第25話
私が部屋に駆け込み、ベッドに戻って暫くたってから先生が飲み物と林檎を持って部屋に入って来た。
「食べるか?」
頭まで布団を被っていた私は顔の半分までひょこんと出すと、
「食べる」
と呟いた。
「雫石。大丈夫だから出ておいで」
猫を懐かせようとするように私を布団から出そうと優しくて甘い声で私を誘惑する。だけど、私の頭はきっとさっきよりもくしゃくしゃでとても先生には見せられないのだ。
「雫石。大人しく出といで。俺が髪の手梳いてやるから」
先生の甘い声に誘われるように私は頭を全部出し、おずおずと起き上がった。
「雫石が思っているほど酷く乱れているわけじゃないよ。大丈夫だ。多少髪の毛が乱れていたって雫石は十分可愛いよ」
「私、先生に可愛いとか言われたの初めてかもしれない」
うん、多分そんなこと一度だって言われたことないと思う。言われても一度くらいなものだ。
「いつも可愛いと思ってるよ。だけど、先生の俺がそんな事言ったら、雫石はセクハラだとかって大袈裟に言うだろ?」
先生に櫛で髪を梳かして貰いながら、確かにそんな事言われたらセクハラだとからかうかもしれない。だけど、それは単なる照れ隠しによるものなのだけれど。
「ねえ、先生。今度の日曜日、付き合って欲しいんだけど」
「……空の墓参りか?」
「うん。どうして解るの?」
先生はいつだって私の考えてることをお見通しだ。
「ははっ、雫石は解り易いからな。大体の行動パターンが決まってる。俺と雫石がこうなったら、必ず空に報告するだろうと思ったんだ。墓参りには俺も行こうと思っていたしな」
うん、と私は頷いた。
「よし、奇麗になったぞ」
先生に梳いて貰った髪は凄くさらさらしていた。
「ありがとう」
私が笑顔で言うと、先生は満足そうに頷いた。
次の日の金曜日には、私は元気に登校した。
私の表情を一目見て藍は、
「良かったね」
と開口一番そう言った。恐らく藍には私を一目見ただけで、全て解ってしまうだろうことは解っていた。
「ありがとう」
藍は自分のことのように喜んでいた。外見上はあからさまにはしないけど、私にはその表情の小さな変化で藍が喜んでくれているのが解る。私にはオーラなんて大それたものは見えないけど、それくらいは解るから。
その日の4時間目は英語の授業だった。
美代さんにどんな顔をして会えばいいのか正直不安で仕方なかった。
美代さんの教育実習は今日で最後だ。今日は最初から最後まで美代さんが授業を行う。先生は教室の後ろでその様子を腕を組んで見ていた。
美代さんの授業は解りやすく、面白く、生徒が飽きないような工夫がなされていた。きっと教師になったら先生をしのぐほどの人気者になるに違いない。
授業中、美代さんが私を見ることは一度としてなかった。授業の最後に当たり障りのない短い挨拶をして、笑顔を残して去って行った。
「星先生っ」
私は教室をいち早く出て、美代さんを呼んだ。美代さんは振り返り、私を見ると、小さい微笑みを見せてくれた。その目には以前のような鋭さは消えているような気がしたのは私の気のせいだろうか。
「放課後、準備室に来るでしょ?」
それは、準備室に来てねと言っているように聞こえた。私が小さく頷くと、再び小さな笑顔を浮かべてその場を立ち去った。
美代さんとは一度きちんと話がしたかった。それがどんな結果を呼ぶとしても、私達には必要なことに思えた。必要だと考えているのは私だけなのかもしれないが。
そして、放課後。
英語準備室に向かう廊下で、坂本君に出逢った。
「ふ~ん。上手くいったんだ? つまんないねぇ」
坂本君はその言葉の通り、本当につまらなそうに言った。
「何で解るのかな?」
「そりゃ解るでしょう。表情が全然違うんだから」
何だろう……。顔に締まりがなくなってしまってるんだろうか? 想像するとちょっと怖い気がする。
「まあ、頑張って。でも、先生と上手くいかなくなったらいつでも俺んとこおいでよ。俺はいつまでも君が好きなんだから」
「もう、そういう冗談は効かないよ。坂本君の悪い癖だって解ってるんだから」
「そっか、そりゃ残念だ」
二人、顔を合わせて軽く笑った。
「坂本く~ん。マイダーリン。あれ、どうして雫石と一緒にいるの?」
明日香に坂本君といる所を見つかってしまって、ヤバいと思った。
相変わらず、明日香は小躍りしながら我々の前に姿を現したのだが、その動作がぴたりと止み、私を疑わしげな目で見ている。
「坂本君がね。明日香のことを知りたいって私に聞いて来たのよ」
隣で微かに坂本君が、えっ?、と呟いたのが聞こえた。
ごめん。坂本君、許して。でも、自分の身の方が断然可愛いのだ。
「まあぁ、坂本君ったら、私のことだったらいつでも私本人が何でも答えてあげるのに、さあ、どこか二人になれる所に行って、二人の将来のことについて語り合いましょっ」
明日香は、強引に坂本君の腕を掴むとぐいぐいと引っ張って行った。
坂本君がこちらに助けを求める視線を送って来たが、私はそれに笑顔で返し、手を振っていた。
「こうしてきちんとあなたと向かい合うのは初めてね」
誰もいない屋上。隣には奇麗な長い髪をなびかせた美代さんが立っている。二人肩を並べ、校庭で部活をしている生徒の姿を何の気なしに見ていた。
「そうですね。私はずっと美代さんに嫌われていると思っていました」
私がそう言うと、美代さんはこちらをちらりと窺った後、再び正面に顔を戻した。
「私ね、伊吹のことが凄く好きだったのよ。伊吹は高校の2コ上の先輩で、私はずっと好きだった。たまたま友達のお兄さんが伊吹と友達で、その友達の家で初めて言葉を交わした。緊張で声が震えたし、どんな話をしたのかまるきり思い出せないの。頭が真っ白になってしまったのね。伊吹はモテる人だったから私なんて到底相手にされないと思っていた。だけど、どうしても好きで気持ちが抑えられなくて、だから好きだって告白したの。その時、伊吹は丁度フリーだったから、だからOKしてくれた。多分、告白したのが私じゃなかったとしても恐らくOKしたんじゃないかと思う。伊吹が私を好きだなんて思えなかった。それでも良かったのよ。傍にいられるだけでいいって思っちゃったのよね。でもね、人間ってどんどん欲深くなっていくのよ。私と同じ分だけ好きになって欲しいって思うようになってしまった。ああ、今では後悔しているの。何故あの時、彼を家に招いてしまったんだろうって。何故あの時弟を紹介してしまったんだろうって。空が初めて彼にあなたの写真を見せた時の顔は忘れられない。写真のあなたに一目惚れしたんだって事が解った」
「写真で一目惚れなんて、そんな事ある筈ないです」
写真を見て一目惚れなんて非現実的過ぎる。確かに写真を見てこの人可愛いとか、恰好良いとか思うことはあるけど、写真を見て好きになる事なんて有り得ないように思う。
「私はずっと伊吹を見て来たのよ。解るわ。彼はね、多分それまで自分から女の子を好きになった事なんてなかったのよ。別に女の子をとっかえひっかえしてたってわけではないし、付き合っている時はどんな女の子にも優しかった。だけど、いつも冷静だった。誰に対してもそう。嫉妬をした彼を見たことがなかった。どんなにこちらが嫉妬をして欲しくてわざと心配させるようなことを言ったり、したりしても彼は誰に対しても嫉妬をしなかった。その彼がたかが写真一枚に動揺していたのよ。ただ、伊吹は自分では全くそれに気づいていなかった。私も、その時一緒にいた空も気付いているのに、彼だけは全く気付いていなかった。私はね、逃げたのよ。フラれるのが怖かった。いつか二人が出会ってしまうんじゃないかっていつもびくびくしてた。それに耐えられなかったのよ」
オバサンも空が死ぬ前から先生は私を好きだったと言っていた。そして、空はそれを知っていたんだと。だが、その聞かされた話は私にはお伽噺のように現実味がなかった。
「伊吹のこと、別れた後もずっと好きだった。空のお葬式の日、二人は出会ったでしょ? あの時、私もあそこにいたの。傘を振り払って走り去って行くあなたを彼は傘を差すのも忘れてずっと見ていた。
私はね、皮肉なことに好きな人が一目惚れする瞬間を二度も目の当たりにさせられたのよ。ああ、これはもう無理だな、諦めなきゃってその時決心したの。決心したんだけど、教育実習で伊吹に会えるって思ったら嬉しかった。もしかしたらって期待してる自分がいた。でも、まさか伊吹のクラスにあなたがいるなんて思いもしなかった。私は、ずっとあなたが羨ましかった。皆が得られなかった、私が得られなかった愛をいとも簡単にあなたが与えられているのが憎らしかった。キツく当たったのは私のただの嫉妬。私の最後の悪足掻き。ごめんね。イヤな思いさせて」
そこで一つ区切りを作って、美代さんは俯いてふっと小さく笑った。
「この間、伊吹がやきもち妬いてる姿見ちゃった。あなたが男子生徒と、確か生徒会長やっている子だと思うんだけど、仲良く話してるのを見て、伊吹ったら物凄い目で睨みつけてたわよ。雫石ちゃん。私、伊吹のことはもう吹っ切れた。私にはどう頑張っても伊吹をあんな顔にはさせられないもの。いつまでも引き摺ってたら行き遅れてしまうわ」
美代さんはすっきりした顔で笑っていた。私を見る目に憎しみのような邪険なものはもうなく、奇麗さっぱり消えうせた清々しい目をしていた。私は初めて本来の美代さんに出会えたのだと思った。




