第24話
唇が触れたのはほんの一瞬だった。軽く触れただけのそれは僅かな温もりを唇に残した。
ぽぅっとしている私の目の前に、先生の悪戯っ子のような笑顔がぬっと出て来た。
「大丈夫か?」
そのいつもの先生の気遣いの言葉の中に優しいものを感じたのは間違いではなかった筈だ。
私はいまだぽぅっとしたままで、こくりと頷いた。先生のそのゆとりたっぷりな大人な態度がなんだか悔しかった。そりゃ、先生は大人で、場数を踏んでいるのだろうから当り前なのかもしれないが。
「全然平気」
私は唇を尖らせてそう言った。先生は目を細めて笑い、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「先生? 風邪移っちゃうかもよ?」
「俺は丈夫だから大丈夫だよ。お前と違ってな」
かかかっと笑った。
確かに先生が具合が悪そうなところなんて一度もみたことない。風邪を引いて学校を休んだ事なんてない。
私はしょっちゅう風邪をひいたり、熱を出したりしていたにも拘らず。
「俺は小さい時から医者に行ったことが殆どなかったからな。毎年皆勤賞だったよ」
先生の小さい頃の話を聞くのは初めてだった。
先生の小さい頃、見てみたい気がした。
「先生は兄弟いるの?」
「弟が一人いるよ。今はアメリカの大学に通ってる」
先生の家族の話を聞くのも初めてだった。この2年間一番近くにいる人だと思って来たけれど、私は先生の何も知らない。先生のご両親がどこに住んでいるのかも、先生がどこの出身なのかも、どんな子供で、どんな学生生活を送っていたのかも。先生の誕生日がいつなのかさえ知らない。
本当に私って先生のこと何にも知らないんだな……。
「馬鹿だな。そんなのこれから知ればいいことだろう? これから先長いんだから、ゆっくりでいいと俺は思うぞ」
先生の私の思考を読んだような発言に顔を上げた。先生の優しい笑顔に私もつられて笑顔を漏らす。
「雫石」
先生に急に名前で呼ばれ、ドキリと心臓が跳ねた。
「俺はお前の学校の先生だ。お前が卒業するまでは、二人のことは隠さなきゃならない。もし、バレたら俺もお前も大変なことになるし、下手すれば離れ離れになるかもしれない。それでも俺と付き合ってくれるか? と言っても今と殆ど変わらないけどな。お前が卒業するまで手を出すつもりもないからな、ここ以外は」
先生の人差し指が私の唇をぷにっと押しつけた。卒業するまで、キス以上の行為をするつもりはないということだ。
「うん。覚悟は出来てるよ。先生は、先生こそ私でいいの?」
「俺はお前がいい。お前以外なんて考えられないんだ。俺と付き合えば、人の目を気にしなきゃならないし、普通の恋人たちのようにはいかないぞ。今でも思うよ。お前は同じくらいの歳の男と付き合った方が幸せなのかもしれないとな。だけど、俺はお前を手放したくはない」
「他の男子になんか興味無い。先生がいい。先生じゃなきゃイヤだよ」
もはや、私には先生以外の男の子と付き合う事なんて考えられなかった。先生以外の人に心を奪われる事なんてこの先ない。
「ありがとう。俺な、お前のご両親には二人の関係を隠してはおきたくないんだ」
先生の手が私の頭をポンポンと二回叩いた。私は先生を見上げた。
「でも、先生。お父さんとお母さんが許してくれなかったら? 一緒にいられないの?」
自分の両親が二人の関係をどう言うか、皆目見当もつかなかった。応援してくれそうな気もするが、反対されそうな気さえする。きっとどちらか極端だろうと思う。応援する時はとことんまで応援してくれるだろうし、反対するとなったら二度と先生に会わせてくれなくなるだろう。
もし、反対されて二度と会えなくなったらどうしよう。
私は一気に心が萎んでしまいそうになった。
「許してくれたよ」
「へ?」
私はいとも情けない声を出したに違いない。
「ご両親は、許してくれた。昨日、お前が寝ている間に話をしたんだ。自分の気持ちをお前に伝える前に許可を貰いたかったんだ。もし、反対されるようなら、お前が卒業するまで言わないつもりでいた」
「嘘? 賛成してくれたの?」
私は半ば信じられずに、恐る恐る尋ねた。先生は大きな笑顔を作った。その笑顔がその質問に対する答えなのだろう。だけど、私としてははっきりと言葉として聞きたかった。曖昧なものでなくはっきりとした答えが。そうでないと、とてもじゃないが、信じられなかったのだ。私のそんな表情を瞬時に読み取った先生は、穏やかに口を開いた。
「ああ、そうだよ。お父さんもお母さんも賛成してくれた。俺達のことを応援してくれるそうだ」
その答えを聞いた時、私は嬉しさのあまりがばりと起き上がると先生に抱き付いた。勢い良く抱き付いたものだから先生が痛そうに呻いたが、興奮していた私はそれにも気付かず、力一杯しがみ付いていた。それから私は体を放すと、走って階下に降りて行った。
「こらっ、馬鹿。まだ病み上がりなんだから」
先生の注意も振り払って階段を駆け降りた。先生も後からついて来ていた。
「お母さん。お母さんっ!」
リビングで寛いでドラマを見ていた母は、私の大声と勢いに驚いた。私は母に抱き付くとこう言った。
「お母さん、ありがとう。二人のこと許してくれてありがとう」
母は最初こそ驚いていたが、すぐに落ち着きを取り戻し、私の寝ていた為にぐしゃぐしゃになっている頭を優しく撫でた。そして、ゆったりとした口調で話し始めた。
「私もお父さんも、それから星さんもみんな考えたの。雫石に内緒で何度も何度も話し合ったのよ。雫石が幸せになる方法をって考えたらね、先生とだろうってね。先生が雫石に好意を持ってくれているのはすぐに解っていたし、いずれ雫石も先生を好きになるだろう事も解っていた。先生は空君のことも知っていたし、空君を好きな雫石の全てを受け止めることが出来る人だと思ったから、私達はその時はみんなで応援しようって決めたのよ。だって、人間って自分だけを見て欲しいって思うものでしょ? 先生以外の人じゃ絶対に雫石を受け止めきれないと思うもの。きっと先生以外の人と付き合ったら、その度に雫石は傷つくことになる。先生を逃したらあなた一生独身ってことにもなりかねないもの。雫石には幸せになって欲しいのよ。空君もきっとそれを望んでいると思うの。そして、先生ならその願いを叶えてくれるって思えたのよ。確かに、先生と生徒の恋愛は禁じられていることだけど、先生は先生って感じがしないのよね。どうしても、悪いことのように思えないのよ。まあ何にしても、雫石の鈍さっていったら酷かったわね。みんな雫石の気持ちに気づいているのに当の本人はいつまでたっても自分の気持ちに気付かないんだもの。先生が他の女の人の所に行っちゃうんじゃないかってこっちがやきもきしちゃったわよ。ああ、でも、やっとくっついてくれたのね。これからあなた達には大変な時もあるでしょう。だけど、きっとあなた達なら大丈夫ね。それにしても、先生の前でパジャマ姿で頭もぐしゃぐしゃで仕方のない子ね」
呆れた様な母の言葉に自分の今の姿に想いを馳せる。自分の姿がどんな状態であるのかに思い至ると私はキャーっと大きな声を上げて、部屋に駆け戻った。リビングを出る時に先生と母の軽快な笑い声が耳に入って来た。