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雨の雫  作者: 海堂莉子
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第1話

 私が初めて足を踏み入れたその教室は、耳鳴りがするほど煩かった。

 私は入学式には出ていない。その頃私は家で寝込んでいた。私は風邪で一週間寝込んでいたのだ。

 今日が記念すべき初登校と浮かれる気にもなれない。私はこの学校で友達を作るつもりはない。いや、作るだけの元気がない。ただ、それだけにつきる。誰かと喋るのも、はしゃぐのも、笑うのも、怒るのも、全てがどうでもいいことのように面倒臭い。

「ねぇ、名前教えて」

「知りたければ、自分から名乗れば?」

 いきなり馬鹿っぽい声で話かけて来た見た目が派手な女は、私の言葉にあからさまにイヤな顔をした。

「私は、田邊明日香」

 派手な女が気を取り直して、笑顔を作ってそう言った。笑顔が引き攣っていることに本人は気付いているんだろうか。そんな無理をして名前を名乗る必要があるのか。

浅野雫石あさのしずく

「雫石ね、よろしく。私、第一中から来たの。雫石は?」

「あんたに馴れ馴れしく名前を呼ばれたくない。あんたに興味もない」

 その瞬間、明日香の顔が歪んだ。悔しそうに唇を強く噛んでいた。派手だがちょっと可愛らしい顔が一瞬で崩れた。たちまちブス顔に変身した。

 私はそれを冷めた目で眺めていた。

「ちょっとあんな何様よ。私がせっかく話し掛けてやってんのに!」

 明日香の怒声に、教室中が水を打ったようにしんとなり、何事が起こったのかと視線が明日香と私に集中した。

「別に頼んでないよ」

 馬鹿みたいに感情を高ぶらせ、自分の思い通りにならないと、途端に噛み付いてくる。これじゃ、まるで言葉を覚えたての小さなガキと一緒だ。言葉が上手く使えない、上手く自分が思っていることが伝わらない、それがイヤで癇癪を起した小さなガキと。

 明日香は私の頬を引っ叩こうと右手を振り上げていた。

 叩きたきゃ叩けばいい、そんな思いを込めて明日香を見上げた。

 私は何も怖くない。傷つくのも、傷つけるのも。何にも、何にも怖くない。

 クラス中が息を呑む中、突然教室の前の扉がガラっと勢い良く開いて、男が一人入って来た。

「お〜い。みんな、座れぇ。チャイム鳴ったの聞こえなかったか。んっ? 田邊どうした?」

 この若い男。どうやらこの男がこのクラスの担任の先生のようだ。

 生徒達が金縛りから解放されたように、いそいそと席に戻り始める。明日香は先生に話し掛けられて、真っ赤な顔をして俯いてしまった。振り上げられていた手は、行き場を失くし、おずおずと下がって行く。先生には見られないように、こっそりと。

 なるほど、明日香はこの先生のことが好きなわけだ。

「何でもありません」

 明日香は蚊の鳴くような小さな声でそれだけ言うと、自分の席へ逃げるように戻って行った。

「おおっ、そうだ。風邪で休んでいた浅野が今日から出てきている。俺は担任の高遠伊吹たかとおいぶきだ。教科は英語を担当している。よろしくな。じゃあ、浅野。その場に立って自己紹介してくれるか」

 うわっ、最悪。自己紹介なんていらないでしょ。風邪を引いたおかげで煩わしいことが一つ免除されたと思っていたのに。

「浅野雫石。よろしく」

 投げやりにそれだけ言うと、すぐに席に着いた。自己紹介は苦手だ。昔から大嫌いだった。

「何だ簡潔だなあ。趣味とかないのか?」

「ありません」

 しつこく聞いてきそうな新米教師を睨みつけて、そう答えた。

「あれ? お前……」

 私を見て先生がぼそりと呟いたが、その先の言葉を続けないまますぐに出席を取り始めた。

 出席番号1番。一番前の席だった。よりによってこのクラスには「あ」から始まる名字が私しかいなかったのだ。

「それじゃ、一時間目の用意しとけよ。浅野は明日、身体測定やるから、体操着持って来いよ」

「はい」

 私の返事を聞いて満足した先生は教室を出て行った。


 一時間目は英語だった。英語のテキストを出す気にもなれず、机に突っ伏して寝ていた。先生が入って来て、私の頭をポンポンと叩いた。起きろという合図。

 号令が終わった後も、私はぼんやりとしていた。いや、本当は緊張していた。

 英語が嫌い。英語を聞くのが、見るのが……怖い。

 それは辛い思い出したくない記憶を呼び戻すものだから。

 聞きたくない。特に流暢な英語は。

 先生が教科書の英文を読み始めた。息の根が止まるほどの流暢な英語で。

 声が似ていた。顔も体型も普段の声も似ていない筈なのに、その声はどこか似ていた。

 蘇って来る声と、先生の声が重なって、鼻の奥がつんと痛くなった。

 堪らず私はがたりと席を立って、机の横にかけてあった鞄を持って早足で歩いた。

 たったの一秒だって聞いていられない。そう思った。

 逃げるように小走りで後ろのドアから出ようとした。

「浅野。どうした?」

 先生の声が私の背中を追いかけて来た。

「早退」

 振り向かずにそれだけ口にすると、がらりと扉を開けて廊下に出た。

「自習してろ」

 背中でそんな声を聞いた。そして、教室の前のドアが開いたと思ったら、凄い勢いで先生が追いかけて来た。扉の開く音と先生の勢いに驚いた私はすぐに向きを変え、走り出した。

 うちのクラスの教室は2階の一番端っこにある。

 私は階段を駆け降りた。相手がよぼよぼのオヤジ教師だったならば、撒けたかもしれないのに、後ろを追いかけてくる先生は、ついこの間まで恐らく学生だったんだろうほどに若い。

 階段の途中で腕を掴まれた。

「浅野。具合が悪くて早退か? その割には、元気に走っていたように見えるんだがな」

「放してっ、放してってば」

 先生の手を振り払おうともがくが、先生の手は私の腕に食い込んだようにビクともしない。私がもがけばもがくほどにその手の力は一層強くなっていく気がした。

「浅野。こっち向けよ」

 両肩を掴まれ、強引に正面を向かされた。キッと先生を睨みつけた。

「やっぱり泣いてる。お前はあの時も泣いていたな」

 あの時も? 涙を袖で強引に拭いながら、先生の言葉に疑問を覚えた。先生は一体何の話をしているんだろう。私は先生に一度だって会ったことはない筈だ。

「あの時、お前は大雨の中、傘もささずに立っていた。雨に濡れて、雨なんだか涙なんだか解らなかった。だけどあれは涙だったんだろう?」 

 雨に濡れて……?

 ふと思い当たる節があった。

 私が雨に濡れていた時に傘を差し出したあの若い男。はっきり顔は見えなかった。見えていたとしても、通りすがりの男を覚えていたとは考えにくい。あの時の私はそれどころじゃなかったのだ。

 あれは先生だったのか?

「……傘」

「思い出したようだな。お陰であの時、俺までびしょ濡れになっちゃったよ。まあ、お前みたく軟弱じゃないから、風邪なんか引かないけどな」

 どうして、よりによってこの男が担任教師なんだろう。あんな所を見られて、涙を見られて、この男に弱みを握られてしまったようで居心地が悪い。

 先生が一瞬油断して手を緩めた隙に私は手を振り払って逃げた。

「あっ、おいっ。浅野。明日もちゃんと来いよ。あと、体操着忘れんなよ」

 先生の声が後ろに遠ざかって行く。先生が追って来ないのを感じると、すぐに足を緩めた。

 昇降口で下足に履き替えると、温かい春の空気が一杯の外に出た。

 桜がほんの少しだけ残っていて、風が吹く度に花びらが舞い散る。


 一緒に花見をしようって約束したのに……。

 一緒に学校に行こうって約束したのに……。

 高校に入ってもずっと一緒にいようって約束したのに……。


 私はこの春。大好きだった初恋の、そして、恋人だった少年を亡くした……。


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