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雨の雫  作者: 海堂莉子
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第10話

「で? その左頬の腫れはどうしたんだ?」

 こちらに背を向けて、先生がそう尋ねた。

 気付かれてないと思ったのに……。まんまとバレていて、がっかりした。

 先生が背を向けてそう尋ねたのは、きっと先生の優しさだと思う。でも、優しさついでにどうか聞かないで欲しかった。

「いえ、別に何でもないです」

 そんな言葉など信用していないのか暫く先生に見つめられ、耐えきれずに目を逸らした。その行為は明らかに何かありましたと言っているようなものだったが、先生はそれ以上何も言わなかったし、聞かなかった。その代わり打たれた左の頬にそっと触れた。

「先生?」

 その沈黙に耐えきれずに私は口を開いた。

 先生はハッとしたように目を見開くと、手を引っ込めた。

 先生のその一連の行動の意味をどう捉えていいのか解らない私は、ぼんやりと先生を見ていた。

「ほら、始めるぞ」

 たった今の出来事など何もなかったというように先生は平然とそう言った。

 私はそれに従うように鞄からペンケースを取り出した。心の動揺を抑えて。

 私は先ほどの先生の目が頭から離れなかった。怒りを隠しているような、寂しさを隠しているような、喜びを隠しているような私には理解出来ない類のものだった。だが、その瞳には忘れ難い光のようなものがあった。それは先生の意志なのか、希望なのか。

 私は先生の大きな背中を眺め、誰にも聞こえないような小さな小さな溜息を吐いた。それから田邊明日香のことを思い出した。明日香は私にやきもちを妬いたのだろう。そんな強い気持ちは私は解らなくもない。

 私だってやきもちを沢山妬いたものだ。

 空はモテたし、女の子でも男の子でも分け隔てなく気さくに話をした。

 空が私をどれだけ深く好きでいてくれているかは知っているつもりでいたが、それでも私以外の女の子と楽しそうに話していたり、笑っていたりするのを見るのは苦しいものだった。

 空は私がやきもち妬きだってことを知っていたから、そんな時は必ず私の所に来てくれて、そして、私だけに向ける特別な笑顔を見せてくれた。たったそれだけで、私の心の重みは面白いほどにぱったりと消えてしまった。

 田邊明日香は先生と心が通じ合っているわけではないので、不安が大きいのだろう。

 先生は生徒から人気があるから焦る気持ちもあるだろうし。

 罪づくりな男め……。

 先生の背中をにやりと笑って睨みつけた。

「おい。なんか殺気を感じるぞ」

 ギクッ。鋭い……。

「気のせいじゃないでしょうか」

 ふ〜ん、と疑わしいと言いたげな顔をこちらに向けた。私はその表情に全く気付かないふりをしてプリントに目を落とした。

「良かったな。友達が出来て」

 頭上から声をかけられ、目だけ上げたら、そこには思いがけず笑顔の先生がいた。一瞬、その笑顔にどきんとした。どきんとした自分に驚き、動揺を感じた。もうとっくに自分の仕事に戻っているんだと思っていた。だから、このどきんは驚いて感じた鼓動だろうと私は思うことにした。

「お陰さまで」

 先生は私がクラスで浮いた存在だったことを気にかけてくれていたんだろうか。

 先生に頭をくしゃくしゃっと掻きまわされた。

「何すんの」

 乱れた頭を両手で撫でつけながら避難した。

「お前、可愛い」

 はあ? 何言っちゃってんの……この人は。

「は?」

 そんな私の返答をへらへら笑って見ていた。

「お前には似合わないよ」

「何が?」

「さあな」

 先生は何が可笑しいのかへらへら私を見ては笑っていた。

 意味も解らず、自分のことを笑われ、腹立たしさを感じた。

 このオヤジぃ、なんか解んないけど、ムカつく。とにかくムカつく。

「煩いっ。笑わないでっ」

 私ががなり立てると先生は嬉しそうに笑った。

 なんで? なんで怒鳴ってるのに笑ってるの? そんなに嬉しそうなの?

「意味解んないっ」

「俺はお前が怒るのを見るのが好きみたいだな。マゾなのかもしれないな」

「知んないよ、そんなの。変態っ」

 怒るのが好きってどういうことよ。そんなの聞いた事もない。

 空だって……、空は、私が怒ると決まってこう言った。

『雫石の怒った顔、決して嫌いじゃないけど、やっぱり笑顔の方が好きだな、俺は』

 そして、私はこの言葉で戦意喪失、結局笑顔を見せてしまうのだ。だから、空とはいつも大きな喧嘩にまで至らなかった。

「でも、やっぱり笑顔が見たいよな。いつになったら見せてくれるのかな?」

 先生の声で、空の幻影が消えた。

「先生には見せない」

 私は先生に冷たくそう言い捨てた。先生は苦笑いを浮かべて私を見ていた。

 先生は私をなんだと思っているんだろう。猫だとでも思っているのかもしれない。警戒心の強い猫。何度も引っ掻かれて、それでも手なづけたいと思っているのだろう。そう簡単に私は懐こうなんて思わない。

 ふんっ、苦労すればいいんだ。

 私は再びプリントに目を落とした。今度こそプリントに集中した。



 それから早いもので二月の歳月が流れた。

 期末テストも終わり、あとは夏休みに入るまで、短縮授業だけだった。短縮授業期間にあっても英語の補習は何故か欠かさずにあった。

 夏休みに入れば、漸く英語から解放される。そう思えば、補習も苦にはならなかった。

 終業式の前日、その日もいつもの通り補習の為に、英語準備室へと出かけた。

 近頃では、英語を見るだけでは心は痛まなくなってきていた。ただ、まだ先生の話す流暢な英語を聞く勇気はなかった。

「先生。明日は流石に補習ないよね」

 私が問うと、先生はにやりと笑った。

 え? まさか、まさか終業式ってのにあるんじゃないでしょうね。

 私が愕然とした表情を浮かべると先生は声を上げて笑った。

「まさか。そこまで俺は鬼じゃないからな」

 私がホッとしたのも束の間、次の先生の言葉に再び地獄に落とされた。

「だが、夏休みはみっちりあるぞ」

「鬼。暇人」

 私はぼそりと呟いた。ぎりぎり先生の耳に届くボリュームで。勿論、先生に聞かせる為に。

「おおっ、そうとも。俺は暇人なんだ、悪いか」

「彼女いないんだ。かわいそっ」

 これも同じく先生の耳にぎりぎり届くボリュームで、さらに憐れみを込めて。

「たまたまいないだけだ。作ろうと思えばいつでも作れるけどな、可愛い教え子の為に時間をフルに開けておいてやる」

 先生の負け惜しみに聞こえたので、その言葉は軽く流しておいた。

「どっちにしろ夏休みは補習だぞ」

「この糞暑い中……。せめて、宿題にして」

 いつ頃からか先生とは普通に話をするようになっていた。といっても本当に普通に、必要最低限のみ。余計なことまで話すほどではないし、懐いたつもりもない。それでも先生からは懐かれたと思われているかもしれない。

 依然クラスメートとは距離を置いている。勿論、藍を除いてだが。

 派手女、田邊明日香は、私が先生と普通に話しているのを、しつこくねっとりとした目で見てくるので、彼女の前では極力話さないようにしている。面倒だから、早くくっつくなり、フられるなりしてくれればいいと思う。でも、くっついたらくっついたでまたやきもちを妬かれそうなので、先生は諦めて違う人を好きになればいいと密かに願っていたりする。私の願いは今のところ叶いそうにもない。今日も田邊明日香は隙さえあれば先生に熱い視線を送っている。先生はその視線に応えるつもりはなさそうである。実際持て余している感じが窺える。夏休みにはその田邊明日香のねっとりとした視線とも一時解放されるかと思えば、暑い夏もそれほどイヤなものじゃないかもと思ったりした。


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