第23話
先生がお茶碗によそってくれたお粥を私は受け取った。
「何なら俺が食べさせてやろうか?」
「ええっ?! いいよ、恥かしいもん」
からかうように言う先生に私は本気で動揺して茶碗を落としそうになってしまった。
「ほら、しょうがねえな。あ~ん」
先生に茶碗を奪われ、レンゲを口元まで運ばれ、口を開けるよう催促された。恥かしくて口を開ける勇気がなく、レンゲをただ見つめて戸惑っていた。
「ほら、早く口を開けろ」
「だって、だって恥かしいよ」
俯き真っ赤になる私を先生はケタケタ笑いながら見ていた。
かと言って、先生はいつまでたっても許してくれそうになくて、茶碗も返してくれそうになく、私は仕方がないので、勇気を振り絞り、目をぎゅぅっと瞑って口を開いた。
すぐに口の中へお粥が入って来て、私は恥ずかしさを紛らわす為、一生懸命にそれを咀嚼した。
「もう、自分で食べるからいいよ」
先生から茶碗を奪おうとするのだが、さらりとかわされて、奪取は失敗に終わった。
「お前はいいから、大人しく俺に任せてればいいんだ」
笑いながらそう言う先生に私は口を尖らせてこう言った。
「今度絶対に先生にも同じくらい恥ずかしい思い味あわせてやるんだから」
「おおっ、そうか。望むところだ」
余裕綽綽な先生の態度に多少腹を立てたが、私は諦めて大人しく先生に食べさせて貰うことにした。
なんで私、フラれた相手にお粥食べさせて貰ってるんだろう……。
それは、なんだか奇妙な気がした。本当なら顔を合わせるのも気不味いところなのに、先生は、いつもの様子と変わらないし、その先生の態度に引き摺られて私もいつも通りに接していた。先生は、一体どう感じているのか私には計り知れなかった。
お粥を殆ど完食して、先生に手渡された薬(多分パブロンだろう)を水で流しこんだ。
「もう少し寝とけ」
先生のぶっきらぼうの優しい言葉に吹き出しそうになりながらも、頷いた。
横になって、先生に視線を送る。手を繋いで欲しかった。先生に手を繋いで貰えたら、きっと安心して眠ることが出来る。だけど、流石にそれは我が儘だし、自分から言い出す事も出来ずにいた。もじもじと何かを言いたそうにしている私を見て、先生は小さく笑った。
「ずっとここにいるから安心しろ」
そうじゃなくて。先生に手を握っていて欲しいって思ってるのに。こんな時ばかり鈍感なんだから。
こっそり剥れていると、先生はくつくつと笑って私の手を取った。
その微笑から私の考えていた事なんてまるでお見通しであったことが解った。
「さあ、寝るんだ。それとも子守唄がなきゃ眠れないか?」
「じゃあ、歌って」
子守唄など先生の冗談だと思っていた。だから、本当に歌ってくれるなんて思いもしなかった。
先生の口から紡ぎ出されるメロディはとても繊細で少し切なげで、そして、美しかった。どこかで聞いたことがあるような、懐かしい感じがするその曲は、英語の歌詞だった。
先生はその曲を子守唄として歌ってくれているのだけれど、初めて先生の歌声と歌う姿に魅了されて、逆に目が覚めてしまった。折角先生が私の為だけに歌ってくれているのに、寝てしまうなんて勿体なくて出来なかった。そう思ったのだ。先生の歌は世に出してもいいんじゃないかと思うくらいに美しかった。
「何ていう歌?」
「スティングのshape of my heartって曲だよ。知らないか?」
「聞いたことがある気がするけど……。すごく奇麗な曲だね」
先生は笑って頷いた。
「ほら、もういいだろ。いい加減寝ろ」
本当は先生にもっと色んな歌を歌って欲しかったけど、絶対歌ってくれないだろうことは解っていた。
私は目を閉じて、まだ微かに耳に残っている先生の声を無意識に辿っていた。そのうちそれが子守唄となって私は眠りに落ちた。
「……俺はお前が好きなんだよ。どうしようもなくな」
浅い眠りの中で聞こえてくる先生の声が誰かを好きだと言っていた。
お前って誰? 私のこと? そうだったらいいのに。でも、それが美代さんのことだって解っていた。
きっと先生は美代さんに電話を掛けてるに違いない。これが、夢で先生が言ったお前が私だったらどんなにいいだろう。現実であったらいい。心からそう願った。
そして、私はゆっくりと瞳を開いた。
「先生?」
私の視線の先には先生がいて、私の手を握ってくれていた。先生の手には携帯は握られていなかった。
ああ、そうか。さっきのは夢だったんだ。先生が私を好きだよって言ってくれた夢だったんだ。
「先生。私ね、今凄く良い夢見てたみたい。先生が私のこと好きだって言ってくれる夢だった。へへっ、夢だけどね、嬉しかった」
「夢じゃねえよ」
私の手を握る手の力が一際強くなった。
「夢じゃない。俺はお前が好きだ」
先生の瞳が真っ直ぐに私に向けられていた。私はその瞳を探るように凝視していた。
「え……。だけど美代さん……」
「美代とは何でもない」
「だって部屋にいたし、仲良さそうだったし」
「あの日は、以前借りてた物をどうしてもすぐに返して欲しいと突然訪ねて来たんだ。大分前に借りた物だから、すぐには見つかりそうになかったら、上がって貰ってただけだ。流石に玄関先で待たせるのは悪いと思ったからな。ドアのチャイムが鳴った時、俺は出るなって言ったんだ。でも美代は勝手に出た。あいつは俺とよりを戻したって言ったんだろ? そんなことない。俺はあいつとは別れたんだ。もう、ずっと前にな」
「本当? 美代さんが嘘を吐いたの?」
「そうだ。あいつ、何であんな嘘……」
私なら解るよ、美代さんの気持ち。美代さんは、私に先生を取られるのが怖かったんだ。美代さんは今でも先生が大好きだから、私に嫉妬したんだ。
「俺はな、お前のことがすっと好きだったんだ。叶う筈もない想いだと思っていた。お前に好きだと言われた時にはそれこそ夢かと思った。起きながらに夢を見ているのかってな。俺は、空が好きなお前ごと全部好きなんだ。お前の全てを受け止める」
たちまち目がうるみ、涙が零れ落ちて行った。久しぶりの悲しみとは違う種類の涙だった。
「――好き、先生が好き」
涙は拭いても拭いても溢れ出ていた。私は沢山の涙を流していた。だが、今日は雨は降っていなかった。二人を祝福する様に暖かな日差しがカーテンの隙間から二人を指していた。まるでスポットライトのように。
「今日の俺は、先生返上な」
先生がそう呟くと、私の目の前に顔を近付けた。先生の顔をこんなに間近で見るのは初めてだった。先生ってこんなに奇麗な顔をしていたんだって、心臓は壊れそうなほどにどくどくと弾んでいるのに、妙に冷静に先生を観察してしまっている自分がいた。瞳を閉じた先生の睫毛は異様に長く、私は先生が瞳を閉じてるのをいいことにまじまじと眺めていた。いや、見惚れていたのだ。いよいよ唇が重なると思った時、突然先生の瞳が開いた。私は驚きで目をこれ以上ないほど見開いた。
「そんなに見るなよ、照れるだろ?」
先生のちょっとおどけた物言いが可笑しくてクスッと笑った。私の緊張がほんの少し途切れたその刹那、私は唇を奪われていた。不意打ちされて私は目を閉じることさえも出来ずに間近過ぎて薄ぼんやりと見える先生の閉じられた瞳を見ていた。