第11話
「お前、宿題はまとめて最後にやるタイプだろ?」
「何故それを?」
図星です。私はサザエさんでいうところのカツオタイプ。ちびまる子ちゃんでいうところのまる子タイプなのだ。だが、宿題をきちんと提出しているから、そんなタイプだと知っている人はいない筈だ。空は知っていたけど。
なんで先生には解ってしまったんだろう。
「解るさ、そのくらい。宿題は却下だな。そうじゃなくても英語の宿題は出ているんだ。両方やるとなるとかなりキツいぞ。俺が宿題を出すとなったら大量に出すからな。それとも俺の家に来るか?」
「先生、一人暮らしだったよね?」
「そうだが」
「先生ん家に行ったら二人きりになるよね?」
「まあ、そうだろうな」
「万が一先生が私にムラってきたら、逃げられないでしょ」
「くるか、阿呆っ」
「だって、先生彼女いないみたいだし、溜まってたら、もしかしたら、私相手でもムラってくるかもしれない。無理。先生ん家なんて絶対無理っ。襲われるっ」
先生の頬がぴくぴく引き攣っているのを見て、しまったと思ったが、あとの祭りだった。
「よし、お前は毎日学校に決定。10時に来い。優しい俺は盆休みくらいくれてやろうと思っていたが、それもなしになったぞ」
ああ、先生の顔が悪い顔になってる。にやりと笑う先生を腹黒教師だと私は思う。それも自業自得と諦めるしかないのかもしれない。だが、ちょうど良かったのかもしれない。
空のいない夏を一人で過ごす勇気はない。ニート状態に陥るだろうし、恐らく一日の大半を寝て過ごすのだろう。海にも、プールにも、祭りにも、花火にも行けない。初盆だから空のお墓参りにも行った方がいいに決まっている。だけど、まだ行けない。まだ気持ちの整理がついていない。私は空が戻って来てくれるんじゃないかと未だに信じてしまっている。そう、馬鹿みたいに……。もう空が死んで4か月が経とうとしているのに。
「浅野?」
「ああ、はい。解りました」
考え事をしていて、先生に話し掛けられているのさえ気付かなかった私は、素っ頓狂な声を出した。
こうして私は夏休みの補習を受けることになったのだ。因みに1学期の成績はまあまあといったところだった。ただ、英語は10段階評価で8だった。中学の3年間は5段階評価で常に5だったので、私としてはショックを隠しきれない。最初から授業に出ていなかったのだし、仕方のないことだが、それでもがっくりと来るものがある。やはりいくらテストの点が良くても授業に出なくては駄目だって事なんだろう。
授業か……。授業、2学期になったら一度出てみようかな……。
どうなるかは解らない。初めて先生の授業を受けた時のようにまた教室を飛び出してしまうかもしれない。その可能性は大いにある。だけど、今は藍がいる、それに先生も。先生が英語を読まなきゃ何とかなるんじゃないのかな。
試してみようと小さく拳を胸の前で握った。
夏休み……。それは補習地獄の始まりだった。
毎日、汗びっしょりになって(家から学校までは電車で二駅、駅から徒歩15分)学校に着く。駅から学校までに坂を下って上る。従って帰りも否応なく下がって上らなきゃならないのだ。行きも帰りも急斜面の坂をえっちらおっちらと上って行くと、それだけで汗がびっしょりと流れて行く。
ぐったりと英語準備室に着くと、さらにまたぐったり。英語準備室にはエアコンというものがない。この間までは扇風機すらなかった。あまりに私がぐったりとしていて、勉強に手がつかない状態だったので、先生がどこかから調達して来てくれたのだ。それも何年前の代物ですかって聞きたくなるくらい古びた。いや、今の私には例えそれが昭和を思わせるレトロ感たっぷりなものだったとしても、動いてくれさえすればそれで良かったのだ。そしてそれは、私を涼しくさせるにあたり凄い効果を上げてくれた。
英語準備室に入り、先生への挨拶もそこそこに私は扇風機の前に陣取る。それが私の毎朝の儀式といえる行為なのだ。汗が引かなきゃ、勉強も手につかないのだ。
「おい、いつまでへばり付いているつもりなんだ。そろそろやるぞ」
先生のその言葉に仕方なく後ろ髪を引かれながら席に着くのだ。その時、ちろりと先生を恨めしそうに睨みつけるのを忘れない。
「ほら、お前がそんなに睨み付けたって怖かないぞ。さっさとやる」
私の精一杯の睨みを適当にあしらわれ、ムカっとしながらも大人しくプリントを受け取る。最後の足掻きと先生の背中を睨みつける。毎日先生の背中を見ているが、先生はまず汗をかかない。私は滴るほど汗が垂れ流されるのに、先生はどんな時でも涼しい顔をしている。扇風機が来る前のあの地獄とも思えるあの暑さの中でもだ。
思えば、空もどんなに暑くても涼しい顔をしていた。
「あっついなぁ。アイスでも食べて行こうか」
空は、さして暑くもなさそうに少し日に焼けた黒い顔で爽やかに微笑んだ。私がその時、ぐったりとしていたのは言うまでもない。そんな私を空は可笑しそうに笑って見ていた。
「妄想癖の浅野。どこかに飛んで行ってしまったか?」
ふと現実に戻ると、目の前に先生の顔があって驚いた。
「お前はいつもそうやって何かを考えているな」
私に言うでもなく、どちらかと言えば独り言のように先生が言った。
え? と私が問い掛けると、一瞬寂しそうな顔で笑ったが、すぐにいつもの先生の表情に戻った。
「早くやれよ」
そう言って背中を向けてしまった。
今、ほんの一瞬見た先生の寂しそうな顔をどう捉えていいのか解らなかった。見てしまったものを、見なかったことは出来ない。
先生があんな顔をするなんて……。
しばし先生の背中をぼんやりと見つめた後、纏まらない考えを手放して、プリントに目を落とした。
8月に入ったある土曜日。
藍が家に泊まりに来た。藍がこの家に来ることは度々あって、両親とも顔馴染であった。遊びに来ることはあっても、泊まりというのは今回が初めてで、私としても凄くワクワクしていた。
藍とは自分の心にブレーキをかけずに付き合える唯一の友であり、藍の前でだけは以前の私のように普通に話せる関係になっていた。ただ、まだ藍にさえも笑顔を見せたことは1、2度しかない。それを藍がどんな風に感じているのか私には解らない。
「藍、寝ちゃった?」
布団に入って、もう電気も暗くしていた。
「ううん、まだ」
「話しをしてもいい?」
「うん、まだ全然寝てないから大丈夫。電気つける?」
「ううん、出来ればこのままで聞いて欲しい」
私達はベッドを使わずフローリングに布団を敷いて並んで寝ていた。電気は暗くしていたけれど、豆電球だけはつけていた。
「写真立ての彼のこと」
今も変わらず空の写真の入った写真立てはそこにあった。藍はあれ以来、この写真について聞こうとはしなかった。私があんなに拒絶したからなんだろうけど。私はその写真立てを取りに立って、それを大事に持って、布団に戻った。そして、空の笑顔を見ながら口を開いた。
「私の初恋の人で、恋人だった人なの……」
うん、と藍の頷きが闇の向こうで微かに聞こえる。
「星 空っていうのが彼の名前。中学の2年の時から付き合い始めて、プロポーズもされたんだよ。ませてるでしょ? でも、本気でプロポーズしてくれて本当にうれしかった。このまま空と一緒に過ごして、大人になったら彼と結婚するんだろうなって思ってた。でもね……」
私はごくりと唾を飲んだ。静かな部屋の中でその音だけが妙に大きく聞こえた。藍だけでなく、この部屋の家具や小さな生き物さえも息を殺して自分の話を聞いている錯覚を起こした。
「空は……死んだの……」