第15話
「先生っ! 聞いてよっ。藍に、藍に彼氏が出来たんだって!」
「こらっ、浅野。乱暴にドアを開けるなっ」
バッ、ダンッと物凄い音を立ててドアを乱暴に開けて入って来た私を高遠先生は呆れた顔でそう窘めた。
「ごめんなさい。だけど、すぐ聞いて欲しくって」
私は俯いてそう言った。
「そんなに慌てなくてもお前の話はいつも聞いてるだろう? 取り敢えず中に入れ」
うん、と先生の指示に従い私は英語準備室のドアをくぐった。
もう早いもので空が死んでから2年の歳月が過ぎ去った。そして、この春私は3年生になった。2年生の時のクラスが持ち上がり、担任は高遠先生だった。これで、3年間同じ先生ということになる。藍とも3年間同じクラスだ。
「で? 北村に彼氏が出来たんだろう? 良かったじゃないか。なのになんでお前はそんなに浮かない顔をしてるんだ?」
「だって、藍ったら彼氏が出来たことすぐに話してくれなかった。そもそも藍に好きな人がいたって事も私、全然知らなかったんだよ。私、藍に彼氏が出来たこと嬉しいし、祝福してあげられるのに、藍が空のこと気にして、私に遠慮しているみたい。なんかそれが悲しくて」
藍に気を使われていることが酷くショックだった。
藍は私が傷つくと思ったのかな。そんなこと全然ないのに。
「それで、北村と喧嘩したのか?」
私は首を左右に振った。
「喧嘩はしてない。おめでとうって言ったけど、藍は勘がいいから」
「じゃあ、話してくればいい」
「どうやって?」
「今、俺に話した通りに北村に話せばいいだろ? な?」
先生の笑顔に私は大きく頷いた。
先生は私のお兄さんのような存在だった。この二年間に漸く自然に笑えるようになり、他人を寄せ付けないオーラもなくなったと思う。その為か、友人と呼べる存在も何人か出来た。やっと私にも高校生活をエンジョイ出来るだけの余裕が出来たと感じている。だが、堪らなく空を恋しく思う時がたまに訪れる。心が張り裂けそうなほどの苦しみと、深い孤独感。そんな時はいつも先生が傍にいてくれた。気が済むまで私を泣かせてくれた。そんな風にして、私は空を失った悲しみをどうにかやり過ごして来た。
英語の授業には出れるようになり、先生の英語を聞いても涙は流さないようになった。それに伴って先生との補習も完全になくなった。それでも私は、毎日のように英語準備室に通っていた。
「先生、ありがとう。私、藍と話してくる。またねっ」
先生に笑顔で手を振り、英語準備室を後にした。
その時、私は壁にぶつかった。とても大きな壁。だけど、そこに壁はない筈だった。
「坂本。どうした? ん? 浅野、どうしてお前はそこに座ってる。ほらっ」
坂本と名乗るその壁にぶつかって尻もちをついた私に、先生が呆れた顔をして右手を差し出してくれた。
ごめん、と照れ笑いをしながら先生の手を取った。その横で坂本という生徒が、私と先生の様子を無言で眺めていた。壁と錯覚してしまうのも無理がないほど、背が高かった。190cm近くあるんじゃないだろうか。
先生も背が高いけど、先生よりも若干高めだ。
坂本君はメガネをかけた所謂生徒会長タイプな感じだった。
そう言えば、私、この学校の生徒会長って誰だか知らないな……。もしかしてこの人だったりして。
坂本君は、とても真面目そうで、メガネがとても似合っていて、きっとメガネフェチの人にモテるタイプなんじゃなかろうか。背が高いし、ルックスも整ってるからメガネフェチと言わずモテるタイプかもと自分の考えを訂正した。
「あの、すみません」
私はぺこりと坂本君に頭を下げ、
「じゃあ、先生。今度こそまたねっ」と、手を振って走り出した。
「こら、浅野。走るな。またぶつかるぞ」
先生の声が追いかけて来て、私は慌てて足を緩め、振り返らずに手を振った。
先生の姿が見えなくなるであろう場所に来てから再び走り始めた。
3年生の校舎は1階。英語準備室からは大分近い。
がらりとドアを開け、教室の中に入ると、藍が自分の席にぽつんと座っていた。
「やっぱりいた。絶対にいると思ったんだ。彼氏はいいの?」
「うん、先に帰って貰ったから」
私はゆっくりと机の間をぬって、藍のもとへ歩いた。
藍の席は一番後ろ、私は前から2番目だった。学年の始めはいつもアイウエオ順で並んでいるから、私は大抵一番前か、二番目。早く席替えしてくれればいいのにと常に願っている。明日、先生に言ってみよう。
教室の前から入って来た私を藍は黙って見ていた。私が藍のひとつ前の席に腰を掛けると、藍は口を開いた。
「ごめんね、雫石。もっと早く言えば良かったんだけど、どう言えばいいか解らなくって」
「藍は、私が藍に好きな人が出来て応援しないと思った? 藍に彼氏が出来たこと喜ばないと思った? 空のことで傷ついた私に気を使って言えなかったの?」
「そんなつもりじゃ」
「確かにいまだに私は空が好きだし、たまに恋しくて涙を流す時だってある。だけど、友達の幸せを喜んであげるだけの余裕はあるつもりだよ。藍が幸せなのは純粋に嬉しいって思うよ。藍、お願いだから私に遠慮しないで。恋の話だって大丈夫だよ。他の子の話には全く興味無いけど、藍のは平気だよ。惚気ていいんだよ。一杯聞かせて欲しいよ」
うん、と頷いた藍が涙を流していた。大好きな親友の涙に、私も堪らず涙が零れていた。
「よしっ。もう帰ろうか、藍」
乱暴に目尻に溜まった涙を拭きとると明るい声でそう言った。
「うん、ごめんね。ありがとう」
藍も笑顔を作ってそう言った。二人並んで校庭の横を歩いて行くと、校門の前に人影を発見した。
私達二人を、というよりは藍を、見つけて嬉しそうに手を振っていた。
待っていたのは、藍の彼だ。藍は真っ赤に頬を染め、照れながら、小さく手を振り返した。そんな藍があまりに可愛くて、つい抱き締めたくなってしまった。勿論、しなかったけど。こんな藍を見ていると、普段不思議な子―――ただ霊やオーラが見えるだけで、もうそれにも慣れてしまったけど―――だけど、恋をすると本当に普通の女の子なんだなって妙に嬉しくなった。
藍の彼は、武田直登という同い年の少年だ。一年の時のクラスメートで、二学期を境に話すようになった。ただ席が近かったからなのだが、直登と藍はとても話が合うようで、この二人はひょっとするとひょっとするんじゃないかって、一人ほくそ笑んでみていたものだ。二年になりクラスが分かれ、直登ともあまり接点がなくなり、私の方では彼を見たのは久しぶりなのだ。藍は二年になってからも何らかの手段で直登と連絡を取り合っていたってことなんだろう。
本当に水臭い、一言言ってくれれば良かったのに……。
それだけ私がまだ傷を背負っているように藍には見えていたってことなんだろうか。そのことに何度となくショックを受ける。
直登は何も悪くないが、この自分の不甲斐なさによる憤りを、思わずゴツンと彼の腕に叩きつけて晴らした。
「ちょっとぉ、雫石さん。何すんのさ」
眉毛を下げて頼りなげに直登が言った。
「あっ、ごめん。ついっ、弾み(?)で」
「弾みって、酷いじゃないか」
直登は一見、酷く頼りなく、弱そうな、見るからに苛められそうなタイプに見えるのだが、その実、彼は空手部の主将を務める凄腕なのだ。噂によると彼は負け知らず何だそうな。その噂を聞き付け、不良どもが彼に闘いを挑むのだが、一度たりとも負けたことはないと聞く。
私も一度直登の闘う姿を見たことがある。およそ10人はいたかと思われる不良達が一斉に彼に向って行ったが、それを涼しい顔でバッタバッタと投げ飛ばし、蹴り飛ばし、すぐに闘いは終わった。普段の彼とは比べものにならない気迫を感じた。そして、彼は不良達を無暗に傷つけたりはしなかった。大怪我をさせることはなく、ただ、気を失わせるだけなのだ。そんな彼を目の当たりにし、不良どもは彼に平伏し、神と崇め立てるのだ。
恐るべし、武田直登。
一瞬触れた直登の腕は、筋肉でガチガチに硬かった。