1ー01 第一話〜終演の出会い
瞳を開けると、見知らぬ帳に包まれていた。
乱立した樹木。枯れ葉と土の匂い。遠雷のような鳥の声。
闇の垂れ込みと陰りの増した森の中に俺は寝転がっていた。
「えっ!」
そんなあり得ない光景に驚いて、俺は勢いよく上半身を起こす。
すると突然の動作に三半規管が付いていけず、ぐらりと視界が揺れ動いた。
「ぐっ」
俺はそのまま重い頭を支えることが出来ず下を向いた。
重力に従い、再び横になろうとする身体を地面に突き伸ばした両腕で何とか支える。
吐き気はないが目眩がする。
「………………!?」
何が何だがわからなかった。
溢れ出る思考の渦に呑み込まれそうなとき、誰かの声が降ってきた。
「目、覚めた?」
女性の呼びかけに俺は頭を垂れたまま「はい」と答えた。
脊髄反射だった。
訊ねられれば答える、という幼い頃から積み重ねた習慣が、この状況でも現れただけであった。
脊髄反射だから深く考えることもしなかったし、急に女性から声をかけられたことに驚くこともしなかった。
……まあ、簡潔にいうと混乱しているわけだが、俺にとっては女性との会話よりも薄暗い森で枯葉の上にへたり込んでいる自分自身の状態に戸惑っていた。
正直、意識は混濁していて瞳は焦点が合っていないのも実感としてわかっている。
さらに体調はすこぶる悪く、立ち上がれないことも自覚しているが、心のどこかに女性を待たせている意識があるので俺は起き上がろうと手足に力を入れた。
「無理して動かなくても良いわよ。かなり疲れているはずだからね」
「あ、はい……おかまいなく」
「ふふ、そういうわけにもいかないでしょう」
女性は俺以上に俺の身体の状態を理解しているのか、奇妙な返事にも笑って付き添ってくれていた。
俺としては情けないことこの上ないのだが、言われてみると、倦怠感が波打つように押し寄せている。
仕方なくではあるが、俯いて話すという不格好な姿勢で会話をする。
多少の気恥ずかしさを抱きながら、そのまま投げっぱなしでいる自分自身の足を見つめ続けること数分、女性と何回か受け答えをした。
会話をすると脳が機能するのか、少しずつ意識を取り戻していった。
そして時間の経過と共に、体内のズレていた感覚が修正されていくのを感じていた。
やがて、陽は遠ざかり、染み出す闇で制服ズボンの輪郭が薄れる頃になると、彼岸を見ていたような瞳に意思が宿り、手足の神経も隅々まで馴染んでいった。
俺は右手で自分の頬を軽く叩いて、垂れ下がる黒藍の前髪を掻き分けた。
そこでようやく顔を上げ、自分の状況を訊ねた。
「ここは……どこですか?」
今どこ? といった台詞は聞くが、ここはどこ? だなんて小説でしか聞いたことがないな、と思いながら傍らの女性を見上げると、暗がりの中応えてくれた。
「ここは戦場ヶ原樹海よ。それよりも貴方、何でここに来たの? ここは貴方の来て良い……いえ、来られる場所じゃ無いはずよ」
「戦場ヶ原樹海……」
俺は質問されたことよりも『戦場ヶ原樹海』という言葉に気を取られていた。
戦場ヶ原樹海は烏丸市最大の自然公園に指定されている原生林地帯のことで、ブナ、ミズナラを中心とした落葉広葉樹林で有名な場所である。
遊歩道も区画され森林浴にはもってこいの場所であり、日中は親子連れなどで賑やかになるスポットである。
しかし、夕闇に染まり日が落ちると一転して裏の顔が現れる。
ここら一帯は戦国時代の大規模な合戦場であったため、多くの戦死者を弔う慰霊碑がある。そういった性質からか、深夜に武将の霊が歩いているのを目撃したという情報も度々あるため、夜は人が寄りつかない雰囲気を醸し出している。
そんな場所に自分が居ることに少なからず驚いていた。
「聞いてる? 何でここに来たのか訊ねているの」
「え? あ、はい」
真剣な眼差しで女性は俺を見つめてきた。
暗くて細かな表情は窺えないが声には怒気を孕んでいた。
慌てて今日のことを思い返してみる。
(朝……は確か)
部活を覗くため起床してから制服に着替えたのは確かに覚えている。
しかしその後――――その後からの記憶がない。
深く考えるが、現在の自分との繋がりがすっぽりと抜け落ちている。
頭の中は不鮮明でノイズがかかり、どうしてここに居るのか思い出せない。
考えている間も女性はじっと返答を待っている様子なので、戸惑いつつも俺は自分の現状を正直に答えた。
「何でここに来たかは…………わかりません。朝は二駅離れた自宅にいました。それ以外は覚えていません」
「そう……。じゃあ、自宅で……まあ、樹海の外から憑けてきたのね」
「付けてきた? 誰が?」
俺は女性の言っている意味がわからず聞き返すが、彼女は勝手に納得すると話を切り替えて訊ねてきた。
「まあ良いわ。それより貴方、意識がはっきりしてきたようだけど自分の名前言える?」
「え、はい。大も……いえ、恵祐、恵祐です」
言い淀みながら俺は名前だけを答えた。
今の自分には名字を名乗ることに抵抗を感じたからだった。
「ふぅん、恵祐君ね。……判ったわ。私は鈴音。よろしくね」
鈴音と名乗る女性は明るい声と共に右手を突き出してきた。
俺は右手の意味がわからず、じっとその細い腕を見つめていた。
一幕の間を置いてから彼女の意図していることを理解して、慌てて彼女と握手した。
彼女の掌はひやっとしていた。
軽い挨拶を済ませた後、改めて鈴音の姿を見ようしたが、暗すぎてもう顔の輪郭しか見えなかった。
目力を強めて見つめていると、鈴音はこちらの意図を察したようですぐに反応した。
「ん? ああ、見えないよね。ちょっと待ってて」
鈴音は立ち上がると、くるりと反転して俺の側を離れていった。
枯葉や枝を踏み締める音が樹海に響く。遠ざかる足音を聞き、ひとり残されるのではないかと少し不安になったが、すぐに音が止んだ。
距離にして二〜三メートルといったところか。
今度はそこから布の擦れる音と金属のぶつかる音が聞こえる。
おそらく荷物を漁っているのだろう。
ここまで暗くなると灯りを点けるのも大変だろうな、と考えていると俺の瞳が光を捉えた。
全方向を照らす照明のようだった。
程なくして大きなショルダーバッグを背負い鈴音が戻ってくる。
揺らめく影、煌めく炎、鈴音が持ってきたのは懐中電灯ではなく古めかしいカンテラだった。
そしてカンテラ越しに鈴音の姿が映し出される。
「……何? どうかした?」
言葉が詰まった。
雰囲気と声からしてきっと美人なんだろうなとは思っていたが、俺が思い描いていた美人像が陳腐だったと思わせるほど鈴音は綺麗だった。
色素の薄い、きめ細かな肌の透明感を匂わせながら、エキゾチックな彫りの深さを思わせる鼻筋に日本人の大きな瞳。
そして両方のいいとこ取りの口許に大人っぽい絶妙なフェイスラインを描いて首へとしなやかに繋がっていた。
おそらく俺の好みだったからとか、不安なときに出会ったという吊り橋効果みたいなものだとかを差し引いても十二分に美人の類いであることがわかる。
俺はときが止まったかの様にまぶたを動かさず不躾なほど鈴音を凝視していた。
そして彼女の髪が視界に入り、静止した。
「私の顔をじっと見てどうしたの?」
「…………」
「何? もしかして私の顔に見とれたのかな?」
「…………」
「そんなまじまじと見ないでよ。恥ずかしいじゃない」
「…………」
「恵祐君?」
鈴音は百面相のようにころころと表情を変えていたが、俺の反応がないので、彼女は怪訝そうな顔つきで上体を曲げ、身を乗り出してきた。
背中に流れていた彼女の長髪がさらりと垂れ下がり、ふいに俺の瞳に映り込む。
――炎に照らされた白銀の髪だった。
その瞬間、俺の中でときが動き出し、鈴音が白髪であることに気がつくと目を見開いた。
「白髪……白……刀。……っ!」
おかしい思いつつも今まで、口に出せなかったこと。
視界の隅に追いやり、ズレた会話をして無意識に関係ないと決めつけていたが、今自身に起こった出来事が一気にフラッシュバックしていった。
「俺、何であんなこと! 死……斬られて! どうして!」
突然恐怖が押し寄せ、思わず俺は自分の両腕を抱き締める。
死の境界線を確かに垣間見たのだという残痕が、ぞぶりと心を埋め尽くす。
「落ち着いて恵祐君」
「うわぁ、来るな!!」
パニックを起こし、思わず腕を振るう。
その拳が鈴音の頬を掠める。
しかし鈴音は臆することなく俺を抱き留めた。
まだ立てない俺はそのまま抑えられる形となった。
「大丈夫、大丈夫だから」
「俺、死ぬつもりなんて」
「わかってる」
「鈴音が俺を斬った」
「怪我はないはずよ。大丈夫、きちんと説明するから」
鈴音は背中を擦りながら支離滅裂ともいえる俺の言葉ひとつひとつに応えていった。
押さえられていた俺は始めもがいていた。
そのとき、ふわりと女性特有の香りが俺の鼻腔を掠める。
それがリラックス効果に繋がったのか、程なくして自制心が働いた。
俺は次第に落ち着きを取り戻していったが、同時に恥ずかしさがこみ上げてきた。
「もう大丈夫です、あの、放して」
「そう? もういいの?」
「はい」
鈴音はゆっくり放れると俺の瞳を見て約束をかかげた。
「心配しないで。恵祐君は私が責任を持って家まで送り届けるから」
俺の両肩を優しく掴みながら、安心させる声音と自然な表情で鈴音は告げる。
その言葉と共に魅せた微笑み。一瞬だけだが俺は彼女に魅せられていた。
そして出会って間もない彼女との約束。
それは吹けば飛ぶほどの軽い口約束ではあったが、俺にとっては生涯記憶に残る確かな誓いであった。