第19話
放課後、私はいつものように英語準備室に向かっていた。唯一ついつもと違うのはその足取りが恐ろしく重いということ。そこにはきっと美代さんがいるだろうことが解るから。挨拶をしておこうと思ったのだ。大好きな空のお姉さん。だけど、苦手だった。美代さんの目にはいつも何か私を非難しているような冷やかなものを感じていた。
私は嫌われている。ずっとそう思っていた。
だけど、一体何故? 私が美代さんに何かしたとは考えられない。嫌われるほど密に接していないのだ。ならば、今はどうなんだろうか。今もまた、私はあの目で見られてしまうんだろうか。
それらを思うと歩むスピードが知らずにゆっくりとなり、近い筈の英語準備室が遙かに遠い。
藍には美代さんのことを話した。話さなくとも藍にはすぐに美代さんが空のお姉さんだということに気づいていたようだった。美代さんが私を嫌っているようだと話しても全く驚かなかった。
「嫉妬の類だと思うんだけど」
「えぇ?」
「星先生が雫石に抱いている感情って嫉妬だと思う」
「美代さんが私に嫉妬って、一体何に? 例えば弟を取られたとか? だけど、あの兄弟はそんなに仲良くなかったよ。あんまり話さないって空も言っていたし」
美代さんが私に嫉妬をするなんて考えられなかった。
「何に対しての感情なのかは私には解らないけど、今もその感情は星先生の中に少なからずある感じがするから、気をつけて。嫉妬に狂った女は何をするか解らないから」
さり気なく明日香を見ながらそんな事を藍は言う。明日香には前科があるからだ。
私達の視線に気づいたのか明日香が笑顔で小躍りしながらやって来る。
「ねぇ、藍。明日香は入学当初からあんなんだったっけ? もっとまともじゃなかったかな」
「ああ、そうね。あんなんだったよ。雫石は塞ぎ込んでいたからきっと見えていなかったんだね」
そうだったのか。あんなに教室を踊り回っている明日香に全く気付かなかったなんて。私、自分で思っていた以上に酷い状態だったんだな。
「明日香。それで、坂本君はお嫁さんにしてくれるって?」
藍が近付いてくる明日香にそう問いかけた。
「それが、教室にいなかったの。きっと私と会うのが恥ずかしくて隠れてしまったんだわ。可愛い人。うふふっ、でもこれからまた会いに行って来るわぁ。お二人さんごきげんよう」
「「ご……ごきげんよう」」
明日香は小躍りしながら行ってしまった。
「あれ、疲れないのかな」
私がぽつりと呟くと、
「うん、明日香ならきっと平気でしょ」
ごもっとも。なんたって物凄いパワーだもの。
教室を出る前のそんな他愛ない友人との会話を思い出し、私はくすりと笑った。すれ違った女子生徒がびっくりして私を振り仰いだが無視して横を素通りした。
漸く英語準備室まで辿り着き、ノックして中に入ると、楽しそうに雑談する先生と美代さんがいた。
ズキンと胸が疼いた気がしたが、それを見て見ぬふりをして振り向いた二人に笑顔で挨拶した。
「こんにちは。美代さん、お久しぶりです」
「雫石ちゃん、久しぶり。すっかり奇麗になったのね」
そう微笑みを浮かべる美代さんだったが、明らかに目が笑っていなかった。
ああっ、まだあの頃と同じ目をしている。
意気消沈する自分を感じ、自分が思いの外あの目でもう見られることはないだろうと期待していたのだと知る。下を向いて、涙が出そうになるのを堪えた。
高遠先生が突然私の正面に立つと、右手で私のおでこに触れる。驚いた私が見上げると、先生の優しい瞳に出会い、緊張と悲しみが一気に解き放たれた気がした。
「熱はないみたいだが、具合が悪いのか? 今日はいつもより元気がないな。授業中も様子が変だったし。どうした? 泣いているのか?」
先ほど目尻に溜まっていた涙が先生を見上げた拍子に一筋流れ落ちた。先生はそれを見逃さなかった。
「ちが……、平気」
先生は、私がそう言うのを遮り、強引に話を進める。
「雨も降って来てるから、今日は送って行く。鞄持って駐車場に来い。傘持って来てるだろ? 濡れないようにしろよ」
「うん、でもっせんせ……」
「星先生。あとはお願いします」
私が異論を唱えようとしても、先生はそれを受け付けないようだった。
別に具合悪いわけじゃないのに……。
「ちょっと、伊吹。あと頼むって、ちゃんと教えてくれなきゃ」
あっ、美代さんは先生のこと、伊吹って呼ぶんだ……。
「高遠先生と呼んでくれないか。妙な噂にされるのは正直イヤなんだ。あとはそこのプリントの丸付けと、名簿に点数を書き留めておいてくれ。説明がなくても、君なら解る筈だ。それが終わったら帰ってくれて構わない。それじゃ、お先に」
一気にまくし立てるようにそう言うと、先生は自分の鞄を掴んでぼんやりとドアの前に立っている私の横に来ると、頭をくしゃりと撫でた。
「ほら、なにぼうっとしてるんだ。行くぞ」
「う、うん。星先生、さようなら」
美代さんに頭を下げ挨拶した。頭を上げたその刹那、私は見てしまった。美代さんの目が鋭く私を睨んでいるのを。あっと思う間にその目は緩和され、微笑みに変わり、さようなら、と優しい声をかけてくれた。
高遠先生に無理やり押し出される感じで、英語準備室を出て、私は教室に戻り、鞄を取ると、先生の指示通り駐車場に向かった。
雨は先ほどよりは雨脚を弱めていたが、時々雷鳴がこだましていた。
先生は既に車に乗り込んでいて、私は傘を畳んで車の中に乗り込んだ。
私がシートベルトを締めたのを確認するとすぐに車は走り出した。
「それで? 何があったんだ? 具合が悪いわけじゃないんでろ?」
前を向いて運転しながら横目で私を見ると、そう言った。暫く先生の横顔を呆然とした顔で見ていた。
「あのな、何年顔付き合わせていると思ってんだ。お前が具合悪いのか、何か悩んでいるのかの見分けくらいつくぞ」
私はくすりと笑った。
先生が私を見ていてくれたことが単純に嬉しかった。
「先生、いつも私のこと見てるんだね? もしかして、ストーカー?」
先生が運転しながら私の頭の横をどついた。痛っ、とさほど痛くもないのだが、大袈裟に言って、堪らず吹き出した。ちらりと先生を見ると、先生も笑っていた。
「先生。美代さんは……私が嫌いみたい。何でかな?」
笑いの余韻が静まってから、私はそう口に出した。口に出した途端、それは現実のものになってしまったような気がした。本当はそうは思いたくなかった。だけど、それは恐らく事実なんだと思う。
「私何かやったかな。中学の時もそうだった」
私はそれだけ言うと俯いた。誰だって嫌われるのはイヤだ。それが死んだ恋人のお姉さんなら尚更に。
「先生は何か知ってるの?」
「……俺のせいかもしれないな。俺が美代と付き合ってた頃、空とお前の写真を見ては、色々な話をしていたことがある。ついつい空と二人夢中になってしまって、あいつを蔑ろにしていた。きっとやきもちを妬いていたんだろうと思う」
「やきもち? 写真の私に?」
「そうだ。ほら、女って自分以外の女を褒たりすると拗ねるだろ? それがテレビで映ってる芸能人であってもさ」
確かにそうかもしれない。自分の彼が他の女の子を褒めたり、通りすがりの奇麗な女の子を目で追って鼻の下なんか伸ばしてたりしたら、気分悪いもの。
「じゃあ、美代さんは今も先生が好きなのかな?」
「それはないだろう。俺達はとっくの昔に別れてるんだから」