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雨の雫  作者: 海堂莉子
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番外編 ~君を守りたい~

高遠先生の視点でお送りします。

 俺は、その一瞬で恋に落ちた。

 

 いい歳した大人の男が恋だなんて、口にするのも恥ずかしい。だが、その一瞬は俺にとっては衝撃としか言いようがなかった。

 そう、それは人生初の恋だったのだと、今なら解る。この感情が何なのかあの時の俺には何一つ解らなかった。それまでに、それなりの恋愛をしてきて、それなりに経験をしてきたつもりでいた。初恋なんてとっくの昔に経験したものだと思っていた。

 それは、今までの恋愛も、経験も、感情も全てを吹き飛ばすほどの激情だった。


 激しい雨の中、傘もささずに、堅く目を瞑り、天を仰いで佇んでいる一人の少女を俺は見た。

 彼女は中学校の制服を身に纏い、全身ずぶ濡れだった。

 俺は彼女に近付き、自分が持っていた傘を差し出した。

 目をゆっくりと開き、茫然と傘を見る彼女。

「こんなに濡れたら、風邪を引いてしまうよ。これを持って、早く帰った方がいい」

 その少女が彼女なのだとその時の俺は全く気付いていなかった。

「いらない……。こんなのいらないっ。放っておいてよ。余計なことすんなっ!」

 感謝されるどころか、暴言を吐かれ、鋭い目で睨みつけられてしまった俺。

 その少女が泣いているのが、俺には解った。そして、その少女が俺の会いたかった少女である事に同時に気付いた。


 激しい雨に、振り払われた傘、少女の口から吐かれた暴言、鋭い瞳。


 俺が心の中で描いていた少女とは全然違う。だが、俺は、この瞬間この少女に心を奪われた。

 振り払われた傘を手に取ることすら忘れて、雨に濡れながら、びしゃびしゃと走り去る少女の後姿を俺は見ていた。


 空……、俺は今、彼女に会ったんだな。



「高遠先生……。私、先生のことが好きです」

 真新しい制服を着た可愛らしい女生徒。頬を真っ赤に染め、俯き加減に、それでも、きちんと自分の気持ちを伝える。その勇気は、素晴らしいと感じる。だが、それ以外に流れてくる感情はない。

「ありがとう。気持ちは嬉しいよ。だけど、俺は学校の先生だから、君の気持ちを受け入れることは出来ないよ。ごめんな」

 そう言って微笑めばだいたいの生徒は、引き下がって行く。

 俺が生徒を相手にするわけがない。そんな自分の立場が危うくなるようなことをする筈がない。やっと念願叶って教師になれたんだ。色恋沙汰で教師を辞める羽目になるのは、御免こうむりたい。女生徒達が俺に興味を惹かれるのは、ただ俺が他の教師よりも若いからだ。そして、ドラマなんかで見られる『禁断の恋』に憧れているってだけに過ぎない。

 そう思っていた。あの少女に再会するまでは。


 俺が担任を務める教室の一番前の席に彼女は座っていた。

 俺は気付かなかったのだ。学級名簿を見て、彼女が自分の受け持った生徒であった事を今の今まで気付かなかったのだ。

 年甲斐もなく彼女の姿を見て、心がときめいた。

 彼女の心は死にかかっていた、だが、ほんのかすかな希望の光をまだ失ってはいなかった。それがせめてもの救いだった。

 彼女を助けたいと思った。彼女が今いる闇の底から、光のある世界へ、もう一度引っ張り出したいと。


 彼女の苦しみは、俺には少なからず解っていた。

 俺もまた、大事な人を失ったのだから。

 空は、俺の大事な弟だった。俺はそう思っていた。恐らく、空の方でも俺を兄と思っていただろうと思う。

 空とは、色んな話をした。それこそ、本当の兄弟のように。

 彼女は、空の恋人だった……。

 空の口からいつも話題に出る、空が唯一愛した彼女を、俺は写真でしか見たことがなかった。

「雫石は、自分では全然気付いてないけど、凄いモテるんだ。俺、いつも心配になるけど、絶対に雫石を誰かに渡すつもりなんかない」

 空が言うとおり、写真に写る彼女はそれはそれは可愛かった。どの写真も満面の笑みをしていて、それは大輪の花のように見事にひらいていた。

 その写真を見ただけで、彼女が純粋で汚れを知らない様子が窺えた。大きな瞳はキラキラと輝き、柔らかそうな頬はほんのりと赤く染まっている。肩まで伸びた真っ直ぐな髪は、触りたくなるようにしっとりしていそうだった。唇は少し厚くて、でも、それを尖らせた彼女の表情が、幼さと艶っぽさを兼ね備えた魅力的なものにしていた。


 思えば、俺は空に彼女の写真を見せられた時から、彼女に魅せられていたのかもしれない。8歳も歳の離れた彼女に……。


 彼女は俺の担当する英語のクラスには顔を出さなかった。

 理由は安易に解る。彼女と空と英語。それらは、密接な関わりを持っていたから。

 全部の俺の授業をサボることを黙認することは、立場上出来なかった。その為、俺は彼女に英語の補習を要求した。渋々ながら応じた彼女、内心俺は彼女と近づけることに胸が躍る思いだった。

 だが、彼女と会えば会うほどに、彼女の胸の苦しみを目の当たりにして、自分の無力さを感じずにはいれなかった。


 俺には、彼女を守ることは出来ないんじゃないか……。彼女を守れるのはただ一人。空……、お前だけなんだよ。


 俺は自分の無力さに歯痒い想いを抱きながら、彼女を見守っていた。


 彼女と過ごす放課後は、ほんの少しの時間ではあったが、俺の憩いの場でもあった。

 少しずつ本当に少しずつだが、俺と話す言葉数が増えて行く事に俺は喜びを感じていた。


 夏休み。

 彼女にお盆休みを与え、家で休んでいた俺は、掛って来た携帯を取った。

『伊吹君。久しぶりね。今ね、雫石ちゃんが家に来ているの』

 それは、空の母親からの電話だった。空が彼女を俺に託した事を空の母親は知っていた。何度か空の母親とは話しをしていて、彼女の学校での様子も話していた。

「そちらに伺ってもいいですか?」

『勿論。そうしてくれると私も嬉しいわ』

 空の母親は俺の気持ちを知っているのかもしれない。そんな気がした。

 空の家に着くと、空の母親に招き入れられた。空にお線香を上げると、空の母親を見た。

「雫石ちゃんは、2階の空の部屋にいるわ。行ってあげて」

「はい」

 俺は2階に上がると、空の部屋をノックし、部屋の中に足を踏み入れた。

 彼女は驚いたように目を一杯に見開いていた。その目には大粒の涙が溜まっていた。

 そんな彼女の姿に、彼女を抱き締めたい衝動に駆られた。

「どうして? どうして、先生がここにいるの?」

 俺はその問いには答えずに、久しぶりの空の部屋を眺め、「懐かしいな」と、ぼそりと呟いた。

 彼女の膝の上には、アルバムが開いており、彼女と空が付き合い始めた頃の写真が見て取れる。

 幸せそうな空と、幸せそうな彼女。俺には一度も見せてくれた事のない最上級の笑顔がそこにはあった。天国にいるであろう空に俺は激しく嫉妬した。

「空を、知っていたの?」

 彼女は立ち上がり、俺の腕を掴んだ。アルバムがばさりと床に転がった。俺はそのアルバムを目で追っていた。

 彼女は矢継ぎ早に質問をし、俺はその問いに答える。彼女は、俺の腕を掴んだまま、俺を見上げ、俺の言葉を一言も漏らすまいと必死な様子だった。


 俺は空の言葉を思い出していた。

「伊吹さん。俺、伊吹さんのこと、大好きです。本当に、伊吹さんが兄さんだったら良かった。……俺、多分もうすぐ死にます」

「はぁ? 何言ってんだ。お前はまだ若いんだし、死ぬとか言うなよ」

「うん、死にたくはないけど、俺、解るんだ。自分がだいたいいつ頃死ぬかってこと。どんな死に方するかは解らないけど。俺、健康だから、多分事故に遭うんだと思う」

「お前が霊感強かったってことはオバサンから聞いた事あるけど、それで解るのか?」

 空は寂しそうに微笑み、頷いた。

「何とか出来ないのか? お前には彼女がいるだろう? 彼女が悲しむじゃないか」

「俺もそれが心配なんだ。雫石は、きっと凄く落ち込むと思う。だから、伊吹さん。俺が死んだら雫石をどうか守ってあげて下さい」

「何で俺にそんな事頼むんだ。運命なんてどうなるか解んないだろう?」

 もう既に諦めてしまっているような空に腹が立った。

「ごめん。でも、俺には解るんだ。伊吹さんに頼みたいんだ」

「何でだ。何で俺なんだ」

「伊吹さん、雫石が好きでしょ?」

 微笑みを浮かべて、はっきりと俺にそう言う空を見て、俺は茫然とした。

 俺の中で、そんな想いはないと思っていた頃、空はそれを俺の中にしっかりと見ていたのだ。

「そんなことはない。第一俺は彼女に会ったこともない」

「だけど、今その自覚がなくても、雫石に会えば解る」

「そんなこと……」

 反論しようと試みたが、空に遮られた。

「だから、伊吹さんに雫石を頼みたい。伊吹さんなら雫石を幸せに出来る。それが、俺には解るから」

「もしだ、もしもだぞ。俺がお前の言ったとおり彼女を好きになったとする。だが、彼女が俺を好きになることはないんじゃないか?」

 空は微笑んだ。その質問には、答えるつもりはない。そんな笑みだった。だが、その笑みには、その答えは既に見えているように思えた。

「解った。もしも、お前に何かあったら、彼女を守ると約束する。それで、お前は安心するんだな?」

「うん、ありがとう。伊吹さん」

 それが空に会った最後だった。空は本当に自分の死が解っていたのだと、あの時の笑顔を見て、覚悟が出来ていたのだと、そう思った。そして、空は俺の気持ちを知っていた。自分ですら気付いていなかった彼女への気持ちを。


 今、俺は……、彼女を守りたい。空との約束だからではなく、一人の男として、彼女を守りたい。初めて俺に向けてくれたその笑顔を守りたい。

 希望の光を一杯に輝かせ、俺の腕を力強く掴む彼女を堪らずに俺は抱き締めた。

 彼女の細い体が折れてしまわないかと、壊れ物を扱うように大事に。


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