わないのは、相当疲れている証拠。見た感じでも若干ぐったりしているのが窺える。先生はフェンスにもたれて腰を降ろした。

「飲み物買ってこようか?」

 フェンスにもたれてだるそうに顔を天に向けている先生の前で中腰になって、首を傾げた。

「いい。ちょっと休ませてくれ。心臓が痛い」

「嘘っ、心臓が? そんなに苦しいの? どうしよう。先生、死んじゃイヤだよ」

 急に怖くなって先生の前にぺたんと座りこんで、先生の顔を半べそになりながら見上げた。先生の表情が青白かったのと、だるそうなのを見ていたら、本当にこのまま先生が死んでしまいそうな気がして怖かった。本当に元気な人が突然死ぬことがあると身を持って経験している私にとって、先生がほんの少しでも具合悪そうにしていると急にイヤな想像をしてしまう。

「馬鹿、俺は死なないよ。ただ、心配のしすぎで心臓が痛いだけだ。ったく、美代の奴、全く悪い冗談だ」

 私の頭をくしゃくしゃしながら苦笑いを浮かべる。

「ごめんね」

 美代さんの悪戯に加担してしまった事を今になって後悔していた。さっきまでは、先生が想像以上の速さで、怒りを隠しもせずに私を心配して来てくれたことが私には心底嬉しかった。でも、先生の青白い顔を見ていると、早まったことをしたと思わざるを得なかった。

「そう思うなら、もう少しここにいてくれ」

 私の手に先生のその大きな手を添えて言った。

「そんなことなら任せて」

 自分でも満点に近い笑顔を私は作って見せた。

 静かな屋上に二人。見上げる空は手が届きそうなほどに近く感じた。二人を包み込むように優しい風が吹き抜ける。きっと、空が見てる。私達を見守っている。そんな気がした。

「今、空がここにいるような気がするな。空に守られてる気がする」

 先生にも感じたんだ。空の優しい気配を。

 私は微笑み、頷いた。

 先生は、腕を大きく広げて空気を一杯に吸い込んだ。

「よしっ、じゃあ、そろそろ帰るか」

 勢い良く立ち上がった先生は、私の頭をトンと一つ叩いた。

 屋上を出る時、私はくるりと振り返った。そこに笑顔の空がいたような気がして、手を振った。


いつもお読み頂いて有難うございます。

次回、最終話になります。

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